東京日帰りツァー

2008-11-23 dimanche

東京日帰りツァー。
親鸞仏教センターというところで「現代日本の呪いと祝福」というお題で講演。
同じような話をもう三回か四回しているので、ちょっと飽きてきたなあと講演中に思ったら絶句してしまう。
絶句というのは「自分が何を話しているのかよくわからなくなる」ということではなく、自分が話していることはよくわかっているのだが、それがどうして他ならぬこの場でこの人たちを前に言わなければならないことであるのかの必然性がふとわからなくなるときに現象する。
このところ絶句して、座が重苦しい沈黙につつまれる・・・ということが何度か続いている。
これはもう「講演をやめろ」ということなのかなと思う。

続いて、丸の内ホテルで茂木健一郎さんと「ビジネス・アスキー」という月刊誌のための対談。
茂木さんがホストで、私がゲスト。「笑い」がテーマ。
茂木さんとお会いするのはひさしぶりである。
でもテレビでときどきお顔を拝見しているので、そんな気がしない。
座敷で焼酎を飲み、はりはり鍋をつつきながら、ほっこり気分で、笑いと政治、ユダヤ人の知性について、漱石と女性語について、武道の身体運用とブリコラージュについて、談論風発、時の経つのを忘れてしまう。
途中から桑原茂一さんもやってくる。
私たちの世代にとってはわすれがたい「スネークマンショ−」の、あの桑原さんである。
茂木さんとは仲良しで、私の本もご愛読くださっており、今回は「合気道について訊きたい」ということで対談の場に遊びに来られたのである。
環界とあるいは他者と身体的なレベルでコミュニケーションするためにはどういう理論、どういう技術が有効なのかというテクニカルな問題に桑原さんはいまつよい関心を持っているらしい。
私たちの話の落ち着き先は「具体的な手触りがある、節度のあるコミュニケーションの場が懐かしい」というものであった。
マスメディアの時代は終わったような気がすると私が言うと、SNS やネットコミュニケーションも期待したほどには人間のアクティヴィティを高めなかったというやや悲観的な見解を茂木さんが示した。
私も茂木さんもネットを十分に利用し、そこからたしかな利益を得ている人間であるけれど、それでもトータルでは「ちょっとだけプラスの方が多い」くらいにしか査定できないというのはさびしい話である。
それほどにネットコミュニケーションが解発した「邪悪なもの」の災厄は大きいのだ。
コミュニケーションが汚れるのは、スケールの大小の問題ではないし、どんな手段で伝達されているかという問題でもない。
規模にかかわらず、手段にかかわらず、骨肉を備えた人間が、その生身を差し出して、自分の言葉の「債務保証」をしているのかどうかという問題なのだ。
身体に担保されない言葉はどれも空語である。
茂木さんは某新聞のパーティで評論家たちが内向きの言葉しか話していないことにびっくりしたという経験を語っていた。
内向きというのは符丁ということである。
どれほどはためからはインティメイトな場であっても、そこでゆきかうのが符丁であるかぎり、それは誰の身体によっても担保されていない。
そのことに気づかない人々によって現代日本の言論が編成されているのである。
私もはやくマスメディアの仕事を止めて、「路地裏の駄菓子屋」のような小商いに戻りたい。
もう言いたいことはだいたい本に書いたし、ブログという便利な媒体だってある。
既存のメディアからお座敷がかかるのこのこ出かけて行って、見ず知らずの読者相手に言挙げすることはもう止めてもよい頃合いである。
それがなかなか止められないのは、「茂木さんに会える」とか「養老先生と会える」とか、そういう「おいしい」話には抵抗できないからである。
茂木さんとはまた来月養老先生の忘年会でお会いするので、またねと手を振って、お別れする。
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