記号的な殺人と喪の儀礼について

2008-06-11 mercredi

秋葉原の事件について平川くんが書いている。
http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/
彼のオフィスは秋葉原だから、まさに目と鼻の先で起きた事件である。
平川くんはこの事件については「よくわからない」という節度を保とうとしている。

確からしいことは、「かれ」は俺たちがまだ見出せていないような「必然」によって社会との繋がりから切断された存在になっていたということだけである。
その「必然」が見えなければこの事件は被害者と加害者というような明確な輪郭を持ってはいても、加害者の中に広がっていった闇については何もわからないままである。
もっと、言うなら、その闇の意味を見出せないままに書かれた「再発防止」の処方は、その闇を隠蔽し、広げるだけだと、俺は思う。

私は最後の部分が平川くんのとくに言いたいことだろうと思う。
無差別に人を殺すことを決意した人間の中にある、私たちの理解を超えた「闇の部分」について何もわからないままに、あるいはそのようなものが存在しないかのように処方された「再発防止」策は、闇を隠蔽し、拡げるだけだと、私も思う。
私はこういう事件のときに語られる社会心理学的なあるいは精神病理学的な説明に対してはいつも ambivalent な気持ちを感じる。
それらの説明はたしかに出来事の一部分については妥当する。
なるほど、そうか、と思うこともある。
けれども、どこか「説明過剰」になっているような気がするのである。
その理屈では説明できないし、説明すべきでないことまで説明してしまうことによって、説明されることによって生成した局所的秩序を上回るような無秩序がそこに増殖してしまう。
そういうことがある。
事件の「トリガー」になった小さなきっかけはおそらく無数にある。
その中の「どれ」が最大の原因であるか、あるいは最終的な「一押し」であるか、といったことはわからないし、わかってもあまり意味がない。
そうではなくて、私たちの日常生活にふつうに転がっている無数の「あたりまえのこと」が、ひとりの人間の中でこのような事件を作りだしてしまう「物語 narrative」のありようを見ることの方が重要なのではないか。
私たちは誰も自分についての「物語」を編んでいる。
素材になる出来事はそれ自体としては価値中立的である。
同じように貧しく、愛情の薄い家庭に育っても、長じて穏和な人物になる場合もあるし、狷介な人物になる場合もある。
個人的経験が人間をどう変えるか、その決定因は、出来事そのもののうちにあるではなく、出来事をどういう「文脈」に置いて読むかという「物語」のレベルにある。
例えば、無差別殺人の犯人は、勤務先の工場の更衣室で自分の作業着が見当たらなかったことを「解雇」のシグナルだと解釈した。
同じことを自分の勘違いだと思う人もいるだろうし、同僚のいたずらだと思う人もいるだろう。けれども、この人物は選ぶことのできる解釈のうちの「最悪のもの」を選択した。
ひとつの出来事の解釈可能性のうちから、自分にとってもっとも不愉快な解釈を組織的に採用すること。
これは事実レベルの問題ではなく、物語レベルの問題である。
そして、この「ひとつの出来事の解釈可能性のうちから、自分にとってもっとも不愉快な解釈を組織的に採用すること」は私たちの社会では「政治的に正しいこと」として、このような事件についてコメントしている当の社会学者や心理学者たちによって、現につよく推奨されているのである。
「ハラスメント」にはさまざまなヴァリエーションがあるが、私たちがいま採用している原理は、あるシグナルをどう解釈するかは解釈する側の権限に属しており、「加害者」側の「私はそんなつもりで言ったんじゃない」というエクスキュースは退けられるということである。
「被害者」はどのようなコメントであれ、それが自分にとってもっとも不愉快な含意を持つレベルにおいて解釈する権利をもっている。
「現に私はその言葉で傷ついた」というひとことで「言った側」のどのような言い訳もリジェクトされる。
これが私たちの時代の「政治的に正しい」ルールである。
その結果、私たちの社会は、誰が何を言っても、そのメッセージを自分のつくりあげた「鋳型」に落とし込んで、「その言葉は私を不快にした」と金切り声を上げる「被害者」たちを組織的に生産することになった。
たしかにそのような記号操作をしていれば、世界はたいへんシンプルになる。
私たちはメッセージを適切に解読するために、実際にはたいへん面倒な手続きを踏んでいる。
言葉が語られたときの口調や表情、身ぶりといった非言語的シグナル、前後のやりとりとのつながり、どういう場面でどういう立場からの発言であるかという「文脈」の発見、発言者のこれまでの言動の総体の中に位置づけてその暗黙の含意や事実認知上の信頼性、遂行的な確実性を査定すること・・・そういった一連の作業を経てはじめて、無限の解釈可能性のうちから、とりあえずもっとも適切と思われる解釈にたどりつくことができる。
これは面倒な仕事である。
特に、「おそらく『こんなこと』をいおうとしているのであろう」という暫定的な解釈に落ち着きかけたところで、その解釈になじまないようなシグナルに気づいて、自分がいったん採用した解釈を捨てて、もう一度はじめから解釈を立て直す、というのは心理的にはたいへんむずかしい。
この面倒な仕事をしないですませたいという人がふえている。
ふえているどころか、私たちの社会は、今ほとんど「そんな人」ばかりになりつつある。
目に付くすべてのシグナルを、「ひとつのできあいの物語」を流し込んでしまえば、メッセージをそのつど「適切に解釈する」という知的負荷はなくなる。
メディアで「正論」を語っている人々の中に「話の途中で、自分の解釈になじまないシグナルに気づいて、最初の解釈を放棄する」人を私は見たことがない。
この二十年ひとりも見たことがない。
これはほとんど恐怖すべきことであると私は思う。
知的負荷の回避が全国民的に「知的マナー」として定着しているのである。
今回の秋葉原の事件に私が感じたのは、犯人が採用した「物語」の恐るべきシンプルさと、同じく恐るべき堅牢性である。
人を殴ろうとしたことのある人なら、他人の顔を殴るということがどれくらいの生理的抵抗を克服する必要があるかを知っているはずである。
そこに生身の身体があり、その身体をはぐくんできた歳月があり、親があり、子があり、友人知人たちがあり、彼自身の年来の喜び悲しみがそこに蓄積しているということを「感じて」しまうと、どれほどはげしい怒りにとらわれていても、人を殴ることはできなくなる。
人間の身体の厚みや奥行きや手触りや温度を「感じて」しまうと、人間は他人の身体を毀損することができない。
私たちにはそういう制御装置が生物学的にビルトインされている。
他人の人体を破壊できるのは、それが物質的な持ち重りのしない、「記号」に見えるときだけである。
だから、人間は他者の身体を破壊しようとするとき、必ずそれを「記号化」する。
「異教徒」であれ、「反革命」であれ、「鬼畜」であれ、「テロリスト」であれ、それはすべての人間の個別性と唯一無二性を、その厚みと奥行きとを一瞬のうちにゼロ化するラベルである。
そこにあるのが具体的な長い時間をかけて造り上げられた「人間の身体」だと思っていたら、人間の身体を短時間に、「効率的に」破壊することはできない。
今回の犯人の目にもおそらく人間は「記号」に見えていたのだろう思う。
「無差別」とはそういうことである。
ひとりひとりの人間の個別性には「何の意味もない」ということを前件にしないと、「無差別」ということは成り立たない。
現実が電磁パルスで書かれたネット上のメッセージと同じくらいに「薄く」感じられなければ、こういうことはできない。
そして、私たちの社会は現実の厚みを捨象して、すべてを記号として扱う術に習熟することを現にその成員たちに向かって日々要求している。
それどころか、この事件そのものが私たちに「すべてを記号として扱うこと」を要求している。
というのは、私たちは殺された人々のひとりひとりの肖像をいくら詳細に描き出されても、犯行の手順の詳細を知っても、それによっては事件について「何も理解できない」からである。
この事件について、メディアは被害者の個人史のようなものを紹介し、それがいかに「かけがえのないもの」であるかをパセティックな筆致で描き出している。
けれども、そんなことをいくら知らされても私たちは「この事件について」は何一つ知ることができない。
この事件について理解したいと思えば、私たちは「死者たちのことはとりあえず脇に置いて」という情報の操作を強いられる。
被害者を「誰でも構わなかった複数の死者」という「記号」に置き換えることなしに、話を先に進めることができない。
ふつうの殺人事件の場合は、それが怨恨や痴情のもつれや利害の争いであった場合、死者が「どんな人間であったか」ということは問題の核心である。
それを知らないと事件の意味がわからないからである。
死者たちは繰り返しその人生の細部にわたって言及され、その美質や欠点について言挙げされる。
それは「喪の儀礼」の本質に通じている。
けれども、「無差別的に選ばれた被害者」については、死者たちの人生を誕生から死の日まで遡及的に再構成し、繰り返し語ることは「何が起きたか」を理解する上ではまったく無意味なのである。
犯人は被害者たちを「記号」に読み替えた。
それゆえ、この事件を理解しようとする人間は犯人と同じように、「死者たちひとりひとりが何者であったかということは、とりあえず『脇に置いて』」というところから始めることを強いられる。
このふるまいのもっとも恐るべき部分は(平川くんが「闇の部分」といったのはおそらくこのことだと思う)、「記号に読み替えられたことで死んだ死者たち」については、私たちもまたそれを「記号として扱う」ことを強いられるということである。
私たちは記号的に殺された死者たちをもう一度記号的に殺すことに「加担」させられることなしには、この事件について語ることができないという「出口のない状況」に追い詰められているのである。
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