密息と原腸

2008-11-04 mardi

『考える人』の「日本人の身体」シリーズ、今回のお相手は尺八奏者で「密息」呼吸法で知られる中村明一(なかむら・あきかず)さんである。
「密息」とはどういう呼吸法かというと…それをすらすらと説明できるようであれば、苦労はないのであるが、あえて説明させていただくと、腹部の深層筋を用いて、瞬間的に大量の(おどろくほど大量の)空気を肺に取り込み、それを自在に吐き伸ばすという呼吸法である。
実際に、その呼吸法で尺八を演奏して頂いた。
驚くべきことに、いつ息継ぎが行われたのか、外から見ているとまったくわからない。まるでノンブレスで延々と尺八が吹かれているように見える。実際には音と音の間に瞬間的な空白があって、そのときに大量の吸気がなされているのだそうである。
『密息で身体が変わる』(新潮選書)を読んで、ぜひこの呼吸法を習得して、合気道に応用しようと、「日帰り東京ツァー」に出かけた。
仕切りは新潮社のアダチさんとハシモト・マリさんといういつものふたり。
この二人と組んで仕事をするのはたいへん楽しく、またお気楽である。
どうやら私は彼女たちといると、急速に女性化(というよりは「おばさん」化)して、それが「身体文化論的『徹子の部屋』」という本連載のコンセプトにジャストフィットするせいらしい。
南烏山の中村さんのスタジオに結集したわれわれは、中村さんの音楽修業の話から始まり、倍音の魅力、呼吸法と風土、深層筋の操作方法、小津安二郎のローアングルと「水平線」など、きわめて興味深い論件について、3時間にわたりお話をうかがったあと、密息のお稽古をつけて頂いた。
呼吸法というのは要は「どの筋肉を使って、横隔膜を上下させるか」という解剖学的問いに集約される。
胸筋を使うか、腹筋を使うか、深層筋を使うか、選択肢はそれほど多くはない。
中村さんの説では、骨盤が後傾している日本人は、呼気も吸気も下腹部をしっかり張って、横隔膜を下に落とす「密息」がもっとも適している。
理屈は簡単だが、これができるようになるためには、深層筋を操作できなければならない。
表層筋は目に見えるから操作することが比較的容易であるが、深層筋は文字通り目に見えないし、家庭でも学校でも、その使い方を主題的に指導されるということもない。
「運動感覚」(kinesthesia) という術語を使うこともある。
だが、先般のブログでも書いたように、現代人は「目に見えないもの」は「存在しない」という信憑に冒されているので、深層筋の操作のような外形的には見えない身体運用には関心を示さない。
「呼吸していることが外形的にはわからない呼吸法」の習得に何の意味があるのか、現代人にはよく理解できないであろう。
それよりは、「腹筋が何段に割れる」とか「上腕二頭筋の断面直径が何センチである」とかいう可算的なものによって身体能力の向上を計測することを喜ぶ。
しかし、呼吸法が変わると、身体の編成そのものが変わる。
どう変わるのか。
これについては、福岡先生にご登場願って、説明をお願いすることにする。
福岡伸一先生の新著『できそこないの男たち』(光文社新書、ソフトなタイトルにもかかわらず、読めば賢くなる科学史本)によると、トポロジー的に言うと、人間の身体は「ちくわ」と変わらない。
消化管は「ちくわの穴」のようなものである。

「口、食道、胃、小腸、大腸、肛門と連なるのは、身体の中心を突き抜ける中空の穴である。空間的には外部とつながっている。私たちが食べたものは、口から入り胃や腸に達するが、この時点ではまだ本当の意味では、食物は身体の『内部』に入ったわけではない。外部である消化管内で消化され、低分子化された栄養素が消化管壁を透過して体内の血液中に入ったとき、初めて食べ物は身体の『内部』、すなわちチクワの身の部分に入ったことになる。」(福岡伸一、『できそこないの男たち』、光文社新書、2008年、148頁)

人間の身体に開口している穴は実はすべて一種の「袋小路」なのであり、「本当の内部」ではない。

「耳の穴もそうだし、汗腺や涙腺のように体液が出てくる穴も、その穴に周囲の壁から液がにじみ出てくるだけで、その穴の底は閉じている。(…) したがって、トポロジー的に考えたとき、人間の身体は単純化すると本当にチクワのような中空の管に過ぎない。消化管以外の穴はすべてチクワの表面に爪楊枝を刺して作った窪みでしかないことになる。」(149頁)

しかし、これは少しも驚くには当たらないのである。
というのは人間の遠い祖先はミミズやナメクジのような動物だからである。

「彼らはまさに1本の管である。口と肛門があり、その間を中空の穴が貫いている。わずかに眼の原型のようなものがあり、進む向きがあり、土を食べる側があるので、かろうじて、どちらが口でどちらが肛門かが判別できる。脳と呼ぶべき中枢の場所は全く定かではない。むしろ、神経細胞は、消化管に沿って、それを取り巻くようにハシゴ状に分布している。」(149頁)

にもかかわらずミミズは「思考する」ことが実験的に確かめられている。
ミミズの生命活動は消化管に沿って分布する神経ネットワークによってコントロールされているわけであるから、「もし、彼らに、君の心はどこにあるの?と訊ねることができ、その答えを何らかの方法で私たちが感知することができたとすれば、彼らはきっと自分の消化管を指すことだろう。」(150頁)

生物の生命活動の中枢は消化管にある。
チクワがどうした、といわれそうであるが、まあ、聴いて下さい。
昨日の中村さんとの話で福岡先生の話との符合に驚いたのは、密息では、骨盤を後傾させて、鼻腔から仙骨までを貫く1本の「管」を作り、そこに吸気を落とす、という比喩を使われたからである。
身体を上下にまっすぐ貫く1本の管に空気が吸い込まれ、また吐き出される。
その図像的比喩は腹式呼吸でよく用いられる「風船が膨らみ、しぼむ」という比喩とはトポロジー的にずいぶん異なる。
風船は「袋小路」だが、管は「突き抜け」だからである。
「密息」という語感から、この呼吸法を何か体内の秘密の場所で秘密裏になされる呼吸のように感じる人もいるかも知れないけれど、私が中村さんの密息呼吸法と、そのお人柄とたたずまいの全体から感じたのは爽快なほどの「突き抜け」感であった。
もちろん、中村さんは紋付袴姿であり、着物の着付けが骨盤の後傾のコントロール上の重要な指標となることを指摘されていた。
前に三砂ちづる先生から聞いたけれど、「着物の着付け」の要諦は「一本の管に布を巻き付ける」ように着る、ということだそうである。
あら、ここでも「管」が。
そういえば、尺八というのも、1本の竹の「管」に穴を開けた楽器である。
あら、ここでも「管」が。
生物の分節は「管」より始まる。
まず「管に還れ」と。話はそれからだ。
中村さんも福岡先生も三砂先生も、なんだか「同じこと」を言っているような気がしているのは私だけであろうか。
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