格差社会論(再録)

2008-06-11 mercredi

今回の秋葉原の事件に「格差社会下層」に自分を「格付け」するという「物語」が深く関与していることにはどなたも異論がないだろう。
私は以前そのような「物語」が瀰漫することに、とりわけそれが「政治的に正しい」説明原理として称揚されることについてその危険を指摘したことがある。
『神奈川大学評論』という大学紀要に寄稿したものであるので、大学関係者以外には読まれた方はほとんどおられないであろうから、ここに再録する。
2007年の9月に書かれたものである。
この論考のせいで私は「保守系リベラル」「中道右派」とカテゴライズされることになった(ウィキペディアにはそう書いてある)。
ここに書かれたことのどこが「中道」なのか、どこが「保守」なのか、私にはよくわからないが。

善意の格差論のもたらす害について
内田樹
 「格差」という語はそれ自体では価値中立的なものであるが、現在のメディアではこの語は中立的なものとしては用いられていない。格差は単なる「格差」ではなく、そのつどすでに「格差問題」として提起される。格差論は、その語られざる前提として、「格差は存在すべきではなく、ただちに廃絶されるべきである」という具体的な政策的主張に対する同意(あるいは反論)をすでに含んでいる。論者が「格差」について事実認知的言明を行った時点ですでに彼は「格差」をどう扱うべきかについての遂行的な言明も同時に行っている。本論考も、その点では格差論一般の例に漏れない。
 結論を先に言ってしまえば、私は「格差はつねに存在したし、これからも存在するであろう。だから、格差を廃絶することはできない。できるのは格差が社会に壊乱的要素をもたらさないように扱うことだけである」という立場を取っている(私はこれを「階級」という概念の検討を通じて学んだ)。その点で、私は現在の日本の格差論者のほとんどと立場を異にする。彼らは格差の有害性を言い立てることには勤勉だが、格差のもたらす壊乱的要素を制御することにはいちじるしく不熱心だからである。ある社会的事象の有害性をつよく主張する人は、そのせいで社会秩序が壊滅的になることによってはじめて理説の正しさが証明されるために、事態がさらに悪化することを無意識のうちに切望することを止めることができない。本論考の目的はそのような格差論がはらむピットフォールを指摘して、読者の一考を求めることにある。
 標準的な格差社会論は「弱者が存在する。弱者が発生するのは社会制度に不備があるからであり、政治はこれを補正せねばならない」という構成をもつ。この原理的な格差社会論に反対する人はほとんどいないであろう。
 問題は反対する人がほとんどいない主張(例えば「世界に平和を」とか「地球環境をたいせつに」とかいう主張)は具体的にそのために何をするのかについての議論では人々の意見がたいていの場合一致しないということである。格差社会論もそうである。
 「弱者が存在する。弱者が発生するのは社会制度に不備があるからである」という前段の一般論についての国民的合意は存在するが、「弱者を存在させないためには何をすればよいか」についての国民的合意は存在しない。ある人は社会福祉制度に不備があるといい、ある人は年金制度に不備があるといい、ある人は税制に不備があるといい、ある人は学校教育に不備があるといい、ある人は家族制度に不備があるという。おそらくその全部に何らかの不備があるのであろう。
 とはいえ、それらの制度すべてについての同時的に抜本的改革を断行した場合、私たちの社会は長期にわたる混乱と停滞を余儀なくされるはずであり、その混乱と停滞によってもっとも多くの被害をこうむるのは通常その社会でもっとも弱い者たちである。
 それでも、とりあえず一つだけ、かなり広範囲に受け容れられている合意事項が存在する。それは「能力や資質が豊かに備わっているにもかかわらず分配上の不利益をこうむっている人々」と「能力や資質に見合わない過分の分配を受け取っている人々」を峻別し、後者が占有している資源を前者に再分配すること「フェアネス」であるとする考え方である。
 一方に資質にすぐれ、能力に恵まれながら、偶然的な原因(人種や性別や信教や出生地や家庭環境や政治的意見などなど)によって社会的弱者の位置に釘付けにされているものたちがいる。他方に、資質も能力も欠いているが、偶然の幸運によって強者の権益を享受しているものたちがいる。その偶然的な運不運に基づく差別を廃し、純粋に個人の蔵する能力資質によって序列化し直すことがフェアネスである、というのが現在の格差社会論の中でしばしば耳にされる主張である。
 その典型はいわゆる「ロストジェネレーション」論に見ることができる。これはその題名を冠した朝日新聞社刊の書物の冒頭の言葉(「生まれた年が悪いのか」)が端的に示すように、現在の格差問題をもっぱら生年という偶然によって説明し、それ以外の理由を考察することにほとんど興味を示さないという点で徴候的なテクストである。
 『ロストジェネレーション』は2007年の1月から朝日新聞に連載された同名の特集記事を単行本化したものである。
 「ロストジェネレーション」と呼ばれるのは現在25歳から35歳の世代のことである。この世代を特徴づける条件は、「日本が最も豊かな時代に生まれながら、社会人になろうとするときに戦後最長の景気停滞期を迎えたこと。年功序列や終身雇用が崩壊し、成果主義が始まる最前線で、必死に自分たちの生き方を模索していること」とされる。(『ロストジェネレーション-さまよう2000万人』、朝日新聞「ロストジェネレーション」取材班、朝日新聞社、2007 年、2頁)

 「ロストジェネレーション」に属する男女は「『団塊の世代』の子どもたちとして生を受け、物質的な豊かさをたっぷりと享受して、経済的に苦労することなく少年少女時代を送った。だから、自分の夢を持ち、自己実現をはかることが『善』であると信じることができた。(…) 十代になると今度は、日本社会の制度疲労を目の当たりにすることになる。社会や企業はたやすく壊れるものであり、何かに頼って生きることはリスクが高すぎる、と考えるようになったとしても不思議はない。(…) 大多数が決められたルールに乗って就職し、カイシャ丸抱えの生活を送ることが当たり前だった時代から、冷徹な企業の論理によって雇用がコントロールされ、多くの若者たちが不安定な労働に追いやられる時代へ。日本社会のルールが大きくその姿を変えたとき、その時代の波頭に立たされた世代、それがいまの25歳から35歳なのだ。」(同書、30-31頁)

 この記述は事実認知的には特に問題のないものだが、措辞からはかなり傾向的な価値判断が遺漏している。それは「バブルの恩恵」にあずかって、「物質的な豊かさを享受」し、「大多数が決められたルールに乗って就職し、カイシャ丸抱えの生活を送ることが当たり前だった」事実をある種の「利権」と見なしているということである。先行世代が享受できたこの「利権」を失ったことが「ロストジェネレーション」世代の不幸の主因をかたちづくっていると論者たちは考える。「生まれた年が悪かった」せいで「割りを食った」という書き方はそのような予断がなければ成立しない。
 それゆえ、「年功序列・終身雇用」や「バブル景気」の恩沢に浴すことができて、「がっぽりと退職金を抱えて会社を去ってゆく『団塊の世代』」(同書、177頁)から「ロストジェネレーション」は「不当利得」を回収する権利があると論者たちは考えている。
 その根拠としては二つの理由が挙げられる。一つは不当に収奪されたという被害事実であり、もう一つは年功序列・終身雇用のサラリーマンにとってはついに無縁であった「自分探し」や「自己らしさ」の探求、「やりがいのある仕事」「自分にしかできない仕事」を求めての飽くなき転職という「政治的に正しい就労態度」が広くこの世代に見られる点である。

 「ロストジェネレーションたちは、既存の組織、既存の価値観にすがらない。自分だけを頼りに、転職を繰り返す。会社に頼れば裏切られる。でも自分の決断、自分自身への投資は決して裏切らない。そう信じて、前へ進んでいく。」(同書、89頁)

 このような「世代ごとに生き方がまったく違う」という(根拠のはっきりしない)断定に基づいて、「ロストジェネレーション」論は「団塊世代・バブル世代」と「ポストバブル世代」の間の利害の対立、エートスの対立こそが刻下の社会矛盾の根本にあるというシンプルな社会理解に至る。
 「階級闘争」の有効性が懐疑されたことには歴史的必然性があるので、彼らが「階級」という語を忌避した理由は理解できるが、だからといって就労条件と消費行動以外に有意な差をもたない「世代」をヘーゲル的な主人と奴隷の相克の当事者に仕立てることは果たして可能なのであろうか。
 「持てる世代」と「持てない世代」の間の世代間対立というシンプルな図式は城繁幸の格差論にも見ることができる。
 城は新卒採用が一気に縮小した「ポストバブル世代」を「受難世代」と呼び、団塊の世代を「既得権益世代」と見なし、この世代からの既得権の奪還を呼びかけている。ただし、彼はこれをより徹底的な能力主義の導入によって実現しようとしているところが注目に値する。

 「もし心から格差をなくしたいと願うのなら、それは当然、年功序列の否定をともなわねばならない。新人から定年直前のベテランまで、全員の給料を一度ガラガラポンして、果たす役割の重みに応じて再設定し直すべきだろう。」(城繁幸、『若者はなぜ3年で辞めるのか』、光文社新書、2006年、161頁)

 城によれば、格差の主因は能力もなく、仕事もしないで、既得権にあぐらをかいている中高年世代が「反若者大連立」(同書、103頁)を形成して、若者たちの就業機会を奪っていることに起因する。この「強欲な老人たち」をもう一度査定しなおして、しかるべき「社会的下位」に格付けすることによってはじめて社会的公正は確保されるだろう、というのが彼の考え方である。
 社会的資源のより公平な再分配のために、城に代表される格差論者たちは、現行ルールの緩和や修正ではなく、その徹底を要求するのである。現在の弱者たちは能力主義によって下位に格付けされているのではなく、「強欲な老人たち」の採用する不徹底な能力主義(つまり、既得権者たちは年功序列で雇用を確保しておきながら、あらたに労働市場に参入してくる「ロストジェネレーション」には能力主義を適用するというダブル・スタンダード)によって不利益をこうむっていると考えるからである。それゆえ、徹底的な能力主義(剥き出しにワイルドな競争社会)においてこそ弱者の救済は果たされるであろうという奇妙な結論が導かれるのである。
 この「無能力者は既得権を吐き出して、去れ」という「乱世待望」の気分は2005年に小泉純一郎が仕掛けたいわゆる「郵政選挙」で劇的に示された。周知のように、この選挙では「既得権者」(郵政公務員と族議員)を標的に掲げた小泉の選挙戦術が二十代、三十代の有権者に強くアピールして、自民党が圧勝した。「すでに持てるもの」から容赦なく奪い取ると宣言した小泉のことばに「いまだ持たざるもの」たちは、その資源が自分たちに優先的に再分配されるはずだという(根拠のない)期待から喝采を送ったのである。
 このときに「徹底的な能力主義」の導入によって社会的公正は実現されるという見通しについて日本国民の相当部分が暗黙の合意を与えた。私たちは、自分に対する社会からの評価が芳しくない場合には、その理由を自分の能力が低いことにではなく、適切な外部評価が行われていないことに帰して、より厳正で客観的な評価を要求する傾向がある(それだと自己向上のための努力をする必要がなくなるからである)。だが、それが全社会的な趨勢になったのは、おそらく日本史上はじめてのことであろう。
 彼らは「取り分」が不足しているのは、適正な能力評価がなされておらず、無能力かつ無権利な人間が「私の取り分」を横取りしているからだと考えた。それゆえ、彼らはより適切な査定と、迅速な再分配によって能力主義的に救済されることを希望する。重要なのはこの点である。彼らは弱者一般の救済ではなく、能力のある弱者のみの選択的救済を求めているのである。
 「能力のない弱者」は(残念ながら)おのれの自己責任において、その窮状を甘受せねばならない。というのは、「能力のない弱者」とは「能力のない強者」がその不当利得を剥ぎ取られたあとの状態と識別不能だからである。財産を没収されたブルジョワをプロレタリアと呼ぶことができないのと同じように、無能力な弱者を政策的に救済することはフェアネスの原理に悖る。
 改めて言うまでもないことだが、すべての人が等しく社会的資源を分かち合うことで豊かさが実感できる社会というものは存在しない。権勢や威信や財貨や文化資本などのかたちをとる「強者の取り分」は構造的に「弱者の取り分」を簒奪するかたちでしか確保されないからである。
 貢献度の高い社員に対して、例えば社長が自分の高額の給与の一部を割いて報償するシステムがあっても、それは「能力主義」とはいわれない。ある一人が個人的に高いパフォーマンスを示したことに対して、彼の属する集団の全員が(仕事をしなかった人も含めて)等分の報酬を受け取るシステムも「能力主義」とはいわれない。私たちは自分の能力が高く評価されてそこから受益したという事実を、他人の能力が低く評価されて利益を失ったというゼロサム・モデルに基づいてしか確証することができない。だから、個人がリスクを取り、努力をし、その報償として得た利益については優先的な請求権があるというルールを認める限り、私たちは構造的に弱者を必要とするのである。
 この点についてはニーチェの洞見に私も従おうと思う。自己努力の成果が迅速かつ適切に評価されて応分の報償が得られるシステムを要求するということは、言い換えれば自己努力の不足のために成果を上げられなかったものが速やかにかつ適切に社会的低位に格付けされるシステムの構築に同意することを意味しているのである。
 徹底的な能力主義な導入による格差解消という構想のアポリアはこの点に存する。
 すなわち、弱者の側からする「より合理的なシステム」の要求が、要するに弱者の入れ替えをしか意味しないということである。「入れ替えられた」弱者たちもいずれまたその格付けを不当として、より厳正で客観的な査定を要求するであろうから、能力主義の徹底が問題の解決に資する可能性は論理的には限りなくゼロに近い。
 前提が単純すぎるせいで、帰結が複雑怪奇なものになるということがある。このねじれた能力主義的格差論の適例として、『論座』の 2007 年1月号に「希望は、戦争」と書いたある若者の論文を取り上げてみる。書き手は31歳のフリーターであり、その生活を自身は次のように描写している。

 「夜遅くバイト先に行って、それから8時間ロクな休憩もとらずに働いて、明け方家に帰ってきて、テレビをつけて酒を飲みながらネットサーフィンをして、昼頃に寝て、夕方目覚めて、テレビを見て、またバイトに行く。この繰り返し。
 月給は10万円強。北関東の実家で暮らしているので生活はなんとかなる。だが、本当は実家などで暮らしたくない。両親とはソリが合わないし、車がないとまともに生活できないような土地柄も嫌いだ。ここにいると、まるで監禁されているような気分になってくる。」(赤木智弘、「『丸山眞男』をひっぱたきたい」、『論座』2007年1月号、朝日新聞社、53-54頁)

 著者の赤木は「そうした私たちの苦境を、世間がまったく理解してくれないこと」を耐え難く思っている。ただし、世間が「理解してくれない」のは彼の生活に希望がないという事実ではない。

 「『仕事が大変だ』という愚痴にはあっさりと首を縦に振る世間が、『マトモな仕事につけなくて大変だ』という愚痴には『それは努力が足りないからだ』と嘲笑を浴びせる」(同書、54頁)

 彼の現状を世間は能力主義的なフレームワークでなら十分に「理解」しているのである。彼にとって耐え難いのは、だから「理解されないこと」ではなく、彼が「間違った仕方で理解されている」ことなのである。
 赤木はそれゆえ彼自身がそこに組み込まれている「格付け」システムの「間違い」を探り当てようとする。そして、彼はこの「格付け」がダブル・スタンダードであり、自分たちの世代はアンフェアなものさしによって能力以下に査定されているという「解釈」にたどりつく。
 彼は「ワーキングプア」という包括的なカテゴリーの中に「元サラリーマン」や「職人」や「農家」の人々と、彼のような30代フリーターが同時に含まれることに違和感を覚える。「経済成長世代」と「ポストバブル世代」の間にある「大きな差違」(同書、55頁)を人々は見過ごしているのではないのか。

 「前者が家庭を手に入れ、社会的にも自立し、人間としての尊厳をかつて十分に得たことのある人たちである一方、後者は社会人になった時点ですでにバブルが崩壊していて、最初から何も得ることができなかった人たちである。前者には少なくともチャンスはあった。後者は社会に出た時点ですでに労働市場は狭き門になっており、チャンスそのものがなかった。それを同列に弱者であるとする見方には、私はどうしても納得がいかない。」 (同書、55頁)

 かつてマルクスが「この社会に鉄鎖以外に失う者を持たない」プロレタリアートこそが革命の主体となるであろうと予言したのと同じように、赤木もまた暴力的な仕方での社会の流動化を期待する。
 誰かが私たちに本来帰属すべきリソースを不当に占有しているという説明はこの世代の人々に強い訴求力を持つ。必要なのは「誰」が若者たちの富を簒奪しているのかについての説得力のある仮説である。「ブルジョワジー」と「プロレタリアート」の階級対立でこの事態を説明するのが伝統的な社会理論の王道だったが、現代日本の若者の中にマルクス主義的なワーディングの有効性を信じている者はもうほとんどいない。しかし、富の配分の不合理を説明するときに階級以外にどのようなスキームがありうるだろうか。小泉流の「官民対立」や旧・経世会流の「都市と地方の対立」による説明もひとつの方便ではあるが、それでは「民」の中、「都市」の内部にこそ圧倒的に存在する格差の理由を説明できない。
 結果的に、赤木は「経済成長世代」と「ポストバブル世代」の「世代間対立」によってこれを説明するという「藁」をつかむことになる。その世代対立論に基づいて赤木が導く結論はかなり衝撃的なものである。
 「極めて単純な話、日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば、日本は流動化する。多くの若者はそれを望んでいるように思う。(…) 戦争は悲惨だ。
 しかし、その悲惨さは『持つ者が何かを失う』から悲惨なのであって、『何も持っていない』私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。(…) 国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。」(同書、58-59頁)

 赤木が「戦争」と呼ぶのは、城が「ガラガラポン」という擬態語で指示したのと、本質的には同一の比喩である。
 赤木の言うように、戦争がある種の平等をもたらすというのはほんとうのことである。1945年、敗戦の年の冬には食料が払底し、最悪の場合数百万の餓死者が出るのではという予測さえなされていた。しかし、実際にはほとんど餓死者は出なかった。人々が独占を貧しい資源をわかちあったからである。「全員が等しく貧しい」社会(関川夏央のいう「共和的な貧しさ」のうちにある社会)には格差社会論的な意味での「貧者」は存在しない。しかし、この「共和的な貧しさ」は赤木が望んでいるような状況の流動化による「生と死のギャンブル」とはまったく別のことである。
 45年冬の時点で敗戦国民が「富者」であるためには旧軍の物資を盗んだか、占領軍に通じていたか、犯罪に関与しているかそのいずれかの方法しかなかった。このとき「フェアな競争の結果、私はこの地位と財貨を手に入れたのだから私にはこれらについて占有権がある」という主張をなすことは恥ずかしいことであった。少なくともそのような暗黙の合意が存在した。だから、相対的に富裕な人々はその資産を他の人々とわかちあう義務を感じたのである。「共和的に貧しい社会」というのは「貧者」がいない社会のことではなく、「富者」の名乗りがはばかられる社会のことである。
 どのような社会でも能力の差があり、条件の差がある限り、社会的リソースの分配において多寡の差は発生する。問題を深刻にするのは、そのときに、「自分の取り分」について占有権を主張することは「政治的に正しい」と見るか、「疚しさ」を感じるか、そのマインドの違いである。小さいようだけれど、私はこれが決定的な違いではないかと思っている。
 原理的な言い方をすれば、貧困問題というのは富貴問題と対になってしか存在しない。どのように資源が貧しくとも、共同体の中で、子どもや老人や障害者にも資源が公平に分配されるシステムを有していれば、その社会に「貧困問題」は存在しない。新石器時代に「貧困問題」は存在しなかったはずだし、レヴィ=ストロースが観察したマトグロッソのインディオたちの社会にも「貧困問題」は存在しなかった。人々が共同体の存続を最優先に考えるときには貧困問題は存在しない。というのは、そのとき共同体に「弱者」として含まれる幼児や老人や病人や障害者はいずれも共同体のすべてのメンバーにとって「かつてそうであり、これからそうなるかもしれない」存在様態だからである。あらゆる成員はかつて幼児であり、いずれ老人になり、高い確率で病人あるいは障害者あるいはその両方になる。だから幼児を養い、老人を敬し、病者や障害者に配慮するというのは、自分自身に対する時間差をともなった配慮に他ならないのである。
 その語の始原的な意味における共同体主義(コミュニズム)というのは、そのような想像力の使い方をすることであった。現に自分が受け取っている社会資源の分配について、それをひとり占有することに「疚しさ」を感じること。それが共同体の成員であるための心理的条件である。同意してくれる人は多くないが、私はそう考えている。
 現在の格差社会論は「私が格差上の不利益をこうむっているのは、本来私に帰属すべき資源が他者によって簒奪されているからである」という言明から出発する。私にはこれが最初の「ボタンの掛け違え」のように思われる。この前提から出発すると、どれほど強弁を駆使しようと、論理的に導かれる結論は「無差別的能力主義」以外にない。それは能力のないものの口からパンを取り上げることを「フェアネス」と呼ぶことである。最強の個体がすべての資源を占有することに同意することである。
 赤木は「戦争」状態においてなら、他人の口からパンをもぎ取るチャンスが自分に訪れるかもしれないと考えているが、社会が危機的状況に立ち至ったときに、相互支援する組織に属さない孤立した労働者に社会的上昇のチャンスはほとんどない。「不幸な人々」はたしかに増えるだろうが、それは彼が現在以上に幸福になるという意味ではない。社会的混乱の中でなら、現在彼より社会的に上位にいる市民を理由もなく「ひっぱたく」好機に遭遇するかもしれないが、その権利は赤木自身を理由もなく「ひっぱたく」権利を捨て値で売ってしか手に入れることができない。
 たしかに「今よりもっと弱肉強食の社会になれば弱者にもチャンスがある」というのは一面の真理を含んでいる。けれども、その一面の真理にすがりつく人は「弱肉強食の社会で弱者が負うリスク」を過小評価している。強者とは「リスクをヘッジできる(だから、何度でも失敗できる)社会的存在」のことであり、弱者とは「リスクをヘッジできない(だから、一度の失敗も許されない)社会的存在」のことである。社会における人間の強弱は(赤木の想像とは違って)、成功できる機会の数ではなく、失敗できる機会の数で決まるのである。
 私たちは近代市民社会の起源において承認された前提が何だったかもう一度思い出す必要があるだろう。それは「全員が自己利益の追求を最優先すると、自己利益は安定的に確保できない」ということである。この経験則を発見した人々が近代市民社会の基礎を作ったのである。
 格差はつねに存在し、私たちは(意識しようとしまいと)そのつどすでに私が所有しなければ違う誰かに属していたはずのパンをおのれの口に咥えている。これは動かしがたい事実である。けれども、人間を差異化する根源的なカテゴリーはパンの有無によって決まるのではない。差異はたまたま自分の口にあるパンについて「私にはそれを占有する権利がある」と思っている人間と、「私にはそれを他者に贈与する権利がある」と思っている人間の間に引かれている。
 どちらもパンについての自由裁量権を持つことを喜びとする点では変わらない。だが、人間の共同体は後者のタイプの人間を一定数含むことなしには成立しないのである。
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