クリシェと割れた言葉

2008-04-11 vendredi

新学期になってフランス語とクリエイティヴ・ライティングの授業が始まる。
フランス語は仮履修者名簿には18名とあったので、教室に行ったら40人ほどの学生が待っていた。
残りの方たちは聴講生だそうである。
イントロダクションとして、「なぜ外国語を学ぶのか」について話す。

クリエイティヴ・ライティングの授業は10名から15名程度の学生たちを相手に、膝つき合わせてしみじみと文章修業をする予定で、資料を少し多めに20枚刷って教室に行ったら、学生が廊下に溢れ出していた。
広い教室に移動してもらったけれど、それでも100名近くいる。
100名を相手に文章修業の添削なんかしてられない。
申し訳ないけれど、「冷やかし」の方と、それほどモチベーションがない方はご遠慮願いたいと申し上げたら、ぞろぞろと帰って行った。
授業が始まって私が話している間も、二人三人と席を立って帰って行く。
要するに私の話を聴いて「つまらん」とご判断されたわけである。
ふだんであれば、いくら何でもそれは非礼な・・・と青筋を立てるところであるが、今回ばかりは「どうもありがとう」と心の中で手を合わせる。
最終的に70名ほどが残る。
これをさらに少人数に絞るために課題を出す。
昨日はご案内のとおり「voice」についてお話した。
ヴォイスとは端的に言えば「わずかなきっかけで言葉が無限に湧出する装置」のことである。
入力と出力が1:100というような異常な比率で作動する言語生成装置のことである。
勘違いしてもらっては困るが、それは「同じような話」をエンドレスで垂れ流す言語運動のことではない。
「同じような話」のことを「クリシェ」という。
原義は印刷用語で、頻用されるストックフレーズの場合、いちいち活字を拾うのが面倒なので、ストックフレーズを構成する活字群をまとめて紐で縛っておいてあるもののことである。
それが出てくると「ほいよ」とその活字の束を放り込む。
クリシェだけで文章を綴ることは簡単である。
かなり長い文章を繰り返し書くこともできる。
ただクリシェの難点は、植字工が「ほいよ」と活字を束で扱うように、読者もまたそれがでてくると「ほいよ」と束のまま飛ばして、先へ進んでしまうので、ついに味わって読まれることがないということである。
私たちがクリエイティヴ・ライティングの授業を通じて獲得しようとしているのはそのようなものではない。
そのちょうど反対の事態である。
クリシェの比喩をそのまま使わせてもらえば、一個の活字をさらに細かく打ち砕いて、活字の鉛の部分と木部を切り離し、それぞれの材料を分析し、活字に貼り付いているインクの材質を分析し、タイポグラフィの曲線を分析し・・・という「自分が現に運用している言語そのものの内側へ、細部へと切り込んでゆく」作業である。
ヴォイスとは、「自分が語りつつメカニズムそのものを遡及的に語ることのできる言語」のことである。
といってもどんなものだかなかなかわからないであろうから、学生たちに今日の資料であった町田康の短いエッセイを読んで聴かせる。
最初は不思議な顔をして聴いていた学生たちは途中から痙攣的に笑い出し、最後は爆笑のうちに終わった。
町田康は「自分がいま書きつつある運動そのもの」を言語化することができるという点においてまごうかたなき天才である。
ご参考のためにその一部を採録する。

「だから自分は随筆を書き進めるにあたって、没にならないように細心の注意を払わなければならないが、どういうところを気をつければよいかというと、面白くないから没ということはほとんどない。つまり没といわれて、きっと面白くなかったからだ、と気に病む必要はまったくないということである。またその原稿の内容が不正確であったり、錯誤・過誤にみちみちているから没ということもまずない。その場合は誤りを指摘されるだけである。
 では没の理由はなにか、というとすなわち、その原稿が人をして厭な気持ちにさせる、不快な気持ちにさせる可能性がある、ということが没の理由の9割5分3厘をしめる。すなわち、その原稿の掲載された誌面を見て怒る人が出てくるかも知れない。これが一番困るのである。なぜなら、どんな偉い先生でも、いわれなく人を不愉快にするのはいけないことだからである。
 だから順に考えると随筆を書く場合、没にされないように書く必要があり、そのためには他が不快にならないように書く必要があるということであり、これが基本の基本、初歩の初歩、イロハのイ、鉄則中の鉄則なのである。
 そういうことを踏まえて、さあ随筆を書こう。
 昨日、パンを買いに行った。家にパンがなくなったからである。
 というのは大丈夫だよね? オッケー? オッケー? いいよね? 別に誰も不快になってないよね。よし大丈夫。じゃ進めよう、ってええっと、なんだっけ? そう、オレはパンを買いに行ったのだ、のだけれどもちょっと待てよ。パンを買いに行った、なんていうことをこういう公の場所でいう場合、ことによるとパン食を奨励しているというように受け取られないだろうか。つまり、読者にはパン以外の、米や饂飩やパスタ類を食べてはいけない、と言っているふうに誤解されないだろうか。だとしたらその産業にたずさわっている人はきわめて不快な思いをするに違いなく、その可能性があるだけでもやはり問題で、没になる可能性はきわめて大である。書き直そう。
昨日、パンを買いに行った。家にパンがなくなったからである。だからといって米や饂飩やパスタ類が嫌いでパンしか食べぬという主義ではない。というかそういうものは非常に好きなのだ。ただそのときは気分でね、パンを食べたかっただけなのであって、小豆などの雑穀類もそれは買わなきゃあと、米も饂飩も買わなきゃあ、と強く強く念じ、絶対に今後一生私は米や饂飩やパスタや雑穀をパンと同じくらいの比率・割合で食べていくと固く心に誓いながら、そして世の中のみんなもそうあればよいと祈りにも似た気持ちを抱きながらパンを買いに行ったのである。
とこれでいいだろう。まだ穴があるかも知れないがそれはゲラで直せばよい。(「そら、気ぃ遣いまっせ」、『テースト・オブ・苦虫2』、中央公論新社、2006年、75-77頁)

というふうに延々と続いて、町田康さんはパンを買いに家を出て、商店街にむかい、横断歩道をわたるまでに膨大な紙数を投じるのである。
聴いていた学生たちは「固く心に誓いながら」というあたりで歯止めを失って笑い出し、あとはエッセイの最後まで(まだまだこの調子で続くのである)笑い続けていた。
これが「クリシェ」の反対の「割れた文章」のお手本である。
言語は内側に割れること(これを implosion「内破」という哲学用語に言い換えてもよい)によって、そこから無限の愉悦と力を生み出す。
クリシェもまたエンドレスで言葉が紡がれているように見えるという点で、一見すると「内破」した文章に似て見える。
書いた本人は場合によっては「無窮のエクリチュールを見出した」と思っているかも知れない。
けれども、それは「流しの排水穴に繋がった蛇口」のようなものである。
たしかにそこからは終わりなく言葉があふれてくる。
けれどもそれは、すべてその人自身によって、また彼の同類の「クリシェ使い」たちによって、過酷なほどに酷使され、すり減り、手垢にまみれ、汚物がまつわりついた「使い古し」の言葉なのである。
私たちは自分の言葉を割る仕方を学ばなければならない。
ということを最初の授業でお話する。
そこで、宿題。
君たちの日常的なごくごくふつうのふるまい。それこそ「パンがなくなったのでパンを買いに行った」という程度の「ふつうのできごと」を割って割ってどこまで割れるか、それを600-800字のエッセイで試みてみなさい。
宿題をやってきたひとだけに来週からの聴講を許可します。
では、また来週!
はたして何人やってきてくれるだろう。
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