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「平八」的なものについて

恒例の「美山町のコバヤシ家で山菜天ぷらを食べる会」に5,6日と出かける。
ノコさんに会う。
7、8年ぶりである。
ノコさんはコバヤシ家のオハギとともに、私のEx-wifeの中学高校時代のおともだちであり、私たちが九品仏にいたころ、すぐお隣に住んでいた。
どうして別れた妻の子ども時代の友人たちのご友誼を私が賜っているかについては説明するのが面倒なのであるが、私は基本的に「一度お友だちになった人とは、ずっと友だち」という人なのである。
世の中には引越をしたり、仕事を替えたりすると、それまでの人間関係をあっさりリセットしてしまう人間がいるけれど、私はそうではない。
みなでお茶しながら、「でね、あそこの家たいへんなのよ」「あら、そう。お嫁さんがそれじゃね」というような会話を延々と続ける。
もりあがったのは当然「ミヤタケ」の話である。
これは子細あって詳細にわたっては言及することができぬ。
考えてみると、私が節度なく「オバサン」化できるのはコバヤシ家の台所だけである。
私はそこで一年に一度だけ「完全にオバサン化した私」に出会う。
おそらく、すべての友人の分だけの数の「内田樹」が解離的に存在しており、私は定期的にそれを箱から取り出して、埃を払って、油を差して、また箱にしまうというようなことをしているのであろう。
ユキちゃんから「しめじ」をもらって、みなさまに別れを告げて、新緑の美山を後にする。
早めに帰ってきたのは、夕方から梅田で卒業生たちの集まりに呼ばれていたからである。
4日にサトウの結婚式で会った諸君よりも一学年上の諸君である。ほんとうは5日はこの3月に卒業したゼミ生たちの集まりがあったのであるが、これは美山とかぶったのでご無礼したのである。
梅田のニョッキというイタリアンでムラサキ、ヤブッチ、アイキ、ミハラさん、クボさんとご飯。ナミカワは腹痛で、ウイちゃんはフライトの都合で欠席(ゼミ生間の呼称を流用したが、どういう基準で敬称が付いたり消えたりするのかがよくわからない。おそらく無意識的な選別を行っているのであろう。ちなみに敬称が略されているのはいずれも「ゼミのダークサイド」と呼ばれた諸君である)。
ナミカワには一度ひどい目にあったことがあるので、腹痛で来ないのを幸い、とりあえずナミカワをサカナにする。
みなさんもOL4年目となり、ミハラさんはもうすぐ結婚して寿退社。ナミカワもムラサキもゴールが近いそうである。
ひとしきり仕事と結婚の話。
主に「お局さま」の弊害について。
若い女性たちばかりが集まっているので、ふつうなら「上司のバカオヤジ」の悪口で盛り上がるはずであるが、それが一つも出ない。
どういうわけか、どなたも「上司のオジサン」にはかわいがられているようである。
「50代、60代のオジサンたちには女学院ブランドがまだ効果あるんじゃないですか」と口々に言う。
そうかもしれない。
しかし、聴いているうちに、ふとそれは違うのではないかという気がしてきた。
というのは、同じ説明を20年前にも10年前にも聞いたことがあるからである。
20年前の「50代、60代のオジサン」たちは今は「70代、80代のオジイサン」たちである。
今の「50代60代のオジサン」たちは20年前には「30代、40代のオニイサン、オジサン」だったはずである。
その年回りの頃には「女学院ブランド」の意味がよくわからず、ある程度年を重ねて練れてくると「女学院ブランド」の風合いがわかってくるということではないのか。
その方が納得がゆく。
若いときは「仕事ができる」ということに焦点化して若い人を評価する。
個人の能力を見るのである。
しかし、長く集団で仕事をしてくると、「個人の能力」というのは単品ではあまり意味がないということがわかってくる。
「個人的には高い能力があるが、その人がそこにいると集団のパフォーマンスが下がる」という人がいる(けっこうたくさんいる)。
「個人的にはそれほど高い能力があるようには思えないが、その人がそこにいるだけでなんだかその場が明るくなり、集団のパフォーマンスが上がる人」がいる。
むろん、組織的なアクティヴィティを考えると、あきらかに後者の方が貢献度は高い。
そういう潜在能力を見抜く力は残念ながら若い人(特に自分は「仕事ができる」と思っている人間)には欠けている。
けれども場数を積んで50代くらいの管理職になると、どういうタイプの人間がほんとうに役に立つのかわかってくる。
意外かもしれないが、それは「後退戦を戦える人間」である。
黒澤明の『七人の侍』には勘兵衛(志村喬)と五郎兵衛(稲葉義男)が侍をリクルートする場面がある。
五郎兵衛は自分がみつけてきた「まきわり流を少々」という平八(千秋実)という侍をこう紹介する。
「腕はまず、中の下。しかし、正直な面白い男でな。その男と話していると気が開ける。苦しい時には重宝な男と思うが。」
野武士と戦う七人の侍をリクルートするときの原理は、現代の企業新入社員を採用するときのそれとそれほどには変わらない。
五郎兵衛の洞察は「苦しいとき」を想定して人事を起こしていることにある。
私たちは人を採用するとき、組織が「右肩上がり」に成長してゆく「晴天型モデル」を無意識のうちに前提にして、スキルや知識や資格の高いものを採用しようとする。
だが、これは前提が間違っている。
企業の経営をしたことのある人間なら誰でも知っていることだが、組織的な運動はその生存期間の過半を「悪天候」のうちで過ごすものである。
組織人の真価は後退戦においてこそよく発揮される。
勢いに乗って勝つことは難しいことではない。勝機に恵まれれば、小才のある人間なら誰でも勝てる。
しかし、敗退局面で適切な判断を下して、破局的崩壊を食い止め、生き延びることのできるものを生き延びさせ、救うべきものを救い出すことはきわめてむずかしい。
だから、組織が人を登用するときには、五郎兵衛がしたように「苦しいとき」においてその能力が際だつような人間をまず優先的に採用すべきなのである。
そういう人間的能力は見えにくい。
外形的評価では「まず、中の下」というところかも知れない。
「女学院ブランド」もそのあたりかも知れない。
平八が野武士の襲撃を待ちながら、長雨に降り込められていた気鬱な日に、にこにこと笑いながら「旗印」を縫っていたように、「正直な面白い女の子でね。その子と話しているとなんだか気がせいせいする。苦しい時には重宝な人材だと思うが・・・」という評価がおそらくは本学の就職力の高さを支えている。
どのようにしたら、そのような能力を選択的に強化できるのか。
それは繰り返し申し上げているように、岡田山とヴォーリズ設計の学舎が蔵している「場の力」なのである。
現代の高等教育機関のアドミニストレイターたちの中に、キャンパスのもつ「場の力」、とくにその中でも「学舎内における言葉の響き方」のもつ重要性をほんとうに理解している人はたぶんほとんどおられないであろう。

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コメント (10)

茶々 [TypeKey Profile Page]:

最終回(完全版#6)『愚よ愚よ汝をイカに戦記』by 茶々

#1

え? もう終わりかよ。うん。あんだけ引っぱっといて、ナンダヨー。まっ、最終回ですべての謎が解けますからご安心を... ふふふ。ところで、最終回のお楽しみの「答え」は、『わかりません』でした。えええええええええ! 何それぇ?!  いわゆる「ひっかけ問題」ってやつですね。『すみません』でした。つまりー、

すでに啓蒙されている虚偽意識であるシニシズムには、説得という「知」による教化は不可能なんです。なぜなら虚偽(嘘)だとわかっていて、わざとやっているのがシニシズムだからです。「そんなことはわかっていてやっているんだよ」っていうのが「I.H」さんのポリシーなんですね。だから主観的には「I.H」さんには「知らないことはない」。なぜなら全部「わかっていて、計算の上でやっている」ことだからです。たとえ不意を討たれるようにして未知に出会ったとしても、「I.H」さんは事後的に必ず「そんなことは知っていたよ。わかっていてわざとやっていたんだ」と負け惜しみを言うのです。未知は許せないのですね。それが自分の設計、計画、計略にないからであり、「I.H」さんは、自分の行動を全てコントールして、知っててすべてわかっていてやりたいことだからです。つまりもう十分人生に裏切られていて、これ以上予想外のマイナス情報に傷つきたくないっていうのが「I.H」さんの偽らざる本音であり、人生において想定外のことに出会うと、そんなことは最初から知っていたよと「事後的に」虚偽の予防線を張ることで、自分は安全であると思い込みたいのです。なぜなら自分の支配が及んでいるところは安全であり、それゆえ「支配欲」の頑さの固まりになるのです。

原理原則というものから演繹的に、また既知の情報から帰納的にすべての真理という英知を引き出して、世界を隅々まで自分の知の支配の及んだ「想像的世界」を構築しようとする一種のマッドサイエンティストになってしまっている「I.H」さんは、オリジナルである主体(=No.1である存在)であり続けようと常に先手を取ろうとすることで、かえって後手後手を踏み続けることになるのですが、たとえそうだとしても、すべてを知っていると想定された訓導すべき〈師〉であることが理想我である主体にとっては、主観的には先手を取られることがあってはならないのです。ですから、たとえ先手を取られて「しまった」と思っても必ず、そんなことはわかっていたよ、とその先行するテクストを反駁し解体し、他者の先行性を無化しようとするのです。そしてその負け(=後背性)を認めようとしない頑さが、つまり頭のネジがゆるまないようにゆるまないようにと、原理的・原則的に締め付け過ぎることが、逆に「I.H」さんの知性から「遊び(=グルーチョ・マルクス的な自虐的諧謔を可能にする自我よりももう一段メタな視点)」というものを奪ってしまい、結果的に「I.H」さんから創造性(=オリジナリティ=先行性)を欠落させてしまうことになるのです。批判に拘泥する二次的知性(リアクション)と、創造してゆく一次的知性(ファースト・アクション)の違いです。

つまるところ「I.H」さんは、未知をひたすら既知に還元しようとする双数的母子鏡像関係にあって、先に教えてもらいながら、相手をしてもらいながら、あやしてもらいながら、おっぱいをもらいながら、テクストを生産してもらいながら、考えるヒントを提示して貰いながら、それを受けてそれを解体しそれを批判しそれを脱構築し、尚かつ No.1である男性性(=ファルス)の示威を行おうとしているということなのです。基本的に母子双数関係にある鏡像段階の〈男の子〉のファルスは「皮被りのファルス」です。つまり「I.H」さんのテクストの批判性(=攻撃性)は、「短小包茎」をおったてたガキ(餓鬼)同然であり、それ故たとえ想像界の〈母〉にそのテクストのヴォイスが届いたとしても、現実界の〈他者〉には届かず、それで満たされない、受け止めてもらえない欲望を抱えたままの欲求不満の塊になってしまうというわけなのです。「I.H」さんが想像界の住人であるが故に、現実界を支配する大人の男性の前では塩らしくならざるを得ず、未だ外の現実界(外気)に曝されていない弱い皮膚をもつ〈子供〉の「皮被りのファルス」の持ち主である「I.H」さんが攻撃的になれるのは、実に想像界の住人である「弱きもの」「女性的なもの」の前だけなのです。本質的に内弁慶なのですね。それが、ネット界の想像界的なヴァーチャルな空間では全能感を誇る帝王気取りでいられても、現実界では実名の暴露を恐れる「I.H」さんの打たれ弱さの原因ともなっているのです。『女子と小人は養い難し』という言葉や「女子供」という言葉があるように、〈子供〉とは本来〈女性〉的な存在です。鏡像段階的双数関係にある者は、基本的に「体面=対面」を非常に気にします。「体面」とはまさしく鏡像的双数関係にある相対的存在の二者の間の境界線、すなわち鏡像を写し出す鏡面そのものだからです。両者の領域・テリトリーの境界面である「体面」こそが、自己の想像的イメージの死守すべき国境線(=支配権の及ぶところの監視の視線の地平線)にあたるのです。

#2

我らが老師がいつもおっしゃっておられるように、「謎」を追うものは必ず〈弟子〉=〈子供〉の立ち位置(=ビハインド・敗勢)に嵌ることになります。しかしながら、『述べて作らず』という〈弟子〉の〈師〉への正しい態度・位置取り・敬意を示せない者は、本質的に後追いの敗勢にありながら、すべてを知っていると想定された〈師〉の立ち位置を先取しようとします。テクストを産出してもらいながら、情報を教えてもらいながら、それに寄りかかりかつ甘えながら、それでも決してその敗北(後背性)を認めようとはしないのです。それを認めると、理想我であるところの「すべてを知っていると想定された〈師〉」としての自我構造(=万能感・全能感)を断念しなければならないからです。それまでの甘い母子双数関係性の揺り籠の中で培われて来た、自分の弱い想像界的自我を構成している全努力の積み重ねのすべて失ってしまう恐れを抱くからです。本当は古い殻を捨てなければ、新しいステージでの成長もまたありえないのですが、三者的な象徴段階への「命がけの跳躍」が「I.H」さんにとってはとても怖いらしいのです。外の世界の現実にもう十分過ぎるくらい十二分に傷ついているからでしょうか。皮を被ったままの〈子供〉のファルスが外気に曝されるときの〈他者〉の視線の「冷ややかさ」に耐えられないからでしょうか。齢六十になんなんとする「I.H」さんが、想像界的な甘い世界でのみ十全な発現を許された万能の自我を夢み過ぎたからでしょうか。甘えん坊の「マザコン」(おかあさんっ子)であり、「シスコン」(おねえさんっ子)だからでしょうか。

それはともかく、「I.H」さんは規範的であろうとし過ぎたせいで、つまり頭のネジを締め付け過ぎたせいで、かえってネジが切れてゆるんで、それでテクストの捻りが1/4回転になってしまい意味の取れないテクストを大量生産することになりました。「I.H」さんにとっては十分捻りを利かせた味の有る文章のつもりなのですが、たぶん本人以外には誰もその諧謔性が理解出来ない。何処がどう面白いのか〈他者〉にとってはさっぱりわからないのです。もともと自我の中に〈他者〉がいないから、そこには主観性だけがあって客観性がないからです。一方「うっかり系」の人は文章を捻り過ぎて、一回転して元へ戻ってしまっているのですが(いまどきエイプリル・フールなんか生真面目にやるかよー。そーゆーところが「うっかり」なんだよな。ったく)、捻りというものはちょうど「真半分」が両義的であり、「判じ絵」と同じく、老婆にも若い女にも、アヒルにもウサギにも、どっちにも見えるものなのです。ひとによっては、そこに自分の見たいものを見ることが出来る。鏡像的想像界にいる者は結局すべてそういうものなのです。母子関係性の幸福な揺り籠もそうですし、アイドルとファンの関係性もまたそうです。恋愛初期の恋人同士もまたそうであり、両者ともが互いに自分が見たいものを相手の中に見る。つまり「判じ絵」を見るものは、もう「見るな」の禁制を破っているのです。ひたすら知的でありたいと思うものは、すべてその「罠」にはまります。パラドックスとは論理的な「判じ絵」です。

鏡像段階に在る者の秘密を知りたければ、両義的な問題を投げかけてカマをかけさえすれば必ず見たいものを、本人がそう思いたいものをそこに見い出すことが出来ます。こっちが「謎」をかけると、本人が知っていることを先にしゃべってしまうのです。それは本人のアイデンティティであるところの「主体性」が「すべてを知っていて、すべてをコントロールしている主体」であり、自分の行動はあらかじめわかってやっていたこと、すべて想定内のことのはずだからです。こっちが知りたいことを知っている振りをして、思わせぶりに「問い」を投げかけるだけで、「そんなことは知っていたよ」と、ぽろっと自ら告白してしまうのですね。「I.H」さんにしてみれば、規範的に全てを知っていてやったことでなければならないので、本人自身でさえ知らなかったことを、つまり自分の無意識の世界のことを、本人が一番隠しておきたかった個人の秘密まで、結果的にべらべらと人前に暴露しまうことになるのです。あらかじめ「自分は知っていた」ということを、顕示しなくてはならないからです。つまりゲロ吐いてしまうのですね(うっ、トラウマ体験が... )。両義的な曖昧な問いというものは、双数的鏡像段階にある者にとっての「鏡」となり、相手の姿を映してしまうものなのです。両義的な問いで我々が鏡に映し出そうとするものは相手の真の姿であり、その鏡に映っている虚像とは、「I.H」さんは知っているけれど我々が知らなかったことです。この場合は、我々が知りたかったのは相手の本名(これは「I.H」さんは知っていたことですが、我々が知らなかったこと、「I.H」さんが我々には隠しておきたかったこと)です。一方で我々は「I.H」さんを過去時制の捕囚にしているトラウマや魂の真実を知っていますが、これは「I.H」さんが意識的には「知らない」ことであり、また「知りたくない」ことです。

ではなぜそんなにも簡単に、「I.H」さんは我々の投げかける「問い」に引っかかってしまうのか。それは「I.H」さんの「理想我」が全てを知っていると想定された主体だからです。先の先をとろうとして、事後的に後手後手を踏み続ける。「I.H」さんが本質的に、わかっていること(先行して投げかけられている既存の枠組みである謎や物語というコンテクスト・文脈)の後追いしか出来ないからです。一般に普通の人は、自分自身の内面の真理や無意識の真実、あるいは魂の秘密を、つまり自分の行動の本当の動機を内省という形で「知る」ことが出来ます。反省とか自制とか自省という形でです。それが成熟した大人のあり方であることは、言うまでもないことですが、しかしながら、自我を隔壁で多重人格という〈仮称〉(=仮の二次的構築物・ヴァーチャルな存在)に分割している「I.H」さんにはそれが出来ない。深刻な(貴重な)経験が体験にならないでいるから、「人格」という形で統合された自分史に登録されないでいるのです。それで「I.H」さんの秘密は「I.H」さんの記憶や心の中ではなく、「I.H」さんの書くテクスト、「I.H」さんが創造し自分を仮託したキャラ(二次的パーソナリティ)というアヴァターが演じるところの、自作自演の登場人物の台詞の中に文字通りスクリプトという形で現れるのです。驚きに出会ったら素直に驚き、未知を既存のフレームワークの中の既知に回収せず、驚きを驚きのままにしておく「センス・オブ・ワンダー」があれば、こんなことにはならずに済んだのですが、あらゆるキャラを思い通りに動かすシナリオ・ライター兼演出家であろうとしている「I.H」さんにしてみれば、すべてを知っていると想定された主体、すなわち全知全能の神に自身を準えているのですから、神秘というものがこの世から消えてしまって、現実というものに退屈してこんなことにしか熱中出来ないのも当然と言えば当然です。お可哀想ですね。哀れむべき悲しい獣です。

#3

2008年04月07日エントリーの『原則的であることについて』で、〈師〉と想定された主体から直接かまってもらえると思ったときの、この「I.H」さんの小躍りするようなコメント(2008年04月07日19:39に投稿されたコメント)をよく見て下さい。まるで母親から「おっぱいの時間ですよー」と言われた幼児のような有り様が、手に取るように伝わって来て、貴重なフィールドワークの研究資料になっています。また〈娘〉としてのメス鳥が待てど暮らせど現れなかった時の、いやそもそもが片思いのお相手がこの世に存在しなかったのですから、いわば〈子供〉が自己を主張し、ファルスを顕示して、反論して解体すべきテクストを与えてくれる〈娘〉あるいは〈姉〉の「(セックスとしての)おっぱい」の時間が永遠に来ないのですから、〈子供〉は益々むずかり、暴れ、だだをこねて、泣き叫ぶという形でしか、つまり解体された言語、声にならない声、意味を周りに深読みしてもらうしか聞き届けられないぶーぶーという豚のパロールでしか、コンタクト交話を語れないでいるのも当然なのです。学習者、研究者の方はよーく見ておいて下さいね。「I.H」さんの十八番の「党内抵抗勢力」を作っての自作自演、意味のない、歴史として統合されない断片的な記憶や言葉の垂れ流しのエクリチュールの量産の数々を。

双数的鏡像関係にある者がもたらす、あるいは想像段階にある者にふりかかる悪とは、いわゆる経済学で言うところの「合成の誤謬」ってやつなのです。ケインズの「美人コンテストの投票原理」と一緒で、それが「猫の手を万力で締め付けるような邪悪なもの」(@村上春樹)の正体です。〈父〉なき双数的関係にある〈母子〉の、お互いに相手を受容し相手に主体性(決定権・善悪の判断)を譲ろうとする、合わせ鏡の迷宮に捕われた甘い母子関係性の揺り籠の中にある二者にとっての地獄とは、実にそういったものなのです。内田先生が人に対してなるべくフレンドリーでありたいがため、執筆依頼を断れずに捌き切れない程の仕事を抱えて、結果的に自分の首を絞めることになるのも「合成の誤謬」です。お互いに相手に良かれと思って為すことが、ある臨界点を超えて合成されると善意が邪悪なものにかわってしまうのです。「I.H」さんの場合でいえば、ひとつひとつのキャラやアヴァターのコメントはまともであったとしても、それが合成されるとある邪悪な意志を構成しているということです。これが想像界の罠です。お互いに主体性(=責任を引き受ける者・責任主体)を譲り合っていては事態は先に進まないということです。経済学的用語で言うところの、いわゆる「ホット・ポテト(蒸しあがったばかりの熱々のジャガイモ)」をババ抜きみたいにお互いの間でキャッチボールしているということです。内田先生の場合は「アンチ・フレンドリネス」という名のホット・ポテトを、「I.H」さんの場合は「悪」ないしは「罪」というホット・ポテトを。ですから、ここは〈父〉なるものの干渉による母子関係性の紐帯の切断、すなわち「去勢」がなされなければ、〈母子〉ともに両者共倒れに終わります。「エディプス的切断」が行われないと、〈子供〉が一個の人格的姿であるところの真の人間的主体となれずに発育不全・形成不全にとどまってしまい、いわゆる「胞状奇胎」に陥るのです。まさにどれも独り立ち出来ない多重人格のキャラたちの葡萄の房のような塊ですね。おそろしい化け物のような醜い獣です。もうそれは人間と呼べるような代物ではありません。ちなみに母にとって異物である胎児と癌細胞はともに同じ仕組みで、母体の免疫による異物排除の攻撃のメカニズムを逃れているのだそうです。いつまでも〈子供〉であり続けたいと相手の善意に甘え、〈母〉の生産するテクスト(乳房)に取りすがり続ける者は、癌細胞と一緒です。

「I.H」さん自身は、自分は無限の可能性を蔵していて、それを育ててくれる人がいたら、自分のいうことに耳を傾け、自分にかまってくれる人がいたなら、自分の可能性は十全な創造性として開花するはずだと、いつもそう思っています。一度自分が本気になったら、なんでもどんなことでも出来ると思いながら、結局どれも中途で投げだして何一つ満足に完成させることのないままで終わっているのですが、他人には常に前段の同意を求めているのです。「準備中」の看板や少しも実行されない素晴らしい計画案ばかりを量産し続けて、ついに一生のうちでなんの専門性も持ち得ず、なんら社会的な有為性を発揮しないままで人生を終わってしまうことになるのですが、「I.H」さんにしてみれば、創造的であろうとして、成熟した一個の独立した社会人や生活人でありたいと願望しながら、つねに自分を庇護し保護してくれる〈母〉なるものを、そこに自分が見たいと思う「本当の自分」を映し出してくれる「己惚れ鏡」としての〈他我〉を、実際には求め続けているのです。現実に裏切られ続けているにもかかわらず、いやそれだからこそ、せめて自己の想像的世界の中では、すべてを知っていると想定された理想我でありたいと思っているからです。六十歳になんなんとして未だ「エディプス的切断」を拒否している甘えん坊の〈子供〉の立ち位置を選択し続けているわけですから、つまり「成熟」を拒否しているのですから、成長が止まり、未熟のまま人生が暮れようとしているのも当然と言えば当然ですね。だからそのファルス(攻撃性)も皮(保護皮膜=緩衝材)を被ったままであり、真の批判性に達しないから、実社会への影響力もまたないのです。

トラウマ的体験を克服するためには、それは過去に起きたことであり、あなたはもうそれを現実に克服して今現在生き延びているのだから、もうそれ(=トラウマ体験)はあなたの脅威にはなりえないのだと、そうはっきりと告げることだけです。つまり事実を事実として素直に認めれば済むことなのに、それ(=トラウマ体験)をあれこれと理屈をこねて解釈し和らげようとするから、かえって常にそれが脅威であった(つまり和らげる必要性のあった)過去に縛りつけられ、繰り返し過去に舞い戻ってしまうのです。悲劇的ですね。お可哀想です。知的であり過ぎるのも考えものであり、『過ぎたるは及ばざるが如し』を地で行く、知を病んで「やまいだれ」の方の「痴的」になってしまった「I.H」さんでした。言うも愚かです。

#4

真に利口になるためには、つまりブレイクスルーによって殻をやぶり飛躍するために必要な言葉は、内田先生がいつもおっしゃっておられるように、「わかりません」と「すみません」です。よく覚えておいてくださいね。これが素直に口からついて出るようになれば、あなたの知は飛躍的に亢進するでしょう。ぜひ「I.H」さんにも教えてあげたいところですが、といっても説得は不可能なので、「おしりぺんぺん」ということになります。つまり「泣きをみる」ことになるわけです。あーあ。だからやめろって言ったのに。と言うよりも、止めろと言われることを「I.H」さんはしてしまうのです。「見るな」の禁忌ですね。『目に美しく、食べるによく、賢くなるに好ましい』と思うこと、すなわち知者であろうとすることとは、常にそういったものなのです。知的であろうとすること、知識を得て、知恵を得て、「あらかじめわかっておこう」とするものは、必ず「見るな」(=禁断の木の実を食べるな)の禁制を破ってしまうのです。ですから「それ」(=「なぜか」という問いかけ・謎かけ)が知者への罠であり、投げ込む餌になるのです。つまり「するな」っていう否定形の言葉が囚われの元になるのですね。つまり反論の必要性が、テクストへの批判性が、攻撃的な言葉が、脱構築の意志が「I.H」さんをして双数的鏡像関係の牢獄、合わせ鏡の無限連鎖の迷宮の中に閉じ込めてしまうことになるのです。

だから我々はこう言いましょう。「わかりません」と「すみません」です。つまり「わかりません」から「すみません」が、「教えてもらえないでしょうか」です。「謎」を「謎」のままに、「問い」を「問い」のままに素直に信じる者は救われるのです。信じる者は基本的に一者だからです。「謎」を解体し、「謎」を「問い」と「答え」に脱構築する者は、つまり知者であろうとする者は、基本的に二者です。なぜなら判るとは「分ける」ことだからです。未知を既知との双数関係に関係づけるのが、知性の働きだからです。しかし知の階段を一歩一歩、石橋を叩いて渡るようにして上ることでは人間は決して天国に入れません。「知的パラダイス」という意味合いを含めて全知全能の神なる主のおられる天国に入る為には、子供のように無邪気に信じるほかないのです。なぜなら素直に信じる者は神と一緒(複素体)であり、疑う者(反論する者)は悪魔と道づれ(対話・対論をがーがー交わしながらの道行きの二者)なのです。神が隠れるのは善行をなす善男善女に善を帰する為です。悪魔が隠れるのは自分に迷惑がかかるからであり、悪行の不名誉を自分に帰さない為、自分の悪から善なる自分を守ろうとするからです。これを信じることの出来る者には全知全能の神からの祝福があるでしょう。知的面においても『弱き者は幸いかな』ですが、「I.H」さんにしてみれば、どうしても受け入れることの出来ないソリューションでしょうか。本当にお可哀想です。

さて、このブログのアーカイブにあるエントリー記事とそのコメント欄にあるコメントの時系列をよーく観察して下さい。どれが本当の善か、つまり悪を含んではいるがその悪を善が凌駕しているほんとうの善{(善=善(手段)>悪(動機)}か。またどれとどれが単なる二元論的・二項対立的な、定型的な善悪二分論の善{ 悪=悪(手段)/善(目的)}か。つまり善は、悪意から始まったとしても善で終わることはあるが、悪は善意を分母として始まっても結局悪で終わるのです。本当の善とは善と悪との複素体、つまり善が悪をコントロールしている状態、図式的に表すと「善」=(善>悪)になるものです。ちょうど人間進化のある段階で、大脳皮質がそれよりも古い原始的な暴力的感情的野性的な脳を、覆い包み込むようにして発達して来たのと一緒です。どんな悪にも悪自体を生きさせている生命力という名の善性が必ず含まれています。ちょうど内田先生のブログに寄生することなしには、「I.H」さんが悪態をつけなかったように、悪も善なくしては生きられないのです。しかしながら悪は自己愛に狂っているからこそ、結局生命力という善性を利己愛という悪に消費してしまうのです。善と悪の二元論に陥っているからこそ、頭のネジを締め付け過ぎて、ひたすら自分の意識を善に純化するあまり、自己を素晴らしい独善であらしめようとして、逆に抑圧したもうひとつの方の純粋な悪に転落してしまうのです。世の原理主義者の方はよく覚えておいて下さいね。原理主義はなにも「まごころ原理主義」の「I.H」さんだけの話ではないのですから。

『悪とは善の欠如』というときの欠如している善とは、二元論的な完全分離した二項対立における善ではなくて、悪を含んである、つねに悪を置き去りにして悪を超えて凌駕し、悪を「遅れ」のうちに抜き去る再帰的な複素体として存在する「生命力の善性への指向性」のことです。静止的な評価的(世評的)善と動態的な意志としての善性の違いです。「止まっているもの」と「動いているもの」の違い、「閉じているもの」と「開いているもの」の違いです。関数とその導関数の違いと言ったらより分かりにくくなるでしょうか。それはともかく、「I.H」さんはあまりに完全であろうとして、結局他人の悪ばかりが目につく純粋主義、原理主義に陥ってしまいました。他人の足らざる悪の部分を指摘して矯正しようとこだわるあまり、悪を追い越すことが、自分の悪を過去のものすることが出来なくなったのです。「I.H」さんのことで言えば「学歴」差別のことです。十五の春で泣いたことを克服しようとするあまり、そこにかえって釘付けにされる。トラウマ体験とはそういうものですが、中卒の方が単なる知的エリートよりも知的でありうることを証明しようとする原理主義者になってしまったがゆえに、逆説的に絶えず「十五の春の挫折体験」の悔しさ・切なさのフラッシュバックが起きるのです。一般に悪はどれも同じ顔をした悪ですが、善には大善と小善があります。そして真犯人はいつも意外な小市民的な善人面をしていたり、パリサイ人のような不機嫌で生真面目な道学者ぶっているものです。偽善者というものはそういったものです。「I.H」さんが正にそうでした。悪魔は一見善人面をしている人の背後に隠れているということです。もっとも本物の大サタンとなるとちょっと違いますから、油断してはいけませんよ。

#5

閑話休題。私はいまでもタレント政治家には偏見を持っていますが、ときには『毒をもって毒を制す』ことも必要でしょうか。一部反動勢力期待のナポレオンは、エルバ島から脱出したとしてもまた同じように「ワーテルローの戦い」で惨敗することになるでしょう。二度目は茶番劇として終わることを彼だけが知らないのですが、知らないからこそ、本当はそれを知っていたんだよ、と言わんばかりに自爆するようにそれをやってしまうのですね。「I.H」さんの末路と同じでしょうか。昭和天皇が「それが私の心だ」とおっしゃられたのなら、そして今上陛下も先帝のご遺志を追認しておられるのだから、善悪の判断はつくはずです。しかしシニカルな者は、善悪の判断を自分ではつけないで、悪いことをあえて挑戦的にしてしまうのです。なぜなら、人にかまってほしいから。ちょうど愛に飢えた淋しい〈子供〉がわざと〈親〉を困らせるようなことをして、〈親〉の気を引くことで〈親〉の愛情を確かめるようにです。自分がまだ人気がある、自分はまだ人様からかまってもらえることがわかると、そこに見たい自分の理想我をみることが出来るからです。それが母子双数関係にある者の、蜜のように甘い自我像を映す鏡像だからです。でもそれは人がそう思っているからこそ、そこに存在する虚像であり、彼が真性に真実信じている自己像でもなんでもないのです。ブームが去れば、ただ虚しいだけです。だから、一部政界やマスメディアの方々が心配している、あるいは期待しているK泉ブームはもう起きないと思います。なぜなら、政策には何一つ関心を持たずに「政局一筋」で来たはずなのに、自分の権力構造の死命に直結するある読み間違いを「人生には上り坂もあれば、下り坂もあります。もうひとつ坂があるんです。『まさか』という坂であります」というオヤジギャグさながらの俚諺でしか回収出来ない彼は(たったひとつの得意で負けたということは命運が尽きたということです。それは「I.H」さんと同じことです)、もう本当に只の「ほやじ」(@倉田真由美)なのですから。そして同じオヤジキャラなら、もっと愛らしいチャーミングな方がいらっしゃいますよね。ほら、他県のどこにいっても「知事、知事」って言われる人が。全県的な知事さんって一体どんな存在なのでしょうか? 今度は「日本をどげんとせんといかん」ですか。

繰り返しますが、「I.H」さんにとっては自分自身がいちばんの謎なのです。なぜならば自分を欲望しているから。自分の事を、自分の事だけをいつも考えて、本来ならばこう在り得たであろう「本当の自分」という自分探しの青い鳥を追っているから。〈女子供〉という弱いもの同士が、〈父〉なるものの天蓋に守られて来た母子関係性の中の揺り籠のなかで、〈母〉が〈子供〉を繰り返しあやすように語りかけて来た蜜のように甘いお伽噺・寝物語の続きを、ひたすらおねだりしているのです。だから双数的鏡像段階にある者が革命指向・改革断行路線をとると、必ず自分の立ち位置そのものを掘り崩して自滅することになります。ヒトラーもそうでした。ヒトラーの革命はワイマール体制という、ヒトラーのような非寛容なものに対しても寛容なレジームの中で生まれ、ヒトラーはワイマール体制にのっかって頂点にまで上りつめておきながら、そこで一挙にワイマール体制の転覆、すなわち「合法的革命」をやろうとした。目的が正しければ手段は正当化される、目的が正しければなんでも許されると思いながら... 。そして「I.H」さんの場合の目的(動機)とは、人を動かすことの出来る「まごころ」でした。しかしその「まごころ革命家」は「イカさま」であり、「I.H」さんの増上慢をゆるすことになった非寛容にも寛容であった旧体制とは、このブログの管理者であるヴァーチャルなウチダ先生でした。しかし実際の内田樹はそうではありませんよ。注意して下さいね。

さて実は〈母〉にも「皮を被ったファルス」はあります。それは〈子供〉の「短小包茎」であるファルス、つまり「皮被りのファルス」と同相のもの、それと鏡像関係にあるものです。しかしその両者のファルスは、その攻撃的指向性は、理想我のシニフィアン(理想を指し示す指示行為=政治的意志)は、ともに「皮被り」なのです。実際「I.H」さんが事ここに至ってまで実身を闇(悪魔の保護皮膜・悪魔の天蓋)に隠そうとするのは、「I.H」さんの政治的意志(ファルス)が皮を被った〈子供〉のファルスだからです。そして〈女性〉と〈子供〉が示す攻撃性は、つまり〈女子供〉が示す政治的意志は、すなわち双数的鏡像段階にある者の理想社会を指向する革命的意志は、実にその攻撃的な先端である外気に曝されたことのない弱くナイーブな「鬼頭」を保護し覆っているところ当のものを、彼らに安寧を提供している旧体制=〈父〉そのものを撃とうとすることなのです。つまりそれは、〈母子〉を保護している現在の政治体制であるところの「家庭」、つまりアンシャンレジームそのものを攻撃し、自らの保護皮膜である「天蓋」を撃つようにして、結果的に自らの立ち位置を掘り崩し、結局自滅するように自壊して行くことにしかならないのです。しかもそれがなぜそうなってしまうのか、自分で自分でやっていることの意味さえさっぱり分からないでいるままで、滅びに至ってしまうのです。それは、もう自分の居場所はここにしかないのに、未だに「I.H」さんが複数のアヴァターを使ってここを操作しようとしているのとそっくり同じことです。「子供」というものはときに、アンシャンレジームに乗っかって総理大臣にまで上りつめておきながら、レジームチェンジ・戦後レジームからの脱却などという、頭のネジの切れたとんちんかんなことを言い、しかもそれがどう可笑しいのさえさっぱりわからないでいるのですね。

ですから本当は前首相は現首相を全力で支えなければならない。たとえどのような経緯であったにせよ、現首相は現首相の身代わりとなって最高指導者の重責を担って下さっているのです。現首相は前首相が病院で静養する時間と機会を与えてくれた命の恩人と言える人です。たとえ前首相の意中の人に権力をバトンタッチ出来なくて、横からトンビに油揚を攫われたように思っていたとしても、現首相は正当な党内手続きを経て正式に選ばれた人です。前首相を総理総裁に押し上げた前首相の所属する派閥も現首相を支持したのです。前首相だってそうやって最高指導者のポストに就いたのですから、その倫理性の理路を忘れないようにしなければなりません。倒閣運動などもってのほかです。もし三代目の悪ガキ同士で権力奪取の相談をするのなら、前首相が現首相を全力で支えて、それにもかかわらずそれが潰えて、それが現実になってからのことです。すべてはそれからのことです。「子供」は一事が万事、こういった自分に都合の良いことばかりを考えて天の理を介さないから、あとでお天道様の罰が当たることにもなるのですが、聞く耳があるなら聞いておきなさい。罰が当たる前にあらかじめ私からよくよく言っておきますね。もう充分罰が当たっていると言えば言えるのですが、懲りない面々というものは、なにもここだけの話ではなさそうですから、よくよく申し上げておきます。

#6

ところで「I.H」さんが、あれほどまでして本当に言いたかったことは一体なんだったんでしょうか。それは、我らが老師が常々おっしゃっておられるように、優れた「問い」にはもうすでに「答え」が含まれているのであり、〈師〉は〈弟子〉が「答え」を見出す正にその時に「答え」を〈弟子〉に与えるのです。というより「問うもの=〈師〉」と「答えを追うもの=〈弟子〉」という「問い」と「答え」をともに含んでいる「謎」は、すなわち知的な解錠を誘惑する「謎」に満ちた世界は、「謎」を追いかけて「問い」と「答え」という二項対立の往復往還状態の「片付かなさ」の隘路に閉じ込められる者を、つねに置いてけぼりにするのです。2008年4月13日の正午前からその日の午後にかけて、『お茶と合気道』とそのひとつ前の『クリシェと割れた言葉』の両方のコメント欄を跨ぐようにして起きた、この自分のことしか考えない自己循環的自閉的な悪を善が置いてけぼりにする瞬間をよーく憶えていた下さいね。「その法則性を発見すれば、一人でお箸を使ってご飯を食べたり、筆で字を書いたりするのと同じように、二人から成る複素体でご飯を食べたり、手紙を書いたりすることができる」(@内田樹)のであり、あるいは「ひとつの言葉で、全世界を凍りつかせるために、あるいは、世界の氷を溶解するために詩の言葉は存在しているかもしれない」(@平川克美)ということでもあります。素朴で素直な善行を為すものは、常に神と「同行二人」なのです。

鏡像段階から象徴段階へ「命がけの跳躍」をなし、想像界の合わせ鏡の牢獄を解錠する鍵は、すなわち正答を得る態度とは、アーシュラ・K. ル・グウィンの『ゲド戦記 1 影との戦い』にあるように、「わかりません。教えてください(=その答えはなんですか?)」という〈師〉への素直な反問(問い返し)という形で表す「敬意」なのです。当たり前ですよね。「あんたのいうこと(=問い)なんか不完全で間違っている。おれがあんたの足らざるところを指摘して補い、すべてを知っていると想定された〈師〉に相応しい、より完全なものとしてそれを打ち返してやるから、悔しかったら再反論でもアクセス禁止にでもなんでもしやがれ」などという「耄碌した師と不埒な弟子」という二項対立の文脈の中では、〈師〉とすれば「答えなんか教えてやるものか」ですよね。だって「答え」は〈師〉への素直な「敬意」という問い返しの「態度」そのものなのですから。

ですから〈弟子〉が〈師〉への正しい接し方を学んだその時、それまで〈弟子〉との鏡像関係にあった〈師〉は、その時はじめて単なる〈師〉ではなく、〈弟子〉を包み込んでそれを共に含んである〈弟子〉と一体となった複素体として存在しているところの、共に学んでゆく〈師/弟子〉になり、故に反問された〈師〉、つまり問われるもの立場である〈弟子〉の立ち位置に立たされた〈師〉もまた、素直に問うものに対する敬意をもって、意地悪な「問い」という言い方でなく、そのものずばりの「答え」を〈弟子〉に与えるのです(この辺のことは『影との戦いーゲド戦記1』を読まれるとよいでしょう。映画の評判に惑わされてはいけませんよ)。ですから、私も素直にこう言いたいと思います。事の真相っていったいなんだったんですか? 私にも『わかりません』です。ぜひそれを知りたいと思いますので、『すみません』が教えていただけませんでしょうか。調査魔でいらっしゃる編集者の方々にとりましては、『愚よ愚よ汝をイカに戦記 by イカフライ:付録「愚答伝説」(別名/「雲」についての覚え書き)』とでも題名を付けて、『電車男』のようなネットから派生した一冊の本として、これを商品に仕立てて出版することなどお手の物ですよね。あわせて「内田樹」にたてついたらどーなるか、広く世間に知らしめて戴きたいと思います。悲しむべき第二の犠牲者を出さないためにもね。ちなみに私の「取り分」は放棄致しますので、「I.H」さんのお気の済むようになさってあげて下さい。実に「I.H」さんの貢献は大でした。ふふ。

結局、自己愛に狂っている者は「死」が怖いのであり、臆病者なのです。なぜなら「死」こそが自分の終焉であり、すべての終わりだからです。でも他者への信頼があれば、自分の場所を他者に譲ることも出来るのに、それが出来ない。これ以上自分の取り分が減ること、これ以上自分が傷つくこと、一寸たりとも自分が譲歩することを拒否しているからです。自分の持っているものを死守しようとして、結局自分の持っていたものすべてを失ってしまうのですから、哀れなものです。証言というもの信憑性がそうであるように、記憶というものは他者との信頼性の架橋の上に初めて歴史として登録され、確固たる物質性を持ち得ます。それなのに「I.H」さんの過去の栄光を覚えている者は、もう「I.H」さん一人しかいない。他者の記憶の中にあるのは、ただ愚か者としての「I.H」さんであり、共同記憶として歴史に登録されるのは、『イカ戦記』の方の「I.H」さんなのです。愚か者の見本としての。その哀れむべき末路の生ける屍の人間標本としての。ところで、話は変わりますが、

らびい [TypeKey Profile Page]:

こんにちは。以下の文章に非常に共感しました。
ある友達との関係において自然に出てくる自分と、久しぶりに出会うというのもちょっと楽しい出来事な気がします。

>おそらく、すべての友人の分だけの数の「内田樹」が解離的に存在しており、私は定期的にそれを箱から取り出して、埃を払って、油を差して、また箱にしまうというようなことをしているのであろう。

ブルー [TypeKey Profile Page]:

僕もらびいさんと同じところに共感しました。その特定の相手がいて初めて現れる自分ってありますよね。だからそういう友人やペットが亡くなると「ひとつの自分」がどこかに永遠に封印されて哀しむのかな。

『外形的評価では「まず、中の下」というところかも知れない。』

同じ黒澤の『椿三十郎』に出てくる血走る若侍たちに、あまり頼りにならないとバカにされている家老みたいですね。

昼夜転倒 [TypeKey Profile Page]:

『「個人的には高い能力があるが、その人がそこにいると集団のパフォーマンスが下がる」という人がいる(けっこうたくさんいる)。』

これ、なんか一昔前のフランスのオーケストラを指しているみたい。楽団員たちが一人一人別々に出す楽器の音色は優れている。でも、一緒になってみんなで演奏する段階になると、ぜんぜんダメ。すぐ横で同じように演じている団員の音を聞こうとしないフランス人ばっかりだから。
昔、知り合いの指揮者から聞いた逸話です。

自分のことかな、と気になったり。
ウェーン、
ごめんなさい。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

集団のパフォーマンスなんか下げたらいいいのですよ。
集団が集団としてあまりにもパフォーマンスが亢進すると、ろくなことが起こらないことは歴史が証明しております。

というよりも人間はできるだけ集団として行動しないほうがいいし、集団として個を束縛したり蹂躙しないほうがいい。

集団というのはやむをえず集団であることを選び取っただけのことですから、用がすめばさっさと解散、解消することですな。
...シュポッ!o*-(ー.ー) ¨_)y-~~~プカプカ~

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

しかし茶々=aikagamiって面白いね。
惚れちゃうかもよ。( pー_^)(^o^; )ノ彡☆

しー [TypeKey Profile Page]:

先生、こんばんは。

年に一度のEx-wifeさんネタ、今年も楽しく読ませていただきました。

先生のお話の様子だと、女学院の「場の力」は震災によっても全く損なわれていないようですね。大学時代、卒論の調べもののため女学院の図書館を訪れ、そのとき感じた「場の力」そして「人(学生さんや職員の方)の力」に他大学にはないすばらしいものを感じた者としてもうれしいかぎりです。

それから、「お局様」の弊害は旧態依然、なのでしょうか?それとも今風の何か変わった流れでもあるのかな・・・。

raincoatcrowd [TypeKey Profile Page]:

>「正直な面白い女の子でね。その子と話しているとなんだか気がせいせいする。苦しい時には重宝な人材だと思うが・・・」

四半世紀以上中小企業に勤めている私からすると、零細企業が採用するのは大半が中途採用ですから他の会社から戦力外通告を受けた人たちだったりするわけで、また、新卒採用でも中卒、高卒なわけですから、結局みんな「平八」的なるものしか取り柄がないんですよ。別にそんなもの重宝なんかしてませんけど。出来ることなら、たまにでいいから「スキルや知識や資格の高い」人材も欲しいもんですよ(泣)

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2008年05月07日 11:34 に投稿されたエントリーのページです。

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