人を見る目

2008-11-03 lundi

山形浩生さんが少し前にノーベル賞について、「ノーベル賞受賞者数を政策目標に使うような発想は、ぼくはゆがんでいると思う」と書いている。

「それは自分では評価できませんという無能ぶりを告白しているに等しい。だからぼくは日本に必要なのは、ノーベル賞受賞者そのものより、研究や業績を王立科学アカデミー並みの見識と主張をもって評価できる人や組織の育成じゃないかと思うのだ。日本でも、何かノーベル賞に比肩するような世界的な賞を作ってみてはどうだろうか?(…)
もちろん・・・おそらく無理だろう。日本ではそんな賞はすべて地位と経歴と学閥内の力関係で決まり、下馬評は事前にだだ漏れとなり、受賞目当てのロビイングが横行し、結果としてだれも見向きもしないつまらない賞になりはてるだろう。それが日本の問題なのだ。」(「論点」、毎日新聞、10月31日)

山形さんの言うとおりだと私も思う。
私たちの社会のたいへん深刻な問題のひとつは「人を見る目」を私たちが失ってしまったということである。
誰にでも見えるものなら「人を見る目がある」とか「ない」とかいうことは言われない。
ごく例外的に見識の高い人にだけ「見えて」、そうではないひとには「見えない」からこそ、「人を見る目」という熟語が存在するのである。
というのは「人を見る目」というのは、その人が「これまでにしたこと」に基づいて下される評価の精密さのことではなく、その人が「これからするかもしれない仕事」についての評価の蓋然性のことだからである。
「この人はもっさりしているが、いつか大きな仕事をするに違いない」「この人はずいぶん羽振りのいい様子をしているが、そのうちに大失敗するに違いない」「この人はずいぶん恭順な様子をしているが、そのうち私の寝首を掻く気でいるのであるな」などなど、「まだ起きていないこと」についての予測の確かさのことをもって「人を見る目」と称するのである。
だから、「人を見る目がある人」には「見える」ものが「人を見る目がない人」には見えない。
だから、「目のある人」には見えるものが自分に見えない場合には「不明を恥じる」と言って、肩身が狭い思いをするというのがつねであった。
しかるに、この風儀はアメリカン・グローバリズム(というのは「ローカルな普遍性」と同じく形容矛盾だが)の到来とともに消失した。
グローバリズムというのは、「誰にでもわかるもの」を基準にして、すべての価値を考量することである。
「わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない」ようなものは、グローバリズムの風土では「存在しないし、存在してはならない」のである。
そのようなものを感知する能力をいくら高めても、社会的能力としては評価されない。
であれば、そのような能力の開発にリソースを注ぐ人間はいなくなるのが道理である。
結果的に、私たちの社会では、家庭でも学校でも企業内でも、「人を見る目」の涵養プログラムには指一本動かさなくなった。
あらゆる場合に、私たちは判断の当否について客観的根拠(言い換えれば「数値」)を要求される。
数値をもって示すことのできない「知」は知としては認知されない。
Evidence based という考え方それ自体はむろん悪いことではない。
けれども、evidence で基礎づけられないものは「存在しない」と信じ込むのは典型的な無知のかたちである。
というのは、私たちが「客観的根拠」として提示しうるのは、私たちの「手持ちの度量衡」で考量しうるものだけであり、私たちの「手持ちの度量衡」は科学と技術のそのつどの「限界」によって規定されているからである。
顕微鏡の倍率が低かった時代には、顕微鏡で見えない病原体が存在すると考えている人は誰もいなかった。
福岡伸一先生の『生物と無生物のあいだ』を読むと、細菌よりはるかに微少な病原体が存在することを発見したのはディミトリ・イワノフスキーであると書いてある。
彼は陶板を使って、当時の顕微鏡の解像度では見ることが出来ない感染粒子が存在することを「証明」した。19世紀末の話である。
ただし、イワノフスキーの証明は「何かが存在すること」を実定的に証明したわけではない(だって当時の科学技術の枠内ではウイルスは「見えない」んだから)。
「見えないもの」が存在すると仮定しないと、「話のつじつまが合わない」ということを証明したのである。
このような態度を「科学的」と呼ぶのだろうと私は思う。
そこに「何か、私たちの手持ちの度量衡では考量できないもの」が存在すると想定しないと、「話のつじつまが合わない」場合には、「そういうものがある」と推論する。
「存在する」と想定した方がつじつまがあうものについては、それを仮説的に想定して、いずれ「話のつじつまが次に合わなくなるまで」使い続ける、というのが自然科学のルールである。
そうやって分子も、原子も、電子も、素粒子も、「発見」されてきた。
ところが、いま私たちに取り憑いている「数値主義」という病態では「私たちの手持ちの度量衡で考量できないもの」は「存在しないもの」とみなさなければならない。
同じように、私たちの現在の自然科学では、「未来はわからない」ということになっている。
だから、「人がなしたこと」については評価は可能だが、「人がこれからなすこと」についての評価は不可能であるということになっている。
しかし、「人がこれからなすこと」については現に高い確率でそれを言い当てている人が存在する。
「人を見る目がある人」というのは、まさにそのような人のことである。
そういう人が現に存在し、その能力により、災厄を未然に防ぎ、リソースの重点配分に成功しているなら、「どうしてそういうことができるのか?」をまじめに問うべきではないのか。
「なぜ、ある種の人は時間を『フライング』することができるのか?」と問うべきではないのか。
先日、ある新聞に宗教について書いた。
その中で「『超能力』や『霊能力』のようなものは現に存在する」と書いたら、科学部の編集委員からたちまちクレームがついた。
「と思う」を付け加えろという。
ふだんなら、「あ、いいすよ」と応じるのであるが、このときはなに「かちん」と来たので、断った。
「と思う」を入れろというのなら、原稿はボツにしてくれと申し上げた。
別に私はその新聞の社説を書いているのではない。
署名原稿で自説を書いているのである。
私がいくら「存在する」と断言しようと、それは私の「私念」であり、国民的合意を得るまでにはまだ長い道のりが必要である。
私は「そういう能力が存在する」ということを前提にしないと「話のつじつまが合わない」事例があまりに多い場合には、自然科学の骨法に倣って、仮説として「存在する」ということにして話を進めているのである。
誰かが、「存在しない」という条件でも、これらの事例のすべてを説明できることを証明してくれたら、私はもちろんただちに自分の仮説を書き換えるであろう。
あらゆる科学的命題はそのつどの科学技術の(おもに計測技術の)限界によって規定された暫定的な仮説であり、(しばしば計測技術の進歩によって)有効な反証が示されれば自動的に「歴史のゴミ箱」に棄てられる。
「超能力」とか「霊能力」と呼ばれる能力は現に存在する。
ただ、私はそれを別にそれほどスペクタキュラーな能力だと思っていない。
潜在的には誰にでもあり、それが開花するきっかけを得た人において顕在化している、ということだと思っている。
せっかく万人に共有されている潜在能力であるなら、開発して、「災厄を未然にふせぎ、限られたリソースを重点配分する」ことに役立てればよいと思うので、「そのような能力」の成り立ちと操作方法について研究しているのである。
別にいばって言うほどのことではなく、5万年ほど前から、人類の先達たちがずっとやってきたことである。
ただ、この数十年マスメディアではこの件についてはまったく報道しなくなったというだけのことである。
それはメディアの側の事情であって、私のあずかり知らぬことである。
けれども、私たち日本人の「霊的感受性」が驚くべき劣化を遂げたことにメディアは共犯的に関与していると私は思っている(新聞はそれを組織的に無視することによって、テレビはそれを「見世物」に貶めることによって)。
たまたま新聞から宗教の問題について問われたから、メディアが宗教と、ひろく霊にかかわる問題を組織的に無視してきたことが、現代人の「見えないものを見る」能力の劣化の重大な原因であるという私見を述べたのである。
結局、原稿はもとのままで掲載されることになった。
話をもとに戻そう。
日本人は「人を見る目」を失ったという話をしていたのであった。「人を見る目」というのは、突き詰めて言えば、目の前にいる人の現実の言動を素材にして、その人の「未来」のある瞬間における言動をありありと想起することである。
別にむずかしいことではない。
それは「こういう状況でこういうことを言っていた人間」が「それとは違う状況」に置かれた場合にどのようにふるまうかについての先行事例の膨大な蓄積がこちらにあれば、数年後のその人の表情や口ぶりくらいは簡単に想像できる。
私たちは根拠にもとづいて「推理」しているのである。
しかるに、この推理の根拠は数値的にはお示しすることができない。
推理の根拠が存在しないからではない。推理の根拠が限られた時間内に列挙するには「あまりに多すぎる」からである。
シャーロック・ホームズは事件の解決後にワトソン君にうながされて「ホームズ、どうして君は彼が犯人だとわかったんだ」という問いに答えを与える。
ホームズは理由を教える。
「ちょっと『ひっかかったこ』とがあってね」
その「ひっかかり」を手がかりにホームズは真相を明かす、動かぬ証拠にたどりつく。
ホームズが「ひっかかる」のは、そこに「あるべきものがない」か「あるはずのないものがある」からである。
はじめて立ち寄った現場で、ホームズは「あるべきもの」と「あるはずのないもの」の膨大なリストを瞬間的に走査する。
どうして「そんなこと」ができるのか、それをホームズは説明しない。
それはマルクスやウェーバーやフロイトが現に世界のすべてのできごとを説明しておきながら、「どうして自分には世界のすべてのできごとを説明できるのか」を説明できないのと同じである。
ポランニーはこれを「暗黙知」と呼んだ。
フッサールは「先験的直観」と呼んだ。
何と呼んでも構わない。
哲学者たちが言っているのは、「見えないはずのもの」が私たちには現に見えている、ということである。
その「直観」の構造を解明しようとして、先人たちはたいへんなご苦労をされてきた。
私はその先哲の偉業を多とし、せめて「人を見る目」の涵養プログラムくらいは学校教育に取り入れたいと念じているのである。
慎ましい望みだとは思うのだが、山形さんの悲観的見通しに与するならば、これもまた不可能な企てのようである。
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