ダライ・ラマ畏るべし

2008-04-23 mercredi

五輪の聖火リレーが火種になって各地でトラブルが起きている。
日本ではリレーの出発地に予定されていた善光寺が聖火リレーへの協力を断念した。
中国国内でも事件が起きた。
フランスで聖火リレーが妨害されたことに対する報復として、今度は中国各地でフランス系のスーパー、カルフールが「反仏デモ」に襲われている。
カルフールとウォルマートは(日本進出には成功しなかったが)、中国ではブリリアントな成功を収めた。
出店数第一位のカルフールは100店舗を展開しているので、中国人にとっていちばん「身近なフランス」である。
そこが標的になった。
自国主催のオリンピック大会への批判に、それに対する反対運動があった国(と関係があるもの)に対する攻撃を以て反撃する、というのはどう考えても無理筋である。
仮に中国で行われるのが「毛沢東生誕 100 年祭」とか、そういうドメスティックな趣旨のものであるならば、そういうナショナルな催しに対する批判にナショナルな暴力を以て報いるという選択は論理的には筋が通っている(愚かなことに変わりはないが)。
しかし、オリンピックは(実情はどうあれ、建前としては)「万民共生」を言祝ぐ祭典である。
「国境の隔たりを越えてアスリートたちが出会う」イベントを実現させるために「ナショナルな単位の間の共生不能」を言い立てるような政治的行動をとることはイベントの趣旨を否定することになるのではないか。
それは「世界の人々は愛し合いましょう」というイベントをやるために、「ここでイベントやるのに、お前ら邪魔だから出て行け」と言って、そこにいた人を殴りつけるのと同じように没論理的なふるまいである。
中国政府がこのような国民感情を「それなりに自然なもの」とみて、宥和的な態度を示しているのは、中国政府がオリンピックを「ナショナルな威信の発揚」の機会として捉えているからである。
しかし、国際社会における「威信」というのは大きな競技場を建てたり、高速道路を通したりすることによって担保されるものではない。
そこが開催するオリンピックの成功を「万人が願う」ような国際社会内部的なポジションにあることを「威信」と言うのである。
形式的にはオリンピックは実施され、運営上のトラブルも致命的なものは回避されるかも知れない。
けれども、このオリンピックの成功を心から願っていたせいで、このイベントをいつまでも記憶し、いつまでも語り継ぐような人々を中国以外に見出すことはきわめて困難であろう。
たしかに中国の軍事力や市場としての魅力のせいで、世界各国は中国に「強いことが言えない」立場にいる(日本もそうである)。
それを中国は「インターナショナルな威信」と取り違えた。
だが、実際にはそれは「威信」と呼べるようなものではない。
国際社会における「威信」は軍事力や経済力ではなく、文化的なもののクオリティの高さ、倫理的な筋目の通し方によって基礎づけられる。
今回の事件がここまで大きくなった背景にあるのはダライ・ラマ14世の「筋目の通し方」がみごとだったことである。
ダライ・ラマ14世は中国の周辺地域の政治指導者としてはきわめて例外的な人物である。
それは彼が中国とタフな政治的ネゴシエーションを演じたことによってではなく、「倫理的に正しい言葉」だけを選択的に語ってきたことによって確立したポジションである。
中国には55民族、1億4000万人の少数民族がいる。その55民族の政治指導者たちの中に、中国政府の指導者たちに匹敵するだけの国際的知名度を誇るものが何人いるだろうか。
私はダライ・ラマ14世の名しか知らない。
おおかたの日本人は私と同様であろう。
チベットにおける中国政府の軍事支配と漢族の経済・文化的支配の実情を私たちはよく知っている。
ニュースで繰り返し報道されているし、Seven years in Tibet のようなハリウッド映画で「学習」したからである。
少数民族の中でも小規模の人口270万人のチベットの弾圧については私たちには例外的に潤沢な情報が提供されているのに対して、例えば、チベットと似た境遇にある新彊ウイグル自治区(こちらは人口1900万人、中国の国土面積の17%を占めている「大国」である)における強権支配についてはほとんど何も知らされていない。
なぜか。
別にメディアが怠慢であるからだとは思わない。
おそらくは新彊ウイグルにはダライ・ラマ14世に相当するだけの「国際的知名度」をもった政治家がいないからである。
それは他の中国国内少数民族にとっても同じである。
どこの少数民族集団にも、すぐれた政治指導者はいるのだろう。けれども、私たちにはその人たちについてほとんど何のニュースも提供されていない。
私たちがその名と事績を熟知し、そのメッセージを繰り返し耳にする機会のある中国少数民族指導者はダライ・ラマ14世ひとりである。
ダライ・ラマ14世は、毛沢東、周恩来以来すべての中国指導者と五分で渡り合い、いまだに中国の「対抗者」のポジションにいる世界でただ一人の政治家である。
スターリンもフルシチョフもケネディもニクソンもネルーも蒋介石もスカルノもみんな死んだ。リー・クアン・ユーもマハティールも李登輝も現役を引退している。
その中にあって、ダライ・ラマ14世だけがただ一人現役の「中国のカウンターパート」として、つねに世界のメディアの注目を集めている。
繰り返すが、これはきわめて例外的なことである。
私たちはなんとなくダライ・ラマ14世というのを穏和で平和主義的な宗教家だと思っているけれど、この人は現存する政治家の中で「最長不倒距離」を誇るスーパーマンなのである。
その「恐ろしさ」をおそらく毛沢東や周恩来は早い時期に気づいた(59 年にインドに逃げられたときに)。
それはずっと中国の政治指導者たちに申し送られてきた。
「ダライ・ラマには絶対気を許すなよ」
そして、申し送りが始まってから半世紀たって、オリンピック気分にまぎれて「ダライ・ラマには絶対気を許すなよ」という申し送りの緊急性が忘れられた頃に、ダライ・ラマはきっちりと「おとしまえ」をつけた。
私はそう思っている。
中国が国際社会で威信を失墜し、「チベット」ということばが連日世界中のメディアで繰り返し言及され、世界中の「人権派」たち「チベット支援」を熱く語るこの出来事こそ、ダライ・ラマ14世が待望していたものである。
ダライ・ラマ14世の主張はシンプルで、かつリーズナブなものである。
チベット亡命政府はチベットの完全独立を求めているわけではない。外交と国防は中国政府に委ね、それ以外の、宗教、文化、経済面におけるチベット人の「高度な自治」を求めている。
チベットは「中華人民共和国の枠内での高度な自治」を平和的に実現することを要求している。
というのがダライ・ラマ14世の提案である。
これ以外のソリューションはないだろうと私は思う。
でも、中国政府はこれを呑むことができずにいる。
これ以外にはないソリューションをどうして呑めないかというと、「中国政府が言わねばならぬこと」を先にダライ・ラマ14世に言われてしまったからである。
中国政府だって、「落としどころ」はこのあたりしかないことはわかっている。
でも、それを先にダライ・ラマに言われてしまったので、それに同意すると、「まるで中国政府がダライ・ラマの言いなりになったように見える」。
それが業腹なのである。
それともう一つ、チベットを「高度な自治」にできない理由として、チベットに入り込んだ漢人資本の「既得権益」を守るという、きわめて世俗的な理由がある。
「金の話」である。
ところが、これを中国政府は国際社会に向けてはおおっぴらには口に出せない。
「主権の問題では譲歩できるが、金の問題では譲歩できない」というような恥ずかしいことは口が裂けても言えない。
だから、困っているのである。
そして、このような窮状に追い詰められたのは、もとはといえばダライ・ラマ14世の方が「一枚役者が上」だったということなのだが、それを認めるのが厭なので、こわばってしまっているのである。
オリンピックがある程度の面目を保って行われるためには、中国政府は少なくともダライ・ラマ14世との「対話」に入ることだけは国際社会に向けて約束せざるを得ないだろう。
もちろん、それしかソリューションがないことは中国政府にだってわかっている。
だから、今水面下ではどこかの大国が仲介に入って、中国政府の顔が丸つぶれにならないようなタイミングをはかっている。
私はそう予測しているけれど、はたしてどうなるんでしょう。
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