東本願寺の出している「サンガ」という雑誌のインタビューで三人の住職さんとカメラマン一人がおいでになる。
「お西さん」の出している「ジッポウ」の仕事もしているし、「寺門興隆」にはついこの間バリ島で昼寝をすると気分がよろしいというようなエッセイを書いた。
なぜか、仏教系メディアからのお仕事が多い。
どうしてなのであろう。
私の考えていることのどこらへんが仏教的に「フックする」のか、自分ではよくわからない。
今回のお題は「学びと労働」である。
どうして子どもたちは学ぶことを拒むようになったのか、どうして若者たちは「クリエイティブな仕事」を求めて転職を重ねるようになったのかという、このところよく訊かれるお題である。
それは「消費文化」のせいであるとお答えする。
「消費文化」とは「人間は消費を通じて自己実現する」というイデオロギーのことである。
どんな家に住み、どんな家具を並べ、どんな服を着て、どんな車に乗り、どんな音楽を聴き、どんなレストランでどんなワインを選ぶか・・・といった一連の「商品選択」を通じてその人の「個性」は表現されるという考え方のことである。
現在のメディアが「個性的な」という形容詞で記述している人間的行為の99%は「どんな商品を購入しているのか」という水準で語られる。
だから、ぼんやりした読者は『通販生活』と『クロワッサン』を識別できない。
そのことを誰も「変だ」と思わない社会が「高度消費社会」である。
ある学生から「やりたいことがあるんですけれど、お金がないので、それがやれません」という泣訴を聴いた。
私は「そんなことを言っている人間は一生何もできん」と冷たく突き放した(私はときどき氷のように冷たくなる)。
「自分の個性」の発現を「商品購入行動」として観念していると、「まず金が要る」という結論にしか帰着しない。
「自分らしい生き方をしたい」
「そのためには『自分らしい生き方』を記号的に表象する商品を購入しなければならない」
「金がない」
「自分らしい生き方ができない」
終わり。
このような推論形式で「おのれの不能」を定式化している限り、出口はない。
「手っ取り早く金を稼ぐにはどうすればいいのか?」というより功利的なシフトするが関の山である。
「自分らしい生き方は商品購入によってしか発現できない」というのは1980年代から日本全国を覆いつくした消費文化イデオロギーである。
そのイデオロギーの内側にとどまる限り、そこで人々が身をよじるようにして絞り出す唯一現実的な言葉は「もっと金を」である。
学びが機能しないのは、子どもたちが「学び」を「商品(知識、技能、学歴など)の購入」という消費のスキームでとらえているからである。
労働のモチベーションが維持できないのは、若者たちが「労働」を「商品(昇給昇進、威信、権力、情報など)の購入」という消費のスキームでとらえているからである。
消費のスキームの内側にとどまる限り、欲しい商品が手に入らない理由は「対価として差し出すものがない」というかたちでしか説明できない。
学びや労働を商取引のタームで考えれば、「金」に相当するのは「努力」である。
努力を対価として成果を得る。
当たり前のことだ。
だが、この当たり前のことができない。
なぜなら、「努力」をどうやって手に入れるかは誰も教えてくれないからである。
「努力って、どうすれば買えるの?」と彼らは訊く。
でも、誰も教えてくれない。

コメント (46)
クリエイティブであるということは、かつては消費のスキームの外側に出ることだったし、それはリスキーな選択だったはずなのですが・・・。
今の若い人があこがれる「クリエイティブ」というのは、広告屋でありそれにくっついているデザイン屋であり、要は消費のスキームの中心軸に近いところにある仕事、というイメージなのですね。
クリエイティブであるということの意味が、ある時点で世の中的に180度変わってしまったと感じています。
投稿者: lowervillage
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2008年05月08日 12:15
日時: 2008年05月08日 12:15
>「努力って、どうすれば買えるの?」と彼らは訊く。
というのは内田さんが書いているうちにたどり着いた(書く前に判然としていたわけではない)結論だと思いますが、「商品」の対価が「努力」しかないなら、努力するはずだ、
というのが成果主義の考え方で、これがうまくいかない説明としては成立していないような気がするのですがいかがでしょう。
投稿者: AZ
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2008年05月08日 13:18
日時: 2008年05月08日 13:18
>「消費文化」とは「人間は消費を通じて自己実現する」というイデオロギーのことである。
また、こんな強圧的な断定をしている。
センセイ、ためらいどころか抑圧的なダンテイばかりですなあ。
投稿者: イカフライ
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2008年05月08日 13:40
日時: 2008年05月08日 13:40
内田先生、今回のお話、非常に耳が痛い思いで読ませていただきました。
>「金がない」
>「自分らしい生き方ができない」
無意識にというか、無条件にそう考えていたような気がします。
消費文化イデオロギーに毒されているということですね。
お金なり、努力なりを差し出す。
その見返りとして、「自分らしい生き方」「商品」「成績」「学歴」
こういった報酬を手に入れる。
これが、消費文化イデオロギーということですね。
やりたいことがあるならば、無一文でも、牢屋の中でも、誰に止められてもやっているだろう。
それは、そうですよね。
「お金が無い」から「自分らしい生き方ができない」とは、しょせんその程度の自分らしさなんですね。
「学び」も、本来はただ学びたいから学ぶのだ。報酬を求めてすることではなく。
「学び」の努力の報酬として、「商品を購入」するというスキームで捕らえている限りは、ではその「努力」はどこで売ってるのですか?と問うことになる。
無償の雪かき仕事。
誰かがやらなければならないことがあるならば、私がそれをやろう。
賞賛されることもなく、報酬もなくても、それば私の使命ならば、私はそれをやる。
そういう人たちによって、この世は支えられている。
この話と通じるものがありますね。
まさに、消費文化イデオロギーとは対極の生き方です。
私には、なかなか出来ないことですが…。
内田先生、良いお話をありがとうございました。
投稿者: 湧泉堂
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2008年05月08日 14:58
日時: 2008年05月08日 14:58
読めば読むほど、腑に落ちない。
おかしなブログだ。
悲しみも悩みも怒りもなく日々、断定と押し付けで強圧的に物事を処理し平和で愉しい生活を送っているかのごとくみえるが、人間ってそんなものかい?
不思議だ。
投稿者: イカフライ
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2008年05月08日 15:36
日時: 2008年05月08日 15:36
>>AZさん。
「商品」の対価が「努力」しかないなら・・・、と仮定すれば、「努力」は「商品」のラインナップから外されませんか? こうなると、「努力」を差し出す主体は消費文化の世界に含まれてきませんので、内田先生とは、また違ったお話になるように思われますが。
投稿者: 誤読しらず
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2008年05月08日 16:39
日時: 2008年05月08日 16:39
>ある学生から「やりたいことがあるんですけれど、お金がないので、それがやれません」という泣訴を聴いた。
私は「そんなことを言っている人間は一生何もできん」と冷たく突き放した(私はときどき氷のように冷たくなる)。
「自分の個性」の発現を「商品購入行動」として観念していると、「まず金が要る」という結論にしか帰着しない。
↑意味不明ですね。
論理が破綻しております。
「やりたいこと」がたとえば化学の実験だとすれば、ビーカーや薬剤が必要になる。これを買う金がなければ、「やりたいこと」はできない。
世の中には手つくりで出来ないものというのはあるからだ。
上の内田さんの文章からだけでは大雑把かつ曖昧すぎて学生がどのようなことをやりたかったかが伺い知れない。
これだけをもって学生が「やりたいこと」が「商品購入行動」であったなんて、論理がめちゃくちゃだ。
たとえば化学実験のためにビーカーや薬剤を買う金がなくて実験ができない学生がやりたかったことはなんであったのか?
小学生にもわかることだが、「商品(ビーカーや薬剤)」を買って「実験」がやりたかったのである。
それをどうして「金がないからやれない」という発言を一括して「商品購入行動」が目的だったなどといえるのか?
あまりにも超絶的な論理に唖然、呆然とするイカフライでした。
投稿者: イカフライ
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2008年05月08日 17:33
日時: 2008年05月08日 17:33
↑結局、いつものことながら自分の考えている結論に、強引にもっていきたがるあまり論理を無理矢理ずらすか、曖昧にするか、ワープさせるかという操作が無意識にか、意識的に行われている。
無意識だとすれば病気だし、意識的だとすればそれはまずい。
投稿者: イカフライ
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2008年05月08日 17:45
日時: 2008年05月08日 17:45
医者とか弁護士とかで目の前に困っているひとがいて、それを救済したい、ということであればわりと生きがいはその段階ではでてきます。うまくいかなかったり、クライアントとトラブルがでてくると、それはそれでしんどいですけどね。
芸術・学術で、注文がきているうちはいいでしょうけど、不足感がないときはしんどいでしょうねえ。
羽海野チカ「3月のライオン」の主人公(才能あるプロ棋士だか、家族をささえるというインセンティブはない)の悩みとかおもいだしました。
投稿者: 岡本哲
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2008年05月08日 18:03
日時: 2008年05月08日 18:03
「金(カネ)」というものが、実体経済をはるかに上回る虚像を大量に築き上げてきてしまった現代において「労働=金」ですらなくなってしまったことが「もうどうにもこうにも」なんだと。それはもはや「消費のスキーム」の内とか外の話ですらないような気がする。消費だったらまだしも実体が伴いますからね(それなら景気も良くなるだろうし)。それよりも、家に引き籠もりのデイトレーダーが億単位のお金を動かしているのが日常風景の時代。「自分らしい生き方」とか「やりがいのある仕事」と考える若者の幼稚さは今に始まったことではないので大した問題だとも思わない。どの道社会に出れば自然淘汰されますよ。「やりがい」を探して職を転々としてどこでもモノにならず、そして巡り巡って私の職場のような中小企業にやってくる。その頃にはもういいおじさん(おばさん)になっていて、十分すぎるほど「平八」的なるものになっているわけですよ。もはやそれしか生き延びていく方法がないのだから。世の中の半分ぐらいはそんな感じで出来ているのではないですか。若い頃からご立派だった方はその通りご立派な人生を歩まれるのでしょう。で、歳をとってからあんな事やこんな事になってしまったりする。で、「自分探し」のボンクラ青年はロクなキャリアも身に付かない、でも、ひどい遠回りではあるけれどそこそこの人生を見つけたりするもんですよ。だから、心配したって仕方ない。
投稿者: raincoatcrowd
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2008年05月08日 18:03
日時: 2008年05月08日 18:03
そもそも2ちゃんねるやここで思い切り誹謗中傷をしている「誤読知らず」が、
内田樹からどんな倫理を学んだのか?
興味がつきないよ。
投稿者: イカフライ
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2008年05月08日 18:28
日時: 2008年05月08日 18:28
raincoatcrowd さんのいうとおりであってね、
平八だろが平八でなかろうが、他人の人生をまあ、余計なお世話だよ。
てめえが成功したからって偉そうにまあ。
とおれも思うね。
投稿者: イカフライ
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2008年05月08日 18:45
日時: 2008年05月08日 18:45
学ぶことを拒否する子供。無意味な転職を繰り返し、消費でしか自己表現できない若者。昔はこうではなかった。消費文化のために、世界は劣化し、堕落した。
こういうストーリーは大量にマスメディアから垂れ流され、ノスタルジーに酔っぱらったオヤジたちによって、毎日日本中で反復されています。
けど、本当にそうなのか。
「子供が狙われている」「日本の治安は崩壊した」と言いながら、昨年の殺人件数は史上最低。それと同じような話じゃないか。
投稿者: gizza
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2008年05月08日 18:54
日時: 2008年05月08日 18:54
ここのところ、ちょっとひっかかっていたことに
すとん、と落ちがついた気持ちになりました。
生活まわりのブログや雑誌には
美味しいものや
素敵なものや
素敵な生活や
そういうものの紹介も多くて
でも、「買う」とか「手に入れる」とか
そういうことが必要になるものを知ることばかり
読むことばかりで
気持ちがアップアップしているのだと思いました。
投稿者: robin
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2008年05月08日 21:34
日時: 2008年05月08日 21:34
中央線は転職情報の洪水だ。扉の横に「アーティストに転職にしたスガシカオ」のキャッチコピーで転職を奨めるポスターが貼ってある。そのまま目線を上げると、今度はヤンキーズの松井が、転職は慎重に、なんて言っている。扉の上にはモニター画面があって、ニュースの合間に5種類くらいのCMをエンドレスで流すんだけど、一本が爆笑問題の転職情報サイトのもの。若者じゃなくても、転職すれば、クリエイティブで、大金が稼げて、自分らしく個性的に生きられる、と考えて何ら不思議のない情況に置かれているわけ。
投稿者: ねんねこ飯店
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2008年05月08日 23:26
日時: 2008年05月08日 23:26
イカフライ様、
> >「消費文化」とは「人間は消費を通じて自己実現する」というイデオロギーのことである。
>
> また、こんな強圧的な断定をしている。
断定というより、これは「先生による仮説」ですね。
突拍子もなく、まず「何々とは何々である」と言ってみて、それから、「まあまあ最後まで聞きなさいよ。この仮説を支持する知見について、これから話すから。」というのが、先生の(いつもの)スタンスだろうと思います。
先生の話がおもしろいと思う人の多くは、先生による「何々とは何々である」という宣言に、無意識のうちに共感してしまう人だろうと思います。逆に、全然共感してしまわない人にとっては、「この人なに言うたはんねやろ?」ということになってしまうでしょう。
> それをどうして「金がないからやれない」という発言を一括して「商品購入行動」が目的だったなどといえるのか?
先生は何も「「金がないからやれない」という発言を一括して「商品購入行動」が目的だ」とは言っていないと思います。確かに先生は、先生に対して泣訴した“特定の”一学生の「金がないからやれない」発言に対しては、「商品購入行動が目的である」と考えられているようですが、より広い一般的に意味において、「金がないからやれない」発言イコール「商品購入行動が目的である」とは言っていないと思います。
たしかに、やりたいことが化学実験であり、それ自体が目的であれば、「金がないからやれない」という泣訴は、ただちに退けられるものではありません。
先生はおそらく、その学生の泣訴の様子から、「こいつは、やりたいことそれ自体が目的なのではなく、消費文化のイデオロギーに毒されて、そう言ってるに過ぎない」ということを見抜かれて、冷たく突き放したんだと思います。
投稿者: heisan
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2008年05月09日 00:33
日時: 2008年05月09日 00:33
私は、あこがれの「クリエイティブ」稼業に従事しています。
ま、lowervillageさんいうところの広告屋であり
それにくっついているデザイン屋なんですが。
で、この「クリエイティブ」稼業の実態は、
私が思うに、消費サイドというよりも、
どちらかといえば生産サイドに近いところにある。
消費のスキームの外側なんて気の利いた言い方じゃなくて、
あれこれグチャグチャ、事情やら思惑なんてものが絡み合って、
それでもなんとか「カタチにする」という日常があります。
そんな中に、それこそ消費のスキームの中心軸に
近いところにある仕事、というイメージだけで
「クリエイティブ」稼業の世界に飛び込んでくる若者がいます。
こういうタイプの若者は現場では、すぐには機能しない。
基本的に提供する側にいるということが理解できていなくて、
提供される側のロジックだけで「クリエイティブ」を捉えているから、
グチャグチャやら事情やら思惑やらを、乗り越えられないのですね。
まあ、かっての私もたぶんそんな若者だったと思います。
でも日々を重ねるなかで「気づき」というものが
やってくることも有ります。グチャグチャも事情も思惑も、
まず引き受けたところから始めていけることがあることに気づくのです。
その時、やっとクリエイティブということの、
楽しさも厳しさも判ってくるし、なぜか表現自体にも、
自由を感じられるようになるわけです。
それだけに、私は内田さんのように冷たく突き放したりせずに、
まあ手を変え品を変え、彼らに「気づき」がやってくるように
世話を焼いていますし、「気づき」を経た彼らの姿を見るのは楽しい。
ともあれ、広告屋ともデザイン屋ともいわれてしまう私の稼業ですが、
案外、その実態は世間のイメージで語られるものとはかけ離れていて
それだけに○○屋と揶揄されてしまう状況には、
ココロ穏やかでいられなかったので、補足的にコメント
させていただきました。
投稿者: arune
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2008年05月09日 01:03
日時: 2008年05月09日 01:03
>> 誤読しらずさん、
どうもすっきりしないですね。仮に「努力」が「商品」のラインナップから外れているとして、消費のスキームで考える人間は「商品」のラインナップに「努力」が並んでいないので、自分が欲望するものを購入する手段が思いつかない、という主旨でしょうか。
内田さんがおっしゃられているのがココまでだとするなら、それはそれで了解するのですが、現実をみたときに「労働のモチベーションが維持できないのは、若者たちが『労働』を『商品(昇給昇進、威信、権力、情報など)の購入』という消費のスキームでとらえている」ために「努力」することを思いつかないからだ、というのは私の実感としてちょっと違うのではないかという気がします。(中にはそういうケースもあるであろうことを否定するつもりもありません。)
内田さんのロジックでいくと、成果主義は若者に欲望する商品を購入したいなら市場に転がっていない対価を発見せよ、すなわち努力せよ、と促す効果があるためむしろ結構なものという話になってしまうような気がするのです。(おそらく「学び」と労働における「努力」を混在させて論じているところに無理が生じているのではないかと愚推しております。)
あ、ちなみに、内田さんのblogのコメント欄で他の方と論争するつもりもありませんし、内田さんがコメントは放置する方針なのは存じているので、ご本人からの反応も期待していません。誤読しらずさんにおかれましては、気が向いた場合はコメントくださって構いませんし、向かなかったら無視してくださって全然構いません。私もそうさせて頂きます。
投稿者: AZ
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2008年05月09日 01:26
日時: 2008年05月09日 01:26
heisanさん、あなたが内田さんを擁護したい気持ちはよくわかります。
しかし「仮説」を述べるなら「仮説」を述べるように日本語はそのように用意されているわけです。
①中国は米国に宣戦を布告した。
②中国が米国に宣戦を布告したとして。
断定と仮説は言葉ではっきり区別できるように日本語の文法はできている。
内田さんの語法が、仮にあなたのいうようなものだったとしても、ふだん常識的に使われる日本語との境目が一般の人にはわからない。
あるときはじつは「仮説」だったと言え、また、あるときはあれは「断定」だったと言える。
「あれは実は仮説だった、わたしのファンならわたしの語法はよく知っている」というようなことが通るなら、日本語の文法はいらないわけです。
狂信的な密教的内田教の会でも作って、会員制のブログでもやればいいと思いますよ。
言葉というものはだれにでもわかるように文法というものが作られており、それゆえにだれでもいつでもどこでも、すべての言説にアタックして、批評が成り立つようにできている。
内輪だけにわかるような語法を使って、あたりまえのアクセスを拒否するような語法は、カルトとしかいいようがありませんね。
>確かに先生は、先生に対して泣訴した“特定の”一学生の「金がないからやれない」発言に対しては、「商品購入行動が目的である」と考えられているようですが、より広い一般的に意味において、「金がないからやれない」発言イコール「商品購入行動が目的である」とは言っていないと思います。
だから「より広い一般的な意味」を今回の記述のどこから忖度するの?
具体的な論理の一連を引用しないで「たぶん」という気分でそんなことをいってもそれは宗教の世界だ。
それではまさしくカルトにしかなってないでしょう。
内田教祖さまのいうことだから、そんな悪い意味ではないに決まっている。きっとそうだ。
そう言っているだけですよ、あなたは。
それでは人を説得することはできませんよ。
言葉というものは書かれた言葉がすべてです。そこから言外のことを想像することもできるが、書かれた言葉がなければ言外のことも想像できない。
書かれた言葉がないのに言外のことを想像するのは、やっぱりカルトです。
投稿者: イカフライ
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2008年05月09日 05:49
日時: 2008年05月09日 05:49
追記:
内田さんの記事を今一度、精密に読み直しましたが
>「消費文化」とは「人間は消費を通じて自己実現する」というイデオロギーのことである。
これが仮説だということを伺わせるような記述はどこにもみられませんでした。
それどころか、この断定を足場にすべての決めつけが始まっていることはあきらかです。
仮説ならその仮説をもとにした推論があってしかるべきだが、どこをどう探してもそのようなものは見当たらず、むしろ内田さんは数学でいう定理のようなものとしてそれを差し出している。
つまり内田さんの前提となる断定は仮説どころか、なぜかいつも「定理」に近い。w
これがわたしがいつも「うっ!」と思わず目をそむけたくなるこの方特有の言葉使いなんです。
この強圧的な語法が神経症的だとわたしは指摘し、それを盲目的に受け取る「信者」をカルトだといっているのです。
投稿者: イカフライ
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2008年05月09日 06:01
日時: 2008年05月09日 06:01
>>AZさん。
「欲望する商品を購入したいなら・・・努力せよ」と若者に向かって説教する「酔っぱらったオヤジたち」(@gizzaさん)が内田先生のロジック?とか疑ったことも過去には。ご存知かどうか、先生が『下流志向』をお書きになる直前、やっぱり「学び」とか「努力」をキー・ワードに若者論がアップされ炎上寸前までいきました。多くの若者が上記に類似した読みをしていたので。そのトラウマがあって、『下流志向』は購入したのに積読。10%引きならお譲りします(嘘)。もう若者に分類されない人間です、ご参考まで。
いまも先生の若者論を拝読すると恐怖が横切りますが、ちょっと誤読かなと考えだしてるところ。誤読に気がつかないので恐れないってところにHNの意味があるといえ。
どんなに自分が努力しているか、優れているかを上司や会話相手に口をきわめて売り込み、またアイツはダメだから切れと指示する話などが後部座席から聞こえてきますと、人間も商品だという通説が、ありありと理解されてきます(こっちタクドラ)。これを過激に読み取ると、努力するとか努力しないとか、成果主義がよいとか悪いとかの話をしたり聞いたりしている主体(私たち)自身が、すっかり高度消費社会に言語化されていることになります。これじゃ映画『マトリックス』の世界であり、地底から聞こえる内田先生の声が、悪魔の、また福音の声であると聞こえるのは当たりまえかも知れないな。というのが、いまのところの感想。論争になりましたか?(笑)
投稿者: 誤読しらず
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2008年05月09日 06:40
日時: 2008年05月09日 06:40
先に筆者が内田の語るレヴィナスが、無限と向かい合わないふつう一般の人のあり方は誤りだ、といっているように聞こえる部分が、どうも困ると述べたこともこのことと関係がある。
ふつうの人間のふつうの感じ方、これを否定してしまうと、わたしたちはリラックスすることのうちに判断の基準があるという体感をなくすのではないだろうか?
ものを考えるとき、人は息をつめる。しかし息をつめ続けていたら死んでしまう。ものを考えるのは、リラックスしていることとの往還なのだ。
『ぼくが批評家になったわけ』加藤典洋244~245p
わたしがいつも疑問なのは、内田さんがマスコミのコメント要請に答えられるときの心持ちだ。
学生や社会のためを思ってなのか。与えられた「お題」を色鮮やかに斬りとり、大向こうをうならせるためなのか。
いずれにしても口とは裏腹にわたしには内田さんが「ふつうの人」を憎んでいるようにすらみえる。
それはなぜだろう?
投稿者: イカフライ
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2008年05月09日 06:47
日時: 2008年05月09日 06:47
おはようございます。
私は昭和42年愛知県の田舎の生まれなのですが、
先生の
>それは「消費文化」のせいであるとお答えする。
とのご指摘を拝読して思い出したことがございます。
昭和50年頃でだったと思いますが、小学校の友達と野原に集まってみんなで日本の伝統的なしっぽのある凧を手作りで作って凧揚げを楽しんでしていたら、小学校で一番の金持ちの子だが、あまりみんなの輪に入れないでいた子がやってきました。私はそいつにはオバケのQ太郎のドロンパとかドラえもんのスネ夫とかの嫌味なイメージがありました。で、そいつは来るなり家から持ってきた、見慣れない大きな目玉のデザインの三角形でしっぽのない凧を揚げ始めました。みるみるまにものすごい高さまであがっていきまして、
「この凧はアメリカの凧で100mもあがるんだぞ」と
ぬかしやがりました。
後で知ったのですが、それは当時流行した「ゲイラカイト」でした。
確かにものすごく高く上がるのでみんな「すげえ」と目を見張りましたが、せっかくめいめい時間をかけて一生懸命作った凧を持ち寄って仲良く遊んでいたのに、一瞬でそんな西洋凧にけちらされたので、最後にはしらけて凧揚げをやめてしまい、散り散りに帰ってしまいました。
後でみんなで
「親に買ってもらっただけのくせに」
とそいつの悪口を言い募りました(笑)。そのときは凧揚げよりも楽しかった(笑)。
#でも一緒になって悪口を言った友人がおもちゃ屋でお小遣いをはたいてゲイラカイトを買っているのを目撃したときはとてもショックでしたが(笑)。
とまれ先生が「下流志向」でご指摘のように、学びや労働から逃走する子供が増えたということは、ああいう子供ばかりの世の中になってきたと理解したのですがいかがでしょうか。ならば遊んでいて楽しくなどないはずだと思います。
投稿者: bun
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2008年05月09日 07:47
日時: 2008年05月09日 07:47
わたしは内田さんが、あまりにも「ふつうの人」を畏れなさすぎるといいたいのです。
たとえば、
>ぼんやりした読者は『通販生活』と『クロワッサン』を識別できない。
内田さんは『通販生活』と『クロワッサン』を識別できない人々の存在を畏れなさすぎる。
たしかにそういう「識別」能力は知の力のたまものでしょう。『通販生活』と『クロワッサン』の微妙で本質的な差異を知ることは、知者の特権であるかもしれません。
だからといって特に立派なことでもないのですよ。そういう差異を知ることによって確実に失う大事なものもある。損得を量りにかければフィフティフィフティです。
もちろん、『通販生活』と『クロワッサン』の違いを識別できる人を出来ない人は畏れるべきでしょう。同時に、素朴な欲望の発動を全身で歓べる人(「ね、これ良いと思わない?」「あら、すてき!」)を、違いが識別できると悦に入っているひとは畏れなければならないのではないか。
思想とはそのようなに相互に知と非知とが認め合う地盤の上にしか成り立たないのではないか。
そうでないと「誤読知らず」氏のように、難解な思想用語を振り回すことがなにやら人より知的で偉いことのように誤解する人も出てくる。
そのために「努力」したところでしょせんは人を弁別する機能を手に入れただけの虚しい出来事であることを気づかずに人生を送ることになるのではないでしょうか?
投稿者: イカフライ
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2008年05月09日 09:13
日時: 2008年05月09日 09:13
曖昧な記憶ですが、宮崎駿監督が『もののけ姫』の頃に「なぜ自然についての映画を作ろうと思ったのか」という質問に対して「若い頃に自然を描きたいと意識したことはなかったが、普通のアニメを描いているときに、例えば背景の街路樹が『こんなんでいいのか?』と気になりだして、ちょこちょこと手を加えていくうちに、気がつくと夢中になって背景の自然ばかりを描き込んでいることが多くなっていった」というようなことを語っていたのを思い出しました。
内田さんが『下流志向』で分析したように、空間的・無時間的な消費行動においては、こちら側に「自分の欲望を熟知した私と金」があり、あちら側に「その欲望を充足してくれることが既に知られている商品」があって、それらが予定調和的に等価交換されるというのが理想ですから、宮崎さんに起きたような「自分の中から突然あふれ出てくる得体の知れない欲望」は「計画の遂行をさまたげる悪」として淘汰されてしまう可能性が高いでしょう。見慣れた風景の図と地が反転してしまうような根本的な変化の可能性を前提にしたら、ショッピングリストが作れなくなってしまう。
消費モデルに基づく自己実現イデオロギーが、かえって本当の意味の自己実現を妨げてしまうということは充分にあり得ると僕は思います。って言うか、それほど遠くない過去に、僕自身がそういう若者でした。自分の「夢」は確定している。その実現のために「いまやるべきこと」も明確だ。なのになぜだろう、それを実行するエネルギーがどうしても湧いてこない。やがて何をする気力もなくなり、昼夜は逆転し、まともな食事をしなくなり、ただ時間だけが刻々と過ぎ去っていく、という焦燥の日々。「努力を遂行できる強い人間にならなくては」と「目標を下方修正した方がいいのかな」の間を延々とうろうろし続け、実は「目標を設定する」という人生モデル自体が自分の力を大きく損なっていると気づくのに10年くらいかかってしまいました。僕は自分の中の欲望たちを「計画経済」によって窒息死させていたのだと思います。
投稿者: ブルー
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2008年05月09日 09:14
日時: 2008年05月09日 09:14
ブルーさん
ブルーさんの「躓き」と「立ち直り」の過程はあなたの資質の問題であって、ということはほんとうは家庭(もっとつきつめれば母子の関係の問題)であって、「消費モデルに基づく自己実現イデオロギー」は関係ないとおもうのです。
消費モデルに基づく自己実現イデオロギーが高じて
>「手っ取り早く金を稼ぐにはどうすればいいのか?」
ということを考えている人をわたしは否定できない。わたしがそういうことを逆立しても出来ない、考え付かない能無しだからむしろそういうことを考えて行動に移す人を尊敬もする。
それどころかそいういう考え方を安易に否定する人は無責任だとおもう。
なぜなら、そもそも「消費モデルに基づく自己実現イデオロギー」が発動せざるをえない上位の構造(資本主義経済政治体制)がある。
それを批判せずに、個人レベルでの行動を批判するということは、そのような大枠での体制下で生きることをあきらめなさいというに等しい。
ほんとうなら内田さんは資本主義体制そのものを批判すべきなのだ。
ところがいつものごとく大枠の体制は否定せずに、大枠の体制からやむをえず生じる個人レベルでの「消費モデルに基づく自己実現イデオロギー」を論難する。
これ、無責任ですよね。
だって、大枠の体制の下でそれなりに精一杯生きることを否定するのなら、それでも生きられるように、今度は大枠の体制を思想的に否定するべく打って出なければならない。
ところが当人はその大枠を否定はしていないのですよ!
ブルーさんが語られた自己の「物語」は村上春樹の小説やらなにやらでおなじみの「物語」で、それでブルーさんが立ち直れたのなら否定することもない。
ただ、だからといって、「消費モデルに基づく自己実現イデオロギー」を悪玉にすることはどうかなーと思う今日この頃です。
投稿者: イカフライ
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2008年05月09日 11:02
日時: 2008年05月09日 11:02
ブルーさん
はじめまして、kotamaと申します。
おっしゃること、いちいち納得しながら読ませていただきました。
とくに最後の段落の文章は、まるで自分のことを読んでいるようでした(苦笑)。
自分もまた、かつては消費モデルに基づく自己実現イデオロギーに毒されていたように思います。
消費モデル化された目標は容易に思いつくものの、そうでない目標に対しては具体性が感じられず……というよりその奥の深さに恐れおののき、ある意味わかりやすいショッピングリストをとりあえずの目標としてしまう。
しかし、それを本心から大切なモノと思っているわけでもないから、それすら達成する意欲が生じない。
結局自分が駄目な人間だから……というループに入っていました。
結局、希望に満ちた「若者の時代」が過ぎて、ようやく本当の意味での自己実現に目が向くようになったような気がしています。
投稿者: kotama
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2008年05月09日 11:18
日時: 2008年05月09日 11:18
他人の文章を読むことは、自分ではない人の思考の足跡をたどることだと思います。時間や場所などの制約を超えて、文字という形で残された足跡をたどりながら、歩みの中で見た風景や、歩みの途上で感じた気持ちに触れる行為は大変興味深く、時には、その荒涼とした風景や絶望にたじろぐこともあります。
読書の後で心に残った部分を帳面に書き留める行為は、著者の思考を自分の中に取り入れようとする試みの現れなのでしょう。タイトルや著者を控えておらず、どの本から抜書きしたか忘れてしまいましたが、以下の一文が1998年の私の読書ノートに残されていました。
自分自身について明確な認識を欠いているにもかかわらず、他者に対して積極的に行動することによって、最も確実に自分自身を発見できると思い切って信じなければならない。たとえ自分が適切に愛されてきたと感じないでも、彼らは他の人々を愛さなければならない。人を愛するとき、自分がどのような人間かわかり始め、自尊心がそれについてくる。人を愛することができるのであるから、どこかで愛することを学んだに違いないことも、彼らは発見するであろう。彼らが与えられていたものは、おそらく、結局は十分だったのである。
投稿者: knobuki
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2008年05月09日 11:45
日時: 2008年05月09日 11:45
はじめまして、kotama さん。
> 消費モデル化された目標は容易に思いつくものの、そうでない目標に対しては具体性が感じられず……というよりその奥の深さに恐れおののき、
本当にそうですね。僕がいま大切に思うことって、青年の頃に軽蔑していたことや、そういう領域が存在するということ自体に気づいていなかったようなことばかりです。でもそういうことって、もっと昔、子供の頃には実はよく分かってたことなんじゃないかなという気もします。最近では小学生の頃からキャリア教育的なことをするのが流行ってるみたいですが、そんな時期から「自分が大切に思う価値」を「職業の名前」に変換させる訓練をしていたら、子供が持ち得る真にラディカルな思想が殺されてしまうのではないかと僕は外野席から心配してしまいます。中学校に呼ばれて「働くおじさん」として仕事の話をするという機会があったので、僕の場合は「頭」で考えた「夢」に向けて人生を組織化するという生き方がうまく機能しなかったので、そういうことをやめてただ日々の仕事に集中するようにしたら、仕事がどんどん難しくなっていって、いまはそれでいっぱいいっぱい、「むずかしー!くるしー!」とうめきながら、なかなか面白い日々を過ごしています、という話をしたら、優しい中学生男子に「○○さんも早く夢を見つけて頑張って下さい!」と激励されてしまいました。
投稿者: ブルー
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2008年05月10日 08:56
日時: 2008年05月10日 08:56
ブルーさん、お話は非常に結構、NHKが喜びそうな、いかにも美しい話なんですが、でも、またおかしなところにハマっておりませんか?
わたしはそういうのってあなたが躓いたところにまた立ち戻っているとしかみえないのですよ。
カタチが違っただけでね。
人間って正しいこととか綺麗なことを言っている間はダメだと安藤昌益というひとがいっておりますが、そのとおりだと思うんですよ。
倫理的にいいことしかいっていないような言説は全部ダメ、どこかウソなんだと、安藤はそういっている。
あなたはまたそういうウソにまた入り込んでいるような気がするんです。
あなたが内田氏の言説に惹かれるのもそういうところが「同期」!しているからかもしれませんが、それでは一生、ウソの人生を歩むことになりかねませんよ。
ぼくらがほっと一息ついて安心できる言説というのはそれとは正反対のところにあって、若い人たちはよくわかっている。たとえば自分がいかに金に執着するか、というところをぽろっと出すと正直な若者たちからはドッとくる。これは安心の吐息の輪なんです。
あるいは自分はいかにスケベエで、そのくせブスにもモテないということを白状してしまうと軽い蔑みの笑いがくる。でもそれは安心の、信頼の笑いなんです。
あなたのような、あるいは内田さんのような倫理的に正しいNHK的に美しいことを言っていても、たしかにNHK的にきれいな返事があるかもしれないが、そこにリラックスした安心はない。
どこかで緊張しているとおもうのですよ。
わたしはそういうのはいずれまた破綻を招くだけだと危惧しますね。
杞憂かもしれないことをお祈りしますが。
投稿者: イカフライ
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2008年05月10日 11:36
日時: 2008年05月10日 11:36
>>ブルーさん。
>そんな時期から「自分が大切に思う価値」を「職業の名前」に変換させる訓練・・・
そうだったんですね! 意味がやっとわかりました。学校でやらされたものです、何回か。ご指摘ありがとうございます。
子どもにとっては「ソノ夢、稼ゲル?」と訊く宇宙からのメッセージ。むずかしかったはずだ。こうして子ども時代から高度消費社会は人を言語化していく。この社会の表層に浮かんだ廃棄物を無批判に子どもたちに投げ与えて、「イイ先生ダロ、オレハヨ」って物真似顔だけはしたくない。恥ずかしい。社会を理解しているんじゃなく、どっぷり馴染みきっているだけだ。澱んで光も通さない廃水のなかで、汚いコケに覆われ皮膚病に冒されて、体中がブツブツだらけになった化け物ガエル。まあ、そんな死にかけたカエルをこの社会が「先生」と認めていないって逆接も確実に成り立っているので、その健全さも少しは評価しません?(笑)
投稿者: 誤読しらず
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2008年05月10日 14:21
日時: 2008年05月10日 14:21
とうとうここもNHK青年の主張、人生相談室の趣を呈してきたな。
(笑)
ふ。それもいいかもしれない。
投稿者: イカフライ
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2008年05月10日 15:42
日時: 2008年05月10日 15:42
イカフライ様、
> 内田さんの語法が、仮にあなたのいうようなものだったとしても、ふだん常識的に使われる日本語との境目が一般の人にはわからない。
「ふだん常識的に使われる日本語」は誰が決めるのでしょうか? 日本語を使う人たちですよね。かりに先生の語法がイカフライさんの視点から見て間違っているとしても、結果的にその語法の利用に賛成する人たちが大多数存在していれば、それは次第に「正しい語法」として定着していくことになります。言葉というものはそういうものだと思います。
> あるときはじつは「仮説」だったと言え、また、あるときはあれは「断定」だったと言える。
その通りです。
> 内輪だけにわかるような語法を使って、あたりまえのアクセスを拒否するような語法は、カルトとしかいいようがありませんね。
人間集団というものはそもそも宗教的な側面を持っているのですから仕方ないでしょう。言葉を使う限り「宗教的である」という性質から逃れることはほとんどできません。
> だから「より広い一般的な意味」を今回の記述のどこから忖度するの?
文脈からです。
> 内田教祖さまのいうことだから、そんな悪い意味ではないに決まっている。きっとそうだ。そう言っているだけですよ、あなたは。
私はそのようなつもりはありません。ただ、一ついえることは、私は(少なくともこの場では)性善説に立って物事を考えているということです。
> それでは人を説得することはできませんよ。
先生の語法が一般社会で通用するものであるかどうかは、一般社会の側が判断することでしょう。先生の語法で説得される人もいれば、説得されない人もいる。
ただ、私は、先生の語法を使用することによってしか得られない知見というものがあるならば、先生の語法を、日本語の用法の一つとして登録することにも価値はあると考えます。
> 書かれた言葉がないのに言外のことを想像するのは、やっぱりカルトです。
「書かれた言葉がないのに言外のことを想像する人たちは全員カルトである」という言明に、同意致しかねます。
投稿者: heisan
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2008年05月10日 21:42
日時: 2008年05月10日 21:42
heisanへ
あまり愚かな反論はしなさんな。
わたしはこうみえてもほんとうは書いたことの百倍は後ろに置いて語っている。
わかる人にはわかると思ってね。
>「ふだん常識的に使われる日本語」は誰が決めるのでしょうか?
それを「文法」というのですよ。
学のない八百屋、魚屋のおやじだって横丁の八っあんだって文法どおり喋ってますよ。
長い間、民衆によって培われてきた話し方のルールですよ。
>結果的にその語法の利用に賛成する人たちが大多数存在していれば、
断定的語調を仮説と=(イコール)させるような語法はいまのところ精神異常者しか使っていないのですよ。
将来「結果的に」何事かを賛成する人がいれば何をしてもいいのなら殺人でもやってはどうですか?
一握りのカルト集団がそれを認めても、今現在、それが認められていなければ非難を受けて当然でしょ。
あなたは反論の方向が間違っている。
そういう反論の仕方をしないで、断定的語調=仮説って「面白いでしょう?」とでもいえばよかったのです。
>人間集団というものはそもそも宗教的な側面を持っているのですから仕方ないでしょう。
このブログが特定の「集団」に開かれているものならそれでも構わないが、不特定多数の公けの人々に開かれているブログであることを忘れてはいけませんよ。
>私は、先生の語法を使用することによってしか得られない知見というものがあるならば、先生の語法を、日本語の用法の一つとして登録することにも価値はあると考えます。
日本語の語法は「登録制」ではなく、さきほども述べたように民衆が長い時間をかけて切磋琢磨して築き上げてきた知恵の集積のようなものです。
カルト集団の一員がいくら日本語文法に「登録」したくとも無理。それを世間では狂気の沙汰といいます。
いずれにせよ茶々=aikagami=heisan、あまりにも愚劣な返答はスルーしてお返事しましたが、もっと勉強しましょう。とくに人間的成熟が必要ですね。
失礼ですが。
投稿者: イカフライ
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2008年05月11日 06:29
日時: 2008年05月11日 06:29
もうイカさんには触れまいと硬く誓ったのですが、どうしても。
>>わたしはこうみえてもほんとうは書いたことの百倍は後ろに置いて語っている。
>>わかる人にはわかると思ってね。
覚えず笑ってしまいました。
なんでかって?私はこう見えても書いたことの千倍は後ろに置いて語ってますから、分かる人には分かりますよ。
投稿者: Mr.変
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2008年05月11日 10:43
日時: 2008年05月11日 10:43
あ、ごめん。
じつは釣りだったんですよ、Mr.変さん。d(⌒O⌒)b
ほんとうはこうなんです。
私はこう見えても書いたことのほとんどはよくわからないで語ってますから、分らなに人には分からなくてとうぜんですよって。(・x・)!
...シュポッ!o*-(ー.ー) ¨_)y-~~~プカプカ~
投稿者: イカフライ
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2008年05月11日 11:46
日時: 2008年05月11日 11:46
ま、つまらんことにかかわってないで、女房の浮気の心配でもしていたほうが
現実的ですよ、 Mr.変さん。( ̄ー+ ̄)y-~~~
「あなた、ちょっと買い物にいってくるわね」
なんていってそのまんま彼氏と逃げちゃってもどってこないてことがよくありますからね、
ネットやっている間にね。((^p^))!
投稿者: イカフライ
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2008年05月11日 12:24
日時: 2008年05月11日 12:24
イカさまに3つのお願い。
・wは2chで。
・シュポッ!o*-(ー.ー) ¨_)y-~~~プカプカ~喫煙は所定の場所で。
・発言はwww.イカフライ.comのブログで。
投稿者: takasan
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2008年05月11日 13:19
日時: 2008年05月11日 13:19
takasanさん、あなたのお願いを叶えてあげてもいいですよ。
ただし、ひとつだけハードルを越えてくれれば。
ある質問をしますから今日中に答えを下さい。そうすればあなたのお願いを叶えてあげます。
この「3つのお願い」は論理的にヘンだと思うのです。どこがヘンか、ご自分で発見して下さい。
それが条件。
他人の指摘があった時点でアウト。必ずあなたがご自分でこの「3つのお願い」のおかしさを発見して下さい。
でわ。☆-(-_^)
投稿者: イカフライ
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2008年05月11日 14:36
日時: 2008年05月11日 14:36
あ、それから、
「喫煙は所定の場所で」というけど、バーチャルだから関係ねえだろなんて、つまらないことではなく、
文章として、実際の問題として、論理が破綻しているという意味です。
トンチではありませんので、よーくお考え下さい。