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親密圏と家族

N経済新聞社から難波の個室ビデオ放火殺人事件についての電話コメントを求められる。
別にこの事件に興味ないんですけど・・・と言いながら結局40分くらいしゃべってしまう。
容疑者は46歳で、もとM下電器のサラリーマンである。ちゃんと学校を出て、結婚もし、妻子もあり、家もあった「中流の人」である。
それがここまで一気に転落する。
転落を途中で食い止めるための「セーフティネット」が機能していなかったということである。
親から家を相続して、それを売ってしばらく糊口をしのいだ時期がある。親からの贈与が「セーフティネット」として一時的には機能したのである。
けれども、それに続くものはもうなかった。
現代社会に「セーフティネットがない」ということ、その整備が必要であることは政治学者も社会学者も心理学者も指摘する。
けれども、その場合の「セーフティネット」とはいったい何のことなのだろう。
行政による貧窮者への公共的な支援のことなのだろうか。
たしかに生活保護を受給すれば、税金によって餓死や凍死はまぬかれることができる。
けれども、それは最低限の生活を保証する緊急避難的な措置であって、個人の自尊感情や自己達成感とはかかわりがない。
しかし、実際に今度の事件の容疑者を追い詰めたのは単なる物質的な窮乏というよりはむしろ「誰からも敬意を持たれない。誰からも期待されない。誰からも愛されない」というメンタルな欠落感だったのではないであろうか。
こういう危機的状況に陥った人にパンとベッドを与え、慰めと癒しをもたらすどのようなセーフティネットがありうるのだろう。
まず「家族」を考えるのがふつうだろう。
幼児のときも、病人のときも、退学させられたときも、失職したときも、私はホームレスにならずに済んだ。
それは家族の支援があったせいである。
私は内田家のみなさまのご高配によって今日まで馬齢を重ねることができたのである。
だが、いまセーフティネットの整備の喫緊であることを主張する人は多いが、家族の紐帯を打ち固めることの喫緊であることを主張する人は少ない(というかほとんどいない)。
どうして経験的にもっとも有効であることが知られているセーフティネットの整備に人々はかくも不熱心なのであろう。
それには理由がある。
セーフティネットは必要だが、それは家族であってはならないというのがごく最近まで(たぶん今でも)公式には「政治的に正しい」意見とされているからである。
嘘だと思う人がいるかも知れないけれど、ほんとうなのである。
ちなみに日本の良識の府である岩波書店刊の『応用倫理学講義5』性/愛所収の「親密圏」の項を引用してみよう。
「親密圏とは、親密な関係を核として、ある程度持続的に互いの生への配慮を共有する他者と他者の関係性であると定義できるだろう。ここでわざわざ『他者』というのは、互いが別個の、対等な人格であることを確認するためである。一心同体的な共生関係には、必ず強者による弱者の支配が入り込んでくるからだ。親密な関係とは、互いに『他者』である相手の存在を承認しあう関係であると定義したい。」(井上たか子、「親密圏」、『応用倫理学講義5』、岩波書店、2004年、240頁)
「親密圏」は家族ではない。
というのは、家族こそはありうべき親密圏の登場を阻んでいる障害物だからである。
井上によると、近代国家の誕生とともに登場した「近代家族」は「親密な関係性を育むことを一義的な目的として制度化されたものではなかった。女性には、近代国家の建設のために、次代を担う『質のよい』国民を養成するという役割が求められ、母性愛という神話が形成される。」
女性はそのようにして「国家や市場という公領域の構成員を再生産するために、家族という私領域に封じ込められたのである。」(同、241頁)
夫婦愛は外で働く男たちを慰撫し、再生産過程に再び送り出すための「近代家父長制の成立のための必要条件」であり、母性愛は女性を性的奴隷の地位に釘付けにし、「国民」の再生産を促すための抑圧的な心理機制であった。
だから、夫婦愛や母性愛や「一心同体的」な共同性に基礎づけられた近代家族は解体され、個人は家族から解放されなければならない。
家族から解放された個人が帰属する先こそは「近代家族からの解放・自由のためのオルタナティブとしての新たな関係性」としての「親密圏」である。
書き写していて、ストックフレーズの乱れ打ちになんだかげんなりしてきたが、こういう理説が現在でも、大学の「女性学」や「ジェンダー・スタディーズ」では教科書的に教えられている。
論理的には整合的な理説である。
けれども、この議論はたいせつなことを勘定に入れ忘れている。
それは「親密圏論」が徹底的に「強者の論理」だということである。
親密圏論を語る人の多くは、それなりの収入や年金を保証された大学教員やジャーナリストであり、退職後も長期にわたって文化的な活動を通じて社会的なレスペクトを維持できる「見通し」がある。
だから、彼らは親密圏を形成して、そこで同類たちと「支え合う」暮らしを理想化することができる。
扶養すべき子どもも、介護すべき親も、気づかわなければならない配偶者も持たず、自分と同じようにリッチで、知性的で、趣味がよくて、気の合う仲間たちと「支え合って」暮らすのはどれほど愉快なことであろうか。
だが、問題はこの「親密圏」に弱者の入る余地はあるのかということである。
現に、「金のないもの、知的能力の劣るもの、趣味の悪いもの、イデオロギー的に間違っているもの(セクシストとか)」は「おひとりさま」たちの「老後の親密圏」には参入資格がない。
一方、仮に最初は十分な会員資格のあるものでも、何かのはずみで収入源を失ったり、重病になったり、障害を被ったり、精神的に不安定になったりして、まわりの人からの片務的なケアが必要になると、これもフルメンバーの資格に抵触する。
というのは、井上自身が書いているように、この親密圏は「互いが別個の、対等な人格であること」を成立条件としているからである。
親密圏のメンバーは「対等」であることを要求される。
年収において、社会的威信において、情報量において、文化資本において、その他もろもろの条件において「対等」であることがメンバー条件となる。もし、非対等的に社会的能力の高い人間や低い人間が入り込んできた場合、そこには「強者による弱者の支配」が成立するリスクが生じるからである。
親密圏から排除されたら生きてゆけない人、その人が親密圏から出て行ったら残ったメンバーが生きてゆけない人、そのような能力において「非対等的」なメンバーは親密圏に参入することが許されない。
つまり、親密圏にとってもっとも重要なメンバー条件は
(1)お互いが見分けがたく似ていること
(2)自立する能力が高いので、他のメンバーに依存する必要がないこと
ということになる。
言い換えると、「その人が親密圏にいてもいなくても、本人も困らないし、まわりの人も困らない人間」であることである。
そのような人間だけが親密圏を構築することができる。
なるほど。
そのような人間になるべく人格陶冶に励むことがどうして喫緊の思想的課題であるのか、私にはよく理由がわからない。
井上が忌避する「家族」は「親密圏」とは逆に、「非対等」を原理とする集団である。
そこではメンバーのうちで「もっとも弱い者」を軸に集団が構成される。
もっとも幼いもの、もっとも老いたもの、もっとも病弱なもの、もっとも厄介ごとを多くもたらすもの、それが家族たちにとっての「十字架」である。
これをどうやって担ってゆくかということがどこでも家族の中心的な(わりと気の重い)課題である。
だが、この「もっとも弱いもの」は本人の意思でそうなったわけではない(人は自分の意思で生まれたり病気になったり死んだり市民的成熟を遅らせたりすることはできない)。
私たちは誰でもかつては幼児であり、いずれ老人になり、きわめて高い確率で病人や障害者になり、よほど幸運に恵まれないと市民的成熟を果たせない。
だから、「家族の十字架」というのは実は「私の可能態の」ことなのである。
幼児とは「過去の私」のことであり、老人とは「未来の私」のことであり、病人や障害者は「たまたまある分岐点で『あっち』に行った私」である。
私たちは時間差を置いて、あるときはこの「十字架」を担う側にまわり、あるときは「十字架」として担われる側にまわる。
トータルではだいたい「とんとん」である。
家族は相互に迷惑をかけているか、かけられているかいずれかであり、赤ちゃんとして迎えられてから、死者として送り出されるまで、最初から最後まで、全行程において、そのつどつねに他のメンバーと「非対等」の関係にあるのである。
家族において「対等」ということはありえない。
どれほど知的にも情緒的にも「対等」な夫婦においても、毎日の生活の中では、どちらか余裕のある方が相手を配慮し、気づかい、支え、激励し、余裕のない方がそのような支援を受ける側にまわるということは避けがたい。
もっとも安定的な家族とは、役割が固定している家族ではなく、むしろ「気づかう人間」と「気づかわれる人間」が局面ごとに絶えず入れ替わるような流動性のある家族だろうと私は考えている。
その消息は「対等」というような空間的な表象形式では語ることができない。
「近代家族」にさまざまな問題点があることを私は認める。
けれども、それに代わる「オルタナティブ」の緊急であることを語るのであれば、それが「近代家族」の担ってきた(かなり痩せ細ったものにはなったが)「セーフティネット」としての機能をどのように代替できるのか、その根拠を示してもらわなければならない。
「親密圏」は「強者が強者でいられる限り、主体が主体性を発揮できる限りのセーフティネット」としては機能するだろう。
けれども、それは家族の中でもっとも「手の掛かる人物」がなお自尊感情を維持したまま生きていけるような家族をどうやって再生するかという問題には何の答えも提供しない。

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2008年10月15日 17:15 に投稿されたエントリーのページです。

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