Voiceについて

2008-04-10 jeudi

今日から授業。
最初の日からクリエイティヴ・ライティングの授業がある。
これは2006年度に難波江さんとふたりの「合同演習」というかたちで半期行い、去年は難波江さんがおひとりでされた。今年は私の担当である。
ものを書くというのはどういう営みであるのか、それについて原理的に、かつラディカルに究明しようではないかという意欲的な教科である。
二年前の学生たちは「物書き」志望の人が多かったので、ずいぶん真剣に受講してくれた。
「書くこと」をめぐって難波江さんと毎回長い時間話をした。
授業の準備としてではなく、ふだん私たちが差し向かいで話していることを、そのまま学生たちの前で公開して、その話の中で浮かび上がったトピックでエチュードを書いてもらうという形式が何となくできあがった。
このやり方はたいへん面白かった。
最初は「ヴォイス」というトピックから入った。
これはもう何度も書いていることだけれど、「ヴォイス」というのは文体のことではないし、バルトの言う「エクリチュール」とも違う。
自分の発する言葉と自分自身の「齟齬」を感知する力のことである。
というふうに書くと、「言いたいこと」と「それを言葉にしたもの」のあいだの乖離をどう埋めるかという問題設定にすり替わって、「自分の言いたいことを十全に表現できる自分らしい言葉を見出す」という、文章修業の話になってしまうが、私が考えているのはもう少し説明しにくい話である。
文章を書く。ある程度書いたあと、それを読み直す。
すると、ところどころ「これは違う」という箇所に出会う。
形容詞のなじみが悪い。主語の位置の落ち着きがわるい。読点がないほうがいい。「しかし」が二回続いている。最後に「ね」があるのがべたついて不快だ・・・というふうに、私たちは自分自身の文章を「添削」している。
だが、このとき添削している私と書いた私はどういう関係にあるのか。
そもそも何を規範として添削を行っているのか。
「美文」というような基準ではない(そんなものは存在しない)。
私が添削しているときに準拠している規範は「自分がいいたいこと」である。
けれどもそれは書かれた文章に先行して存在していたわけではない。
添削するという当の行為を通じて(大理石の中から彫像が現れてくるように)、しだいにその輪郭をあらわにしてくるのである。
「自分がいいたいこと」という理想は、書くことを通じて、現に書かれたことは「それではない」という否定形を媒介して、あらゆる否定の彼方の無限消失点のようなものとしてしか確定されないのである。
まず「言いたいこと」があり、それを運搬する「言葉」がある。「言葉」というヴィークルの性能を向上させれば、「言いたいこと」がすらすらと言えるようになる。というのが通常の「文章修業」の論理である。
しかし、「言いたいこと」というのは、言葉に先行して存在するわけではない。それは書かれた言葉が「おのれの意を尽くしていない」という隔靴掻痒感の事後的効果として立ち上がるのである。
「ヴォイス」というのはいわばこの「隔靴掻痒感」のことである。
この隔靴掻痒感そのものを言語に載せることができれば、言葉は無限に紡がれる。
「言いたいこと」がもし単体として存在するなら、きわめて巧妙に言葉を使える書き手の場合、ある時点で「言いたいこと」が底をついてしまうだろう。
私が巧妙な言葉の使い手になりたいと望む理由が「言いたいことが底をつくところまで行きたい(そして以後永遠の沈黙を享受したい)」ということのはずがない。
言葉が無限に紡がれるというのは、牛がよだれを繰るように、同じ調子の文章がだらだら書き継がれるということではない。
そうではなくて、ある一つのことを語ろうとしたときに、その「こと」がとても簡単な言葉では言い尽くせないので、その「こと」のさまざまな層に分け入り、その「こと」がいったん文脈を変えると、どういうふうな意味の変化を遂げるかを吟味する・・・というような作業のことである。
だから言葉を無限にあやつる人というのは、うっかりすると、わずか一つの言葉から小説一本分のコンテンツを引き出すような芸当ができる。
当代随一の「言葉遣い」の達人である町田康の文章はその好個の適例である。
私が「ヴォイス」という言葉を聴いたのは、もう何度も書いているけれど、映画『クローサー』の中でのジュード・ロウの台詞である。
新聞の死亡記事欄の記者である彼が死亡記事欄から抜け出せないのは「ぼくがまだ自分のヴォイスを発見していないからだ」と彼は言う。
それは彼が別の欄の記事を書くことではない(だって死亡記事担当なんだから)。
ある日、いつもように著名人の死という散文的な出来事を淡々と報ずる文章を書いているうちに、それまで書いてきたものとは別の水準、別の肌理が立ち現れる予感がする、ということをおそらく彼は言っているのである。
「ヴォイス」というのはそのことである。
名優サラ・ベルナールはレストランでメニューを読み上げただけで、同席した人々は涙を流したという。
作り話だろうとは思うけれど、ことの本質はただしく言い当てている。
ヴォイスはコンテンツとはほとんど関係がない。
文章の肌理、あるいは密度のことである。
どこまで細かくセンテンスが、単語が、音韻が「割れているか」。
一流のピアニストがキーを人差し指で下まで押し下げるだけで、そこには音楽が生まれる。
それは指がキーに触れてから離れるまでの時間をピアニストが細かく割っているからである。弱く始まり、加速し、強く高まって絶頂を迎え、またゆっくり消えてゆく、というような音の変化を、コンマ何秒のあいだに、指が1センチ動くあいだに、演じることができるのがプロのピアニストである。
首斬り朝右衛門として知られる八代山田朝右衛門吉亮は明治になって斬首刑がなくなるまでその任にあり、生涯に300余人の首を斬った。
その朝右衛門が晩年に述懐して、首斬りの極意について語っている。
それは剣をかざしてから、小指を締めながら「諸行無常」、薬指を締めながら「是生滅法」、中指を締めながら「生滅滅己」、人差し指を締めながら「寂滅為楽」と唱えると首がころりと落ちるというものである。
長くてもコンマ数秒で完了する太刀の切り下ろしをまず指の4工程に割り、その各工程をまた経文の4文字に割り当て、全体を16のセグメントに割っているということである。
聞き書きの記者はおそらく武道の心得のなかった人らしく、このことがどれほど技術的に高度なことであるかがよくわかっていなかったようであるが、これは100分の1秒レベルで身体運用をコントロールできる、ということを意味している。
太刀の切れ味というのは、切っ先のスピードや力の強さのことではない。
太刀の動きがどこまで微細に「割れているか」によって決されるのである。
ヴォイスというのは詮ずるところ「肌理のこまかさ」のことである。
私がさきに言語表現を完成に導くのは「隔靴掻痒感」であると書いたのは、そのことである。
あら、今日午後の一回目の授業でしゃべるはずのことを全部書いてしまった。
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