ノーベル文学賞の日

2008-10-09 jeudi

今日はいよいよノーベル文学賞の発表である。
村上春樹氏ははたして今年ノーベル文学賞を受賞するであろうか。
物理学賞、化学賞と立て続けに日本人受賞者が輩出しているので、今年は「日本イヤー」になるかも知れない。
というわけで、新聞社から「村上春樹ノーベル文学賞受賞のコメント」の予定稿を求められる。
今回は S 新聞、K 新聞、Y 新聞の3紙から求められた。
S 新聞には過去2回書いているので「三度目の正直」。
私のような門外漢に依頼がくるのは、批評家たちの多くがこの件についてのコメントをいやがるからである。
加藤典洋さんのように、これまで村上文学の世界性について長期的に考えてきた批評家以外は、村上春樹を組織的に無視してきたことの説明が立たないから、書きようがないのである。
だが、説明がつかないから黙っているというのでは批評家の筋目が通るまい。
批評家というのは「説明できないこと」にひきつけられる知性のことではないのか。
自前の文学理論にあてはめてすぱすぱと作品の良否を裁定し、それで説明できない文学的事象は「無視する」というのなら、批評家の仕事は楽である。
だが、そんな仕事を敬意をもって見つめる人はどこにもいないだろう。
蓮實重彦は村上文学を単なる高度消費社会のファッショナブルな商品文学にすぎず、これを読んでいい気分になっている読者は「詐欺」にかかっているというきびしい評価を下してきた。
私は蓮實の評価に同意しないが、これはこれでひとつの見識であると思う。
だが、その見識に自信があり、発言に責任を取る気があるなら、授賞に際しては「スウェーデン・アカデミーもまた詐欺に騙された。どいつもこいつもバカばかりである」ときっぱりコメントするのが筋目というものだろう。
私は蓮實がそうしたら、その気概に深い敬意を示す。
メディアもぜひこれまで村上春樹を酷評してきた批評家たち(蓮實や松浦寿輝や四方田犬彦などなど)にコメントを求めて欲しいものだと思う。
私は村上春樹にはぜひノーベル文学賞を受賞して欲しいと切望しているが、それは一ファンであるというだけの理由によるのではなく、この出来事をきっかけに日本の批評家たちにおのれの「ローカリティ」にいいかげん気づいて欲しいからである。
純文学の月刊誌の実売部数は3000部から5000部である。
この媒体の書き手が想定している読者は編集者と同業者と、将来編集者か作家か批評家になりたいと思っている諸君だけである。
そのような身内相手の「内輪の符丁」で書くことに批評家たちはあまりに慣れすぎてはいないか。
井上雄彦は一頁描くごとに、彼の新作を待ち焦がれている世界各国、言語も宗教も政体も風俗も異なる数億の読者を想定しなければならない。
世界各国の読者を想定して創作し、現に世界各国の読者に待望されている作家を私たちの社会はすでに多数生み出している(鳥山明も大友克洋も宮崎駿も押井守も)そうだ。
そのような世界的な作家が何を考え、どのような技術を練磨しているのか、それを批評家たちは想像できるのだろうか。
私は懐疑的である。
第一、世界的な作家を批評している人たちのうち、自分の批評的な文章が「日本以外の国々の読者に読まれること」を想定して(せめてそれを希望しつつ)作文している人間が何人いるだろうか。
私はほとんどいないと思う。
村上春樹は批評を一切読まないと公言している。
その作家がノーベル文学賞を受賞した場合、日本の批評家たちはなぜ彼らの仕事が村上からこれほど軽んじられたのか、またなぜ彼らは村上文学の世界性を予測できなかったのか、その意味を今でも理解できないでいるのか、その説明責任を負うだろうと私は思っている。

追記・残念ながら、村上春樹さんのノーベル文学賞受賞はなく、ル・クレジオが受賞することになった。
電話をかけてきた某新聞社の記者は「ル・クレジオって、ご存じですか?」と訊いてきた。まわりにいた記者たちの誰も名前を知らなかったそうである・・・
かわいそうなル・クレジオ。
1970 年には大学生たちのアイドルだったのに。
だから、「まだもらってなかったのか」と私は驚いたのであった。
フィリップ・ソレルスとかマルグリット・デュラスとかはどうなのであろう(もう死んじゃったのかな)。
さて、その村上春樹さんノーベル文学賞受賞幻の予定稿であるが、せっかくであるのでここで公表することにしよう。

 「村上春樹ノーベル文学賞受賞」についてのコメントの予定稿を用意して、結局使わずじまいということがここ二年続いた。この原稿(もちろん予定稿)こそはぜひ紙面に載って欲しいものである。
それにしてもどうして「村上春樹のノーベル文学賞受賞」というような日本文壇をあげてことほぐべき事件についてのコメントが私のような文学と無関係なものに回ってくるのか、それが問題である。おそらく日本の批評家の中にこの受賞を慶賀したい気分の人が(加藤典洋さんのような例外を除いて)ごく少数にとどまっているからであろう。
村上文学に対する世界的評価と、国内文壇のほとんど組織的な無視の落差に私は興味がある。どうして村上春樹はこれほど文壇から嫌われるのか。ノーベル文学賞受賞を奇貨として、その問いについて考えたみたい。
村上春樹はその登場のときから、批評家たちから厳しい批判を浴び続けてきた。その作品が 80 年代の消費文明と浮き草のようなシティライフを活写したせいで、多くの都市生活者たちに「まるで自分のことを描かれているようだ」という(幸福な)錯覚を与えたことは事実である。けれども、高度消費社会の都市生活者が選好するものはすべて「商品」だという推論は論理的でない。現に、批評家たちの多くが「高度消費社会固有のファッショナブルな知的消耗品」とみなした村上春樹の文学は、いつのまにか世界性を獲得して、全世界数十ヶ国語に訳され、多くのフォロワーを出すに至った。言語も政治経済体制も宗教も違う場所に、村上春樹はきわめて熱心な大量の読者を獲得している。それは村上文学がローカルな意匠を通じて、人類全体の琴線に触れる「本質的な物語」を綴ってきたからであると私は思っている。
では、村上春樹が書く「本質的な物語」とは何か。このような重大な論件について、与えられた字数で意を尽くすことは不可能であるが、ひとことだけ言えば、それは「死者とのコミュニケーション」である。村上文学の主人公たちはほとんど全員が「そこにいない人」(しばしば死者たち)を尋ねる仕事を主務とし、「死者」からの聞こえるはずのないメッセージにひたすら耳を澄ませ、「死者」からの言葉をおのれの行動の規矩としようとする。「死者からのメッセージ」を聴き取る能力(または聴き取らねばならないという有責感)が村上文学の主人公を特徴づけている。この能力(あるいは有責感)を軸に生きることをかつて孔子は端的に「礼」と呼んだ。「霊的な生き方」と呼ぶこともできるだろう。
死者からのメッセージをただしく受信することこそが人間の本務であるという信念は世界中のすべての社会集団に共有されている。村上春樹が世界中で読まれているのは、その前衛性によってでも、先端性によってでもない。おそらくはその太古性においてである。
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