大学院のゼミ、今季は「日本辺境論」である。
日本の地政学的辺境性あるいは文明論的辺境性という補助線を引くことによって、日本の「ありよう」を再解釈しようという野心的な企てである。
第一回目の発表はイハラさんの「外来語」。
これはなかなかすぐれた着眼点である。
というのは、日本語は外来語に対して、世界の諸国語の中でも例外的に開放的な言語だからである。
原日本語(大野晋先生によれば、もとはタミル語だそうであるが)に漢字が入り込み、さらに近代になってヨーロッパの言語が入り込んできた。
私たちの使う言語には、それらが混在している。
どうして、漢字カタカナひらがな alphabet が並存するような言語が成り立ちうるのか。
こういうことは、あまりに当たり前なので、ふだんは私たちはあまり考えない。
それについて考えてみる。
このタイプの混淆言語は巨大な文明圏の周辺部分に生まれる。
朝鮮半島もインドシナ半島も日本列島も、それぞれのオリジナルな言語に漢字をまぜて書く言語を作りだした。
けれども、韓国は漢字を棄ててハングル表記に一元化しつつある。ベトナムも漢字やベトナム文字を棄てて、アルファベット表記にシフトした。東南アジアの他の国々も漢字とオリジナルな文字を棄てて、アルファベット表記へ移行するのが大勢である。
その趨勢の中にあって日本は漢字とオリジナル文字の並存を選択している例外的な国である。
どうしてこういうことが起きるのか。
それはわが国のリテラシーの「異常な」高さと関係がある。
私たちは日常的には非識字者というものにほとんど出会うことがない。
だが非識字というのはヨーロッパでもアメリカでも重大な社会問題なのである。
非識字者の存在がプロットの鍵になるような物語(ルース・レンデルの『ロウフィールド館の惨劇』やロバート・B・パーカーの『プレイメイツ』など)に類するものを私は日本の小説のうちに知らない。
数年前に『フィガロ』が非識字率を主題にした特集を組んでいたことがある。
そこには、フランスの12歳児の35%が「速読できない」という統計結果が示されていた。
「速読できない」というのは単語を拾って文章を読み上げることはできるのだが、読み終えたあとに「今読んだところに何が書いてあったのか」と質問されても答えられないということである。
フランスの初等教育カリキュラムに別に構造的な難点があるわけではない。
しかし、つねに一定のパーセンテージで非識字者が発生する。
一方、日本の初等教育については、その欠点をなじる人はいくらもいるが、にもかかわらず日本人には非識字者がほとんどいない「功績」については、言及する人が少ない。
なぜ日本人は識字率が世界でもっとも高いのか。
私は長いことその理由がわからなかったが、先般、養老先生にその理由を教えていただいた。
それは、日本人が文字を読むとき脳内の二カ所を同時に使っているからである。
漢字は表意文字であるので、図像として認識される。ひらがなカタカナは表音文字であるので、音声として認識される。
図像を認識する脳内部位と、音声を認識する脳内部位は「別の場所」である。
だから、アルファベット言語圏では、脳の器質障害の結果の失読症では患者は端的に文字が読めなくなるが、日本人の失読症患者の場合、障害を生じた箇所によって、「漢字は読めないが、かなは読める」「かなは読めないが、漢字は読める」という二つの病態に分岐するのである。
文字を読むときに単一の部位を使うのと、二つの部位を使って並列処理するのでは、作業能率が違う(たぶん)。
だから、日本でマンガが生まれた、というのが養老先生の仮説である。
マンガは図像と(「ふきだし」が示す)音声の二つの言語記号が同じコマ内に存在する。
この二種類の記号を並列処理する能力がないとマンガを「すらすら」読むという芸当はできない。
むろんマンガを「すらすら」と描くこともできない。
「ふきだし」の中にも漢字はあるじゃないかというご意見もおありだろう。
では、お近くにあるマンガ本を手にとってよく見て欲しい。
少年マンガであれば、例外なく「ふきだし」の中の漢字にはルビが振ってある。
「ふきだし」の中の文字は原理的には「音声」として処理されているからである。
だから、子どもたちはあれほどのスピードでマンガを読むことができるのである。
ところが。
ある種の少女マンガでは「ふきだし」の中の漢字にルビが振られていないことがある(岡崎京子とか岡野玲子とか)。
するとどうなるか。
読むのが遅くなるのである(当たり前だね)。
画像記号の処理を、「絵」についてと、「ふきだし」の中の「漢字」について、レベルを替えて二度行わないといけないからである。
このわずかな作業量の増加ゆえに、読者は一コマを通常のマンガの場合よりも長時間熟視することを求められる。
それがマンガの細部への「読み込み」を可能にする。
余白や描線を味わったり、台詞の「裏の意味」を読むことができるのは、このようにして確保された「わずかなタイムラグ」のおかげなのである。
少女マンガを読むのに少年マンガを読むより「時間がかかる」ことが多く、またしばしば「パーソナルな読後感」(他の読者はおそらく読み落とした記号を私は読んだ・・・という感覚)をもたらすのは、そのせいである。
そういうわけで、日本以外の国においていわゆる「マンガ」が発祥し、発達するということはなかったのである。
現在、欧米の若者たちの間には「マンガ・リーダー」たちが生まれいる。
興味深いのは、これら非日本人の「マンガ・リーダー」たちがほぼ全員「アニメ」から入ったということ(そしてしばしばアニメファンにとどまっていること)である。
アニメの場合には、音声は声優の声で伝達されるので、「表音文字を音声として認識する」という作業は必要がない。
だからアニメを見ている限り、日本人との脳機能の差は前景化しないのである。
差が歴然と現れるのはアニメを見るときではなく、マンガを読むときである。
これを誰か科学的な実験を通じて証明してくれないであろうか。
閑話休題。
というわけなので、日本人は外来語を「括弧でくくる」ということをカタカナ表記で行うのである。
それはまず漢字とひらかなからなる文字列に登場した「異物」として、「これは外来語ですよ(だから、あなたには意味よくわかんないかもしれないです)」という図像上のタグをつけられる。
だから、「新聞を読んでいて、カタカナが出てくると、そこだけ飛ばす」というリテラシー運用が可能になる。
一方、カタカナ・リテラシーのある人は、カタカナを見た瞬間に、これを「ひらがな」とは「別種の」表音記号として読むモードに切り替える。
そして、それを読むときに、「ひらがなを読むときには決してしない脳内活動」(音声表記から原綴を類推する)を行うのである。
さまざまな出自の語がまじりあっている文章を読みなれているせいで、日本人には他国の国語話者がおそらくほとんどなさらない種類の「造語」を行うことができる。
すなわち漢語と外来語、あるいは外来語と外来語の「合成」による新語の創造である。
その多くは旧制高校において「隠語」として作成された。
「ゲルピン」は「ゲルト(Gelt =ドイツ語「金」)とピンチ(pinch =英語「窮状」)」の合成語で「金がない」という意味。
「バックシャン」は「バック」(back =英語で「背中」)と「シェーン」(schoen =ドイツ語「美しい」)の合成語で「背中から見ると美人」
「ゼミコン」は「ゼミナール」(Seminar =ドイツ語「演習」)と「コンパ」(company =英語「交際」)の合成語。
この旧制高校的造語はその後、「学生運動用語」として 60 年代まで作られ続けたが、この時期のものは「日本語プラス外来語」のものが多い。
これに新左翼運動にひそむ本態的なナショナリズムを検知することも仮説的には可能かも知れない。
「内ゲバ」は「左翼内」と「ゲバルト」(Gewalt =ドイツ語「暴力」)の合成語。
「ボス交」は「ボス」(boss =英語「首領」)と「交渉」の合成語。
「ブル転」は「ブルジョワ」(bourgeois =フランス語「市民」)と「転向」の合成語。
50-60年代の造語が学生運動を主たる培養基としたのは、この運動そのものが「学生寮」を基盤にしていたことに関係があるのかもしれない。
その後、私たちの語彙に登録されたものとしては「ドタキャン」(土壇場、cancel),「脱サラ」(脱出、salaried man),「蟹コロ」(蟹、croquette)、合コン(合同、company)など無数にあるが、すべてが「日本語プラス外来語」であり、旧制高校スラングのような「外来語プラス外来語」の造語は 60 年代以降のネオロジスムの中に見出だすことは困難である(見つけた人はご教示ください)。
旧制高校生は当時の日本社会におけるエリートであり、彼らがその知的卓越性の記号として「二種類の外来語を組み合わせて隠語を作る」能力を誇示しようとした、というのはありそうなことである。
そして、またそのような造語能力が実は日本人に固有のものであることを、それゆえ、このような隠語を作り出すことを通じて「日本語の例外的な可塑性」を示すことができることを、高校生たちも無意識のうちに感知していたのではないか。
というような話から、日本語クレオール説というトンデモ話に話頭は転じるのであるが、これはもうあまりに学問的に無根拠なダボラなので、ブログとはいえ採録することがかなわぬのである。
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(2008-04-23 15:45)