大学が生き延びるために

2008-08-08 vendredi

いつも大学情報を教えてくれるコバヤシさんから、「ちょっとショッキングな話」を教えていただいた。
大阪府吹田市のある大学(気の毒なので名を秘す)に、08年、現代社会学部が新設された。
しかし、来年(09年)、この学部は募集停止になる。
おそらく大幅な定員割れだったと想定される(受験者は20人余。入学者は非公開)。
もう一つ、これも関西のある大学の話。
この大学は08年度から人間教育学部を新設した。
1966年に開学したときの文学部を94年に募集停止して、国際文化学部を設置(文化学科、言語コミュニケーション学科)。02年に情報コミュニケーション学科を設置した。
文学部から国際文化学部への事実上の改組であるが、それも12年しか保たなかった。
06年に国際文化学部が募集停止。そして人間教育学部に衣替えしたのである。
冷たいことを言うようだけれど、この人間教育学部も長くは保たないように思う。
これらの「負け方」には共通性がある。
それは「トレンドを追う」ということである。
他で成功した事例を真似する。
これは三流のビジネスマンが大学経営にかかわった場合に必ずやることである。
これは経営学では「好天型モデル」と呼ばれる。
マーケットが拡大してゆく局面では、「柳の下の二匹目三匹目の泥鰌」を狙うのは成功の確率の高い選択である。
けれども、成功確率が高いのは、マーケットが安定的に拡大してゆく場合に限られる。
マーケットそのものがシュリンクしてゆく局面(ふつうのビジネスマンはそのような条件を想像しない)では「他にそっくりなものがいくつもある個体」にはそうでない場合よりも強い淘汰圧がかかる。
このことを三流のビジネスマンは理解していない。
理屈ではわかるのかもしれないが、どうしていいかはわからない(彼ら自身がそのキャリアパスにおいて、かつて一度も「余人を以ては代え難い人間」になるべく自己形成した経験がないからである)。
三流のビジネスマンというのは「イエスマン」であり、「物まね小猿」であり、その能力で「今日の地位」を築いた。
人は自分の成功体験の汎用性を過大評価する傾向にあるから、そういうビジネスマンが大学経営に関与すると、「他の大学がやって成功したことをそっくり真似する」ことしか思いつかない。
大学淘汰が言われ始めた頃から、どこの大学でも「実務経験者」を大学経営に迎え入れた。
彼らは教育をビジネスだと考えた。
何度もいうようにそれは違う。
ビジネスにおいてマーケットは原理的に無限大であるが、教育はそうではない。
例えばパソコンのようなものは一部の消費者(私のような)のほとんど病的な「新型買い換え行動」によって(あるはずのない)ニーズを作り出している。
私はここにカムアウトするが、私は買ったばかりのPCをそのまま使わずに捨てたことが二度ある(次の機種に目移りしてしまったため)。
私のような愚かな消費者に照準しているかぎり、マーケットは原理的に無限である。
しかし、大学はそのような種類の「商品」ではない。
大学にはふつう「一生に一回」しか通わない。
「今年早稲田の政経を出たから、次は帯広畜産大でも行くか」というような消費行動をふつうの人間はしない。
「18歳人口×進学率」が定められたマーケットサイズであり、マーケットをそれより大きくすることは(社会人大学院とか通信教育とか、多少の余裕は見込めるが)原則として不可能である。
大学のマーケットは有限であり、かつ基数になる「18歳人口」が急減している。
私たちが分け合うことのできる「パイ」は確実に縮んでいる。
繰り返し言うが、ビジネスマンの中に「マーケットがシュリンクする状態でどうやって経営を維持するか」ということをまじめに考えた人間はほとんどいない。
資本主義的には「シュリンクするマーケット」などというものは「存在すべきではない」ものだからである。
だから「シュリンクするマーケット」の中でも、他の大学の成功事例を真似するという戦略を採用する。
その場合に何が起こるか。
それは「非情にまでに正確な格付けが可能になる」ということである。
それ以外の条件が同一であればあるほど格付けの精度は相関する。
「似てないもの」を比較することはむずかしいが、(「らっきょう」と「たんつぼ」ではどちらが有用性が高いか、というような問いには誰も答えられない)。
だが、「似ているもの」を比較することは容易である。(「他の条件がすべて同じである場合、年収1000万の男と、年収999万円の男では、どちらが配偶者として適しているか?」という問いの答えを逡巡する人はいない)。
だから、他の成功事例を真似て「似たような大学」になったとき、後続の大学はそれと知らずに「異常に精度の高い格付け」リストに進んで自己登録してしまったのである。
先に挙げた大学における劇的な受験生の減少は、それらの大学が「どの程度の大学だかよくわからなかった」状態から「どの程度の大学であるかがはっきり比較考量可能になった」状態に移行したことの結果である。
その結果、わずか1ポイントの格付け差が「言い逃れの通じない」相対的劣位の指標となったのである。
ほとんど同程度、同内容の大学でありながら、わずかな入学者偏差値の差、わずかな就職率の差、ついには卒業生にどんなタレントがいるか、最寄り駅に特急が停車するかしないかというような教育内容とほとんど無関係な指標によって、「似たような大学」は受験生によってきっぱりと差別化されてしまう。
規格化・標準化というものはできるなら避けるべきであると私はつねづね申し上げているが、それは、個体の「ツブ」が揃ってしまうと、個体間のごくわずかな量的差異が、死活的な差異に読み替えられる危険があるからである。
リソースが有限なときには「エコロジカル・ニッチ」を分散化する、というのが生物の生存戦略の基本である。
危機的状況においては、「他の個体と比較考量しにくい形態や行動様式を採用する」。
これはいろいろな現場でいろいろな種類の「やばい状況」をくぐり抜けてきた人にとっては、かなり信頼できる経験則である。
大学淘汰の時代が始まったと予告されたときに、一部の大学は「他の大学と比較考量しにくいニッチ」を選んだ。多くの大学は「他の大学の成功事例を真似た」。
文科省が提唱した「GP」というのはまさにそのようなものである。
「成功事例 (Good Practice)」集を作るから、それを真似しろと文科省は全国の大学に命じた。
生き延びるためには「人の真似をしろ」というのはいかにも(そのようにして今日の地位にたどりついた)日本の官僚が思いつきそうなことである。
だが、凡庸な官僚や三流のビジネスマンは「人の真似をする」方がリスキーで、「人と違うことをする」方が生き延びるチャンスが高い状況というものがこの世にあるということを知らないかあるいは知りたがらない。
けれども、「前例がありません」という言葉がつねに何かをしない(させない)ときの合理的な論拠になると信じている人たちには生き延びることのむずかしい状況がこの世には存在する。
とりあえず現状を見る限り、「他と違うことをする大学」の方が「成功事例を模倣する大学」よりは生き延びるチャンスが残されているように私には思われる。
「生き残りゲーム」はまだまだ続く。
この段階になると、「どうやら他の大学の真似をしない大学の方が生き延びるチャンスが高そうです。どうです、一つ本学もそういう大学の成功事例を見習っては・・・」というようなことを言い出す大学人が出てくるだろう。
あのね、それが敗因なんですってば。
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