休日にマンガを読む

2008-07-22 mardi

久しぶりの休日。
暑くて目が覚める。
シャワーを浴びて、着替えて、朝ごはんを食べて、またクーラーの効いた寝室に戻って、寝転がってマンガを読む。
るんちゃんお薦め、ゆうきまさみの『鉄腕バーディ』。
ゆうきまさみといえば、『パトレイバー』の人である。
『うる星やつら』と似た状況設定であるけれど、こういう非日常的な SF 世界と学園ラブコメが同居している物語をすらすらと描ける日本のマンガ家の底力には感服する。
続いて幸村誠『ヴィンランド・サーガ』を読む。
これまた、たいへんな画力と物語構成力である。
森薫の『エマ』の19世紀ロンドンの書き込みにも驚いたが、このヴァイキング物語の中世アイスランドの生活の細部の書き込みにも驚嘆する。
時空を奔放に行き来するこれらのマンガに比べると、相変わらず「私小説」的な約束事から抜け出ることができずにいる現代文学の想像力の貧しさが際立ってしまう。
井上雄彦さんと会ってその感をつよくしたが、どうやら日本の若い才能はマンガの世界に集中してきているようである。
文学とマンガのいちばん大きな違いは、マンガの場合、画力と物語構成力が同期して進化するという点である。
絵はとりあえず描けば描くほどうまくなる。
物語が停滞していて、ワンパターンになっていても、絵だけは毎週連載で描きまくっているから、どんどんうまくなる。
そうなると、ある段階で、絵のうまさが物語のブレークスルーをもたらすことがある。
それまで描けなかった事物や人間の身体の動き、それまでとは違う角度や視座から見えるものが、画力の向上によって描けるようになる。
そうなると物語の深みや奥行きや文脈が変化する。
それまでと「同じ話」なのに、ずいぶん「違う話」になってくる。
そして物語の次元が変わることで、描かれるものの次元も変わる。
この画力と物語構成力の「両輪」が作品を前に進めるのがマンガの際立った独自性であり、これは文学には見られないものである。
文学の場合はマンガの「画力」に相当する「言語力」というものが存在しない。
書けば書くだけ字はうまくなるし、しゃべればしゃべるほど発声法はうまくなるけれど、それは「言語力」とは言われない。
定型詩の場合には、一日に二万句詠んだ西鶴の例が示すように、「数」をこなすことで技術的の高さが示されるということがある。(24時間に2万句ということは、1時間に833句、4.2秒に一句詠んだ勘定になる)。
これは定型詩の作り方が身体化していないとできないことだから、マンガにおける「画力」に近いといえるだろう。
けれども、小説の場合はそのように身体化された「書く技術」は主題化されることがない。
たとえば、「書く量」の多さはほとんど評価されない。
西村寿行や笹沢佐保は最盛期に月産1500枚とか2000枚といわれた。
けれども、そのときに書き飛ばされた小説類のほとんどはもう今では読まれることがない。
「達者な文章」という言い方もあるが、それはふつう否定的な文脈でしか使われない。
文学においては「身体」的なエクササイズによって「言語力」を向上させ、それと同期して「物語構成力」を向上させるということはマンガのように一筋縄ではゆかないのである。
だから、作家たちはいろいろ工夫をしている。
村上春樹さんが毎日走るのも、毎日翻訳をするのも、ときどき『うさぎおいし〜フランス人』のような本を書くのも、たぶん「言語力」のためのエクササイズなのであろうと私は思っている。橋本治さんが編み物をしたり、絵を描いたり、ときどき発作的に『アストロモモンガ』や『シネマほらセット』のような本を書くのも、たぶん理由は同じである。
脳のある部分(身体的なエクササイズによって強化されうる部位)を繰り返し選択的に刺激することで、物語構成力のブレークスルーがもたらされることを、ほとんどのマンガ家は経験的に知っているが、同じことをほとんどの作家たちは知らない。
だが、「晴耕雨読」とか「文武両道」というのは、たぶん「そういうこと」なのである。
午後は合気杖の稽古。
15人ほど来ている。みなさん、熱心なことである。
一の杖、二の杖、組杖を1時から4時半まで。
さすがに汗びっしょりになる。
家に戻ってシャワーを浴びて、またクーラーの効いた寝室で昼寝。
ああ、しあわせ。
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