パイレーツ・オブ・チャイナ

2008-07-01 mardi

日本文藝協会というところに入会したので、会報が送られてくる。
文藝協会はたぶんもともとは寄る辺なき文士たちの相互扶助組織として発生したものではないかと思う。
「寄る辺なき人々」のための相互扶助・相互支援組織というのはたいせつな中間共同体である。
しかし、文藝協会の最近のメインの仕事は著作権の管理である。
私はこれがどうにも、「なんか違うんじゃないか」という気がしてならないのである。
いま著作権の保護期間は50年である(これを国際標準に合わせて70年に延長することを協会は求めている)。
著作者が死ぬと、著作権はその親族に継承される。
だから、文藝協会の会員も相当数は操觚の人ではなく、著作権継承者の方々である。
著作者自身が自分の書き物について、その使途や改変について「ちょっと、それは困るわ」という権利を留保することは許されると思う。
文章が書き換えられて、それに自分の名前がつけられて流布しては困るからだ。
けれども、著作権継承者にはそのような権利はあるのだろうか。
もちろん、著作権継承者は著作者の死後も印税をしばらくの間受け取り続ける権利はあると思う。
だって、印税収入が家計を支えていた場合には、著作者が死んだら、いきなり家族が路頭に迷ってしまうからである。
それはあまりに気の毒である。
もとが「寄る辺なき文士の相互扶助」組織である以上、遺族の生活をたいせつに考えるという発想は重要である。
でも、著作権の継承ということと、印税の受け取りということは、次元の違う話ではないだろうか。
印税収入に依存していたライフスタイルを保証するということと、作品についてのもろもろの「権利」を委ねるということは別の話ではないか。
著作権継承者にテクストの用途や改変についての許諾権まで認めるのは、なんだか筋が違うような気がする。
著作物には「商品」という側面と、「創造物」という側面がある。
「商品」には市場があり、需給関係がある。それでビジネスをする人もいる。それはそれで結構なことである。
なぜなら、それが私たちのクリエーションの意欲を強めるからである。
けれども、「創造物」には市場も需給関係もビジネスもない。
それは人類が共有すべき「パブリックドメイン」である。
著作権の保護期間が切れるというのは、テクストが「商品」的性格を失い、「創造物」のカテゴリーに移行する、つまり「私有財産」から「共有財産」に変じることである。
すべての創造の「落ち着くべき先」は誰の所有にも属さない人類共有の財産となることである。
創造に短期的に商品性を噛ませるのは、そうした方が「共有の財産」が富裕化するからであり、それ以外の理由はない。
しかし、いまの著作権をめぐる議論を見ていると、論は作品の「商品性」に焦点化し、そこから誰がどれだけ多くの利益を引き出すのかということに軸足が傾き過ぎているように私には思われる。
「創造されたものの共有」のたいせつさを言い立てる人々のうちにさえ、「パブリックドメイン」にすることを手前のビジネスチャンスだと考えている人がしばしば見受けられる。
右を見ても左を見ても、なんだかみんな「金」の話ばかりしているような気がする。
そういうことでよろしいのか。
井上雄彦さんとお話ししたときに、中国における海賊版の話になった。
『スラムダンク』を知らない子どもはいないくらい井上作品は中国でも読まれているけれど、中国の代理店から知らされる発行部数は「嘘でしょ」というくらいの数字だそうである。
市場に流布しているもののほとんどは海賊版である。
この場合、「究極の選択」は次の二つである。

(1)著作権法を厳密に適用して、すべての海賊版を市場からも個人の書棚からも撤去し、正規の刊行物以外の発行流通所有を認めない。
(2)もう、好きにしてくれと放っておく。

私は(2)でいいんじゃないですかと井上さんに申し上げた。
海賊版『スラムダンク』が中国で数十億部売れ、若い中国人の中から井上雄彦を神と崇めるファンや井上フォロワーが続々と出現して、つねに熱いまなざしで井上さんの作品を待ち望んでいる・・・という状態になったときに、そのレスペクトは必ず「井上さんに『私、大ファンなんです』というメッセージを届かせたい」というかたちを取るはずである。
とりあえずそれは海賊版を退けて、印税が確実に井上さん自身に届くエディションを購入するという行動を通じて表現されるだろう。
楽観的すぎるかもしれないけれど、私はそう信じている。
井上さんの本は『スラムダンク』も『バガボンド』も『リアル』も、どれもビルドゥングス・ロマンである。
すべてに共通するのは「激しい負荷の下で、短期的に、一気に成長することを強いられた少年の成長譚」という話型である。
私は井上さんの描く物語を世界中の少年たちに読んで欲しいと思っている。
彼らが成長することにこれらの物語が資するなら、それによってこの世界は少しずつ住みやすいものになってゆくはずだからである。
そのとき海賊版を刊行したり読んだりする商習慣もいつのまにか消えているだろう。
それは「大人のすること」ではないからだ。
迂遠かもしれないけれど、私は中国で著作権法が厳格に適用されることよりも、一冊でも多くの井上作品が一人でも多くの中国人読者に読まれることの方が、中国を「今より住みよい場所」に変える上では有用だろうと考えている。
井上さんの本にはそれくらい強い教化的な力がある。
井上さんは、「そういう考え方もあるんですね」と微笑していた。
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