『学び合い』フォーラム

2008-08-10 dimanche

8月8日、9日は新潟に「第四回教室『学び合い』フォーラム2008」の講演に出かける。
『学び合い』というのは上越教育大学の西川純先生が提唱しているきわめて斬新な教育法である。
小中学校において劇的な効果を上げて、今全国の教室に拡がり始めている。
フォーラムはその実践者(およびこれから実践しようとしている)教員たちが日本中から集まって、公開ゼミや模擬授業をするというイベントである。
と、わかったようなことを書いているが、そんなことは行くまで知らなかった。
教育現場からのお声掛かりであれば、できるかぎり講演のオッファーは受諾すると言っている手前、引き受けたものの、「この暑い中、新潟は遠いなあ」とぐったりしながらでかけたのである。
行ってびっくりした。
教師たちの集まりにはずいぶんお呼びいただいたけれど、正直言って、聴衆の熱意には天と地ほどの差がある。
ぼんやり講壇を見ているだけで、寝ている人間もいるような集まりもあるし、何を言っても大受けする集まりもあるし、前の方に並んだ人たちが私を「はった」と睨みつけている集まりもある。
先日の某所での講演はまるで「コンクリートの壁」を前に話しているような感じであった。
何を言っても反応がない。
私の話を聴いているのか聴いていないのか、それさえわからない。
たぶんこの先生たちの教室はあまりうまく行ってないだろうと思った。
「人の話を聴く」というのは、かなり高度な能力だからである。
だって、聴いているだけなんだから。
何か言う度に「異議なし!」とか「よ、大統領!」とかけ声がかかるわけではない。
黙っていて、ときどき笑ったり、息をついたり、どよめいたりするだけである。あとは、まなざしや座り方や腕の組み方や鉛筆の持ち方のような非言語的なシグナルで話している人間に対して「同意する」とか「よくわからなかったので、もっと詳しく」とか「それはどうかな」とか、さまざまなメッセージを発信する。
この非言語的なシグナルの送受信は教室で子どもたちと向かい合うときに必須の能力である。
非言語的なシグナルにも「語彙」があり「文法」がある。
子どもはそれを「非言語的シグナル送受信の熟練者」から習得する。だから、親や教師が「非言語的シグナル送受信の熟練者」であれば、子どもたちはすみやかにそれに習熟する。
互いにわずかなサインで意思疎通ができるようになれば、大声を出したり、走り回ったりする必要はない。
問題行動を起こす子どもも親たちはかなりの確度で「非言語的コミュニケーション」能力が低いと考えられる。
表情や声のピッチや語調やわずかな動作の変化をシグナルに使って複雑なメッセージを送受信する術を家庭で学習してこなかった子どもは「シグナルが読めない」。
問題行動というのはその集団の文脈になじまない行動のことだが、それは集団の文脈を熟知した上で、それに対して反対したり、批評的に構えたりしてなされているわけではない。私が知る限りでは、問題行動は「集団が採用している文脈が読めない」ことから派生する。
教場における問題の多くは「非言語的なシグナルを感知する力」の不足が原因で発生する。
私はそう考えている。
だから、あちこちで講演していて、教師という同職集団でありながら、場所によって彼らの「聴く力」に差があることに困惑するのである。
講演にきた人間に対して「私はおまえの話を聴きたくない」という弱い非言語的メッセージだけを送ってくる教師たちがときどきいる。
その前に立つと、私は深い疲労感に捉えられる。
おそらくこの方々は自分たちの教室で、それと同じメッセージを毎日子どもたちに送り、子どもたちからも送り返されているのだろう。
そのせいでおそらく「私はおまえの話を聴きたくない」というのが「デフォルト」になっているのである。
特に私に対して悪意や害意があるわけではないのだ。
「ふつう」にしているときに「私はおまえの話を聴きたくない」という微弱なシグナルをずっと発信しているのである。
そうなるに至ったのには、痛ましい事情があるのだろうから、それを責める気はない。
だが、それでも自分は「耳をふさぐ」構えをデフォルトにしているということはときどき意識していた方がいいと思う。
話を戻す。
『学び合い』フォーラムに集まった教師たちはきわめて「非言語的シグナル」の送受信能力の高い先生たちだった。
『学び合い』という教育実践そのものがアナウンスされてからわずか数年のものであり、上越教育大の西川ゼミが発信した実践報告がネット上で広まったのを「たまたまキャッチ」した教師たちがそれを自分の教室で実践してみようとした、というかたちをとって広まった。
ふつうは新しい教育方法が発案されて、実践されて、議論されて、検証されて、定着するまでには長い時間がかかる。
『学び合い』の場合はネット経由で急速に広まった。
だから、「たまたまキャッチした」という点ですでにスクリーニングがかかっている。
そういう情報を「たまたまキャッチしてしまう」教師とそういう情報をつねにキャッチし損ねる教師がいる。こういう情報感度にどうして差がつくのか私にはうまく説明ができない。
でも、何新しいことが生成している場に繰り返し「たまたま」出くわしてしまう人と、そういうことが身の上にさっぱり起こらない人がいるのは確かである。
「ここにあなたが学ぶべき情報がある」というアナウンスが明示的にされていなくても、「学ぶべき情報」に引きつけられる感覚というのは、人間の成長にとって死活的に重要なのである。
『学び合い』フォーラムはそのような感覚に例外的にすぐれた教師たちの自然発生的な集まりであった。
『学び合い』がどのような教育実践であるかは私が贅言を弄するより直接西川純先生の著書をお読みいただくとよいと思う。
私は西川先生から近著を二冊頂いたので、帰りの飛行機の中で一冊(『気になる子の指導に悩むあなたへ-学び合う特別支援教育』、東洋館出版社、2008)読んだ。
正直言って、読んで「ほんとうにこんなにうまくゆくのだろうか?」と疑問に思った(前夜西川先生から説明を聞いたときも「ほんとですか?」と思わず聞き返してしまった)。
しかし、統計的事実は『学び合い』の疑いようのない成果を示しているし、理論的にも瑕疵がない。

(1)教師が一人で教えるより、子どもたちがお互いに教え合う方が「手」が多い
(2)勉強がわからない子どもの気持ちは、教師よりも子どもの方がよくわかる
(3)他の子どもに教えることで教科についての子ども自身の理解は深まる

これはその通りである。
私自身も講義ではそんなことはしていないが、合気道では(それと知らずに)『学び合い』を導入している。
稽古のとき、私はこれから稽古する技について、大枠の説明だけをする。
その日の稽古でとくに注意すべき点を「上級者」と「初心者」にそれぞれ一つずつ指示する。
あとは、お互いが「教え合い、学び合う」のをぼおっと眺めている。
個別的な指導はほとんどしない。
初心者同士が組んで、何をしていいのか二人ともわかっていないときは上級者同士の組をばらして、組み合わせを変えることがある。
ある段階から次の段階への劇的なブレークスルーの前で足踏みしている人には、一言だけ、きっかけになるような技術的なヒントを与える。
それだけである。
あとは一般論として、「こういうふうに考えてやるといいよ」ということをときどき全体に向かって言うだけである。
実は前は私自身も稽古の中に入って、技をかけ合っていた。
そうすると、自分の稽古に夢中になってしまい、全体が見えなくなる。
自分が混じって稽古していると、一種類の技にかける時間が微妙に長くなる。
そうすると私ほど夢中になっていない門人たちは今稽古している技にちょっとだけ「飽きて」くる。
ほんの数十秒でも、「技の替え時」と見誤ると、道場内のテンションが微妙に下がる。
そういうことが何度か繰り返されて稽古が終わると、「飽きた」という弱い印象を持って家に帰ることになる。
すると、その次の稽古に出かけようとしたときに、ちょっと体調が悪かったり、天気が悪かったり、少し急ぎの仕事があったりすると、「まあ、今日はいいか」と休んでしまう。
そういうことが何度か続くと、そのまま道場を止めてしまう。
道場内で事故が起こるのも、ほぼ90%、技に「飽きた」ときである。
そういうことがわかってから、自分が中に入って、ひとりひとり個別指導するというやり方を止めた。
全体を見ていて、みんなが「乗ってきた」瞬間を捉えて、技を替える。
「ああ、面白くなってきた、これをこうしたらどうなるだろう」と思って工夫を始めたところでぷつんと中断するのである。
当然、「ああもっと稽古したい」という気分が残る。
それを繰り返すと、3時間フルに稽古した後なのに、「ああ、もっと稽古したい」という気分が蓄積した状態のまま家に帰ることになる。
「十分に稽古したので満足した」というのがいちばんいい稽古の終わり方だとふつうは思うだろうが、それは違う。
「稽古し足りない。もっとしたい。さっき工夫しかけた技についてもっと研究したい。誰かこのあとも居残っていっしょに稽古してくれないだろうか」というふうになるのがほんとうはベストなのである。
そういう状態を維持するためには、私自身が稽古に満足してはいけない。
私自身が道場をうろうろ歩き回りながら「ああ、私も稽古に入りたいたい。畳の上でごろごろしたい」と身をよじるような渇望に焼かれていると、その渇望が門人たちにも「感染する」。
教えるものが教えることを自制することで、教わる側の「学ぶ」意欲が活性化するということはたしかにある。
「教えすぎる」ことは教育上うまくゆかないことは教師はみんな知っている。
「教えすぎない」というのはたいせつなことである。「教えたい」という衝動を抑制するというのはたいせつなことである。
私はそれを合気道の指導をつうじて学んだが、それは『学び合い』の原理に通じるもののよう思われる。
このへんの微妙な呼吸はまた違う機会にもう少し考えてみたい。
閑話休題。
その『学び合い』フォーラムに集まってきた日本各地のみなさんを前に「学びとは何か?」という演題で講演したのである。
非常にリアクションのよいオーディエンスであったので、ついドライブがかかって、「あんなこと」や「こんなこと」までしゃべってしまった。
まことに愉快な一日半であった。
熱心に『学び合い』についてご教示くださった西川先生、水落先生、最初にお声をかけてくださった片桐先生、最前列で猛然とノートをとっておられた桔梗先生、空港からフルアテンダンスしてくださった美濃山先生。みなさん、どうもありがとうございました。『学び合い』フォーラムのさらなるご発展を祈念しております。
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