朝の読書

2008-10-08 mercredi

卒論中間発表。
今回は2人欠席で13名が20分間ずつ発表。
正午に開始して、終了したのが6時。
うう、疲れたぜい。
どれもたいへん面白い発表だった。「裁判員制度」や「女子大の存在意義」や「おひとりさま」や「消費者参加型マーケティング」については、そのつどこのブログで自説を述べたので、今回はまだ一度も言及していないトピックについて。
「朝の読書」である。
ウィキペディアの説明を貼り付けておく。
「朝の読書運動は小・中・高等学校において、読書を習慣づける目的で始業時間前に読書の時間を設ける運動。個々の学校や担任単位で 1970 年代から各地で行われてきたものであるが、1988 年の東葉高等学校の運動をきっかけに全国に広まった。とくに小学校で盛んである。
読書時間は 10 分から 15 分程度である。生徒が持参した、あるいは学級文庫の中から選んだ本を読む。とくに小学生を対象として、読書教材を少ないページ数でまとめて短時間で読めるように編集された読み物シリーズなどを刊行する出版社がある。
文部科学省が、2001 年を「教育新生元年」と位置づけ、「21 世紀教育新生プラン」と銘打って、あいさつのできる子、正しい姿勢と合わせて、朝の読書運動を三つの柱のひとつとして取り上げてから盛んになった。文部科学省は5年計画で 1,000 億円を図書購入の費用として支援する。
ゲーム依存の強い子どもたちに、読書する楽しみや喜びを体験させることは、一斉に読書というかたちであれ、益するところがあるのではないかと考えられている。」

それがどうした、と言われそうであるが、私もずっと「それがどうした」と思って、この運動について無関心であった。
朝の10分やそこら、手近の本をぱらぱらめくったくらいで「読書」になるものか、と思っていたからである。
ところが、卒論の発表の中で「朝の読書は国語の勉強ではありません」という話と、「朝の読書をすると記憶力が向上することが知られている」という指摘に「びびび」と来たのである。
そ、そうだったのか。
私が「朝の読書」ということの有効性をうまく理解できなかったのは、「読書」という語に惑わされていたからである。
あれは「読書」ではなく、「読字」だったのである。
私は重度の「活字中毒」であるが、これは必ずしも「面白い本が読みたい」ということを意味していない。
字が書いてあれば何でもいいのである。
現に、電車の中で本を読み終えてしまうと、私は巻末のカタログを熟読し、奥付を読み、中吊り広告を読み、窓に貼ってある広告(「わきがのことはオレにまかせろ!」などというのを)を熟視する。
これはどう考えても「読書」ではない。
私はおそらく「字を読む」ことそれ自体をはげしく欲望しているのである。
橋本麻里さんも子ども時代から強度の活字中毒で、家中の本を読みあさり、ベッドの中でも読み続けたせいでたちまち近視になったそうである。

「慌てた両親は読書禁止令を出したが、海苔の佃煮の瓶に貼られたラベルを、何度も舐めるように読み返している娘の姿に哀れを催したのか、禁止令はいつの間にかうやむやになってしまった。佃煮のラベルも、読み込めばそれはそれで結構面白い」(『街場の現代思想』の解説から)

そう、これである。
読む本がなくなると、海苔の佃煮の瓶のラベルでも、風邪薬の効能書きでもなんでも「舐めるように読み返す」のが活字中毒者である。
あきらかにコンテンツには副次的な重要性しかない(というか、副次的な重要性さえない)。
重要なのは「文字を読むこと、それ自体」なのである。
脳の一部が「読む」という行為が随伴するある種の生化学的な反応を求めているのである。
どういう生化学的な反応か知らないけれど、網膜に活字が投射されることを脳が要求しているのである。
この要求に屈服して、継続的に活字を脳に供与しているうちに私たちは晴れて「活字依存症」というものになる。
おそらく「文字を読む」という動作には二つの層が存在するのである。
第一の層では「図像」情報としての活字が絶えず入力されている。図像であるから、意味なんかどうだっていいのである。そもそもシーケンシャルに読む必要さえない(「読む」というより「見てる」んだから)。
おそらく、この第一の層において文字情報は図像として一挙に与えられる。
私たちが絵を見ているときに、まず全体を一望して、興味のある細部にそのあと個別的に注視するのと一緒で、まず文字情報は全体として一望的に与えられる。
そして、その後に、脳内に入力されたこの文字情報を私たちは意味レベルで(つまりシーケンシャルに)処理するのである。
何度も引いている話だが、『どくとるマンボウ青春記』の中に、北杜夫がトーマス・マンに心酔していたころに、仙台の街を歩いていて「ぎくり」として立ち止まるという話がある。
どうして「ぎくり」としたのか知ろうとしてあたりを見回すと、酒屋に「トマトソース」という看板がかかっていた、という話である。
「トマトソース」から「トーマス・マン」を読み出すためには、文字順を入れ替えるだけではなく、二つある「ト」を一つ読み落とし、一つしかない「マ」を二度読み、「ソ」を「ン」と読み違え、最後に「・」を付け加えるという作業をせねばならない。
私たちの脳はこれほど手間のかかることを一瞬のうちにやっているのである。
一瞬のうちにそこまで「下ごしらえ」を済ませておいて、それから私たちはようやくそれを「読む」段階に達するのである。
「読字」というのは、この「第一の層」の機能なのである。
北杜夫もまたこの時期重度の活字中毒であり、朝から晩まで、文字入力作業をひたすら続けていた。
そして、文字入力能力がある限界を超えた。
この限界を超えると、頁を開いただけで「見開き2頁分のすべての文字が瞬間的に入力される」ということが可能になる。
もうすでに2頁は一望的には読み終えているのである。
一望的に読み終えた文字列をシーケンシャルに再読するというかたちでいわゆる「読書」が始まる。
それは私が例えば小津安二郎の『秋刀魚の味』を見るときの感覚に近いといえば近いであろう。
私はその映画の中のほとんどすべてのシーンを記憶しており、ほとんどすべての台詞を諳んじている。
にもかかわらず、その「もう見た映画」の上に、シーケンシャルに映画が展開してゆくときに、私は繰り返し深い愉悦を覚える。
記憶と現実の微細な差異(場面の一部についての入力漏れや、台詞についてのわずかな記憶違いなど)が「和音」のようなものを奏でるのである。
私たちは頁を開いたときに2頁分の文字情報の入力をもう終えている。
終えた後に、私たちは「もう読んだ文章」を「まだ読んだことがないふりをして」再読するのである。
それはタイムマシンで5分前の世界に逆戻りした人間のありように似ている。
自分のまわりで起きていること、会う人、その人が言う言葉、その人の表情、それはすべて「もう知っていること」なのである。
けれども、ものには手順があり、世界には秩序があるから、「もう知っていること」だからやらず済ますというわけにはゆかない。
同僚から「おはよう」と言われたら、オレは五分前にそれにもう「おはよう」と返事したんだから、今回はパスねというわけにはゆかない。
五分前に自分がやった通りのこと、言った通りのことをもう一度繰り返さないといけない。
すでに知っていることを、もう一度「知らないふりをして」繰り返す。そこには当然ながら「既視感」と、「私はこれから起こることも全部知っているのだ(みんなは知らないけどさ)」という「全能感」が発生する。
この何とも言えない「既視感」と「全能感」こそ、読書が私たちに与える愉悦の本質ではないのであろうか。
「既視感」というのは、つねづね申し上げているとおり「宿命性」の徴である。
私たちが宿命的な恋に落ちるのは、「私はかつてこの人のかたわらで長く親密な時間を過ごしたことがある」という「既視感」にとらえられたからである。
その消息は村上春樹が『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子と出会うことについて』に活写している。
既視感をもって本を読むとき、私たちは「私はまさにいまこのときに、この本を読むことを遠い昔から宿命づけられていた」という感覚にとらえられる。
それはもっとも幸福な読書の体験である。
おそらく「文字を読む」というのは「そういうこと」なのである。
だから、ある日幸福な読書を経験するためには、「海苔の佃煮の瓶のラベル」を舐めるように読むような「読字」の時間が必要なのである。
「朝の読書」運動というのは、誰かそのような不思議な感覚に通じた人が思いついたことに違いない。
「佃煮のラベル」でも「風邪薬の効能書き」でも、毎朝10分舐めるように眺めさせれば「朝の読書」と同様の効果が上がることをどこかの先生が実験してくれないかしら。
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