ひとりマス・メディア

2008-06-13 vendredi

気がついたらアクセス数累計が1400万を超えていた。
東京都の人口を超えたわけである。
わお。
すごいね。
個人のブログで、それもどちらかというと身辺雑記のほかには小うるさい理屈をがみがみと書き連ねているだけのサイトに、これだけの累積訪問者があるということをすなおに慶賀したいと思う。
先日、ある雑誌のインタビューがあり、プロフィールのゲラを見たら、「アクセス数が100万を超える人気ブログ」という紹介がされていた。
「あの〜、1300万を超える」ですけど・・・と訂正を求めたら、ずいぶん恐縮されていた。
カウンターの数字を一桁読み間違えていたのである。
さて、このようなかたちで発信していることが、世論形成上どれほどの影響力を持ちうるのであろうか。
とりあえずわかるのは、それは発行部数1300万部の「本」のそれとはまったく異質なものだということである。
1300万部の本の読者は通常その数より多い。
私の書き物のレギュラーな購読者は、おそらく日本全国で10000人、というところであろう(私が出した単著本のなかでいちばん「売れなかった」本のひとつが先日重刷で晴れて10000部に達したので、たぶんそれくらいであろう)。
『下流志向』だけは例外的に10万部を超えたが、これは講談社の営業の成果(とくにタイトリング)であって、内容的には「いつもと同じ話」である。
いまさら言うのもなんだけれど、このタイトルは三浦展さんの『下流社会』の「二匹目の泥鰌」ねらいがバレバレのタイトルで、「これで行きます」と言われたときはずいぶん気落ちしたものである(私が最初につけていたタイトルは「学びからの逃走、労働からの逃走」だったのだけれど、このタイトルだったら10分の1程度のセールスで終わったであろう)。
だから、このブログの読者もこの「レギュラー・リーダー」をケルンにして、「ときどき覗きに来る」という人を含めて、マックス30000人くらいの集団ではないかと思う。
これはけっこうな数字である。
現に、30000人の定期購読者がいる雑誌というのはなかなかない。
先日○ERAに「発行部数どれくらいなの?」と訊いたら、「一応20万部です」と言っていた。創刊号が100万部売れたそうだから、凋落ぶりが痛ましい。
「月刊○代」にも同じ質問をしたが、はっきりした回答が得られなかったので同席していた関川夏央さんと相談して、「7-8万部というところですかね」と推測した。
純文学誌の場合は、月刊で3000部から5000部というあたりである。
以前このブログに「○學界」の発行部数は3000部と書いたら、当時の編集長から抗議のメールが来て「今月は5500出ました。過去には7000部売れた月だってあるんです」と叱られた。
ごめんなさい。
「○ばる」では、新人賞を公募したときに10000点の応募があり、「どうして4000部しか売れてない月刊誌の新人賞に2.5倍の応募者があるんだ。せめて応募要項が出ている号くらい買えよ」と編集者が怒りに震えていた。
これまで純文学誌の読者は「編集者と作家と、編集者志望と作家志望」の4種類しかいないと言われていたが、どうも「作家志望」の諸君はここにはもうカウントできなくなりつつあるようである。
哀号。
というような既存の定期刊行物の読者数を基準に取ると、「定期読者30000人」はすでに「マス・メディア」のカテゴリーに入ってもおかしくないであろう。
しかし、これを書いているのはひとりの個人である。
編集会議もデスクも営業も広告主も電通も、ぜんぜん関係してこないのである。
ひとりの人間が掣肘ぬきで言いたい放題書き放題の「マス・メディア」というものが存立してよろしいのであろうか。
なんだかあまりよろしくないような気がする。
だから、たまに「こんなことを書いてもらっては困る」というクレームがつくことがある。
例えば、個人情報に抵触する場合。
私が「いっしょに行った○○くんと××くんと痛飲」というようなことを日記に書くと「センセイ、すみません。会社には『祖母が急逝』ということで有給とったので、ぼくの名前消してください」というような必死メールが来ることがある。
むろん、そういう場合は直ちに削除。
大学の上の方から「ウチダ先生、この記述はちょっとなんとかなりませんか・・・」というやわらかいクレームがつくこともある。
「あ、そうですか、こりゃ失礼しました」とすなおに直すこともあるし、「だって、事実じゃないですか」と口をとがらせて、直さないこともある。
ケース・バイ・ケース。
それにこのブログの場合は、このあと「使い回し」、二度目のご奉公とて単行本に採録されることが多いので、何を書いても「出版コード」が無意識のうちに適用されている。
本になって、天下の往来で売られるのがはばかられるようなことは、やはり書かない。
そう考えると、「マス・メディア」の「マス」は発行部数の問題ではないということがわかる。
「マス・メディア」の多数性を担保しているのは、「複数の価値観」がそこで輻輳しているせいで、「まあ、この辺が常識的な範囲じゃないですか」ということについての合意形成が必要だという事実である。
私はそう思う。
発行部数が1000万部でも、言論統制下にあって、独裁者の善政をひたすら礼賛するようなメディアは「マス・メディア」ではない。
規模は大きいが、「手書きの私の詩集」と本質において変わらない。
「外部」への回路が開口していないからである。
「マスメディア」の「マス」性を存立させるのは、「私の内部にある、あれこれの意見を擦り合わせる」というめんどうな仕事を引き受けるということである。
「私の中における合意」は同語反復ではない。
村上春樹さんにはかの「うなぎ」なるアルターエゴがおり、小説を書くときは、この「うなぎ」と相談をされるそうである(相談すると、ますます話がややこしくなる、というのが「うなぎ」の手柄である)。
橋本治さんは「左肩」にアルターエゴが棲んでいて、「この仕事できるかな」「やったら」みたいな会話を肩とかわしているそうである(この逸話はもうすぐ筑摩書房から出る『橋本治と内田樹』でお読みいただけます)。
すぐれた書き手は必ず自身のうちに「対話の相手になるような、私とは違う私」を住まわせている。
モーリス・ブランショが「同じひとつのことを言うためには二人の人間が必要だ」というのも、ラカンが「私が語っているとき、私の中では他者が語っている」というのも、おそらくその構造は同一である。
もし書き手がつねに首尾一貫していると、遠からず限界にゆきあたる。
書くことがなくなってしまうのである。
人間はタフだから、書くことがなくなっても、同じことを壊れたテープレコーダーのように際限なく繰り返すことはできる。
夫子ご自身は際限なく言葉が出てくるので、言葉の鉱脈を掘り当てた気分になって、うれしく語り続ける。
けれども、これはつねづね申し上げているように「下水道に上水道を繋いでいる」のと同じメカニズムである。
いくらでも際限なく蛇口から水が出てくるので、無窮の水源を掘り当てたと本人は大喜びだが、実際には排水溝から流れた水がまた蛇口から還流しているにすぎない(だから、だんだん腐臭がしてくる)。
このピットフォールに落ち込まないためには、「私の中で他者が語る」という機制をどこかで構造的に組み込んでおかなくてはならない。
クリエイティヴ・ライティングの授業では、その話をする。
シンプルでチープな「物語」narrative に取り込まれないようにするためには、「私の中で何人もの他者が語る」ような複数的パロール(parole plurielle これもブランショの言葉だ)の装置を稼動させなければならない。
だが、どうやって。
考えているうちに、関川夏央さんの『家族の昭和』に出ていた幸田文の「父・こんなこと」が読みたくなって、読み始めた。
びっくりした。
すごい文章である。
センテンスがひとつひとつぴくぴくと生きている。
固有の律動を以って動いている。
頭で書いている部分と、手先で書いている部分と、腰で書いている部分と、感傷で書いている部分と、憎悪で書いている部分と、空腹感で書いている部分・・・まるで人間の身体のように、そういった自律的な部分がわずか三行のセンテンスのあいだに順番に出ては消える。
すごい。
菩薩のような一行のあとに、いきなり夜叉のような一行が出てくる。
幸田文さんは、このとき44歳。
ほとんど生まれてはじめて書いた文章で、すでに文体が完成している。
語るとは「自分の中にあって輻輳しているいくつものヴォイスをかたはしから言葉に載せてゆく」ということであり、その「かたはしから」を統御する理とは「美」だ、という見極めがちゃんとできている。
言葉が美しいとはどういうことか、その審美的規範が深々と身体化していなければ、こんな芸当はできない。
そうか、ヴォイスを統御する「理」は「美」なのだ。
当たり前のことを忘れていた。
美しいとはどういうことか。
この言葉は美しいか、この歩き方は美しいか、この着付けは美しいか、この配膳は美しいか、そういうことに知的リソースを集中する長い体系的な訓練がなければ、審美規範は身体化しない。
「複数のパロール」とか「他者の言葉」というような危ういものを統御できるのは、身体化された「美」のみである。
だから、若き日の私がレヴィナスを読んで「意味がぜんぜんわからないけれど、なんか、めちゃかっこいい」と吐息をついたというのは、子どもなりにものごとの事理がわかっていたということである。
というわけで、マス・メディアの「マス」たる所以を担保するのは、ヴォイスの複数性であり、ヴォイスの複数性を統御するのは、身体化した美であるという理路に私は至りついたのである。
おわかりいただけるであろうか。
おわかりいただけないですよね。
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