ドキュメンタリー映画『靖国 YASUKUNI』の上映が予定されていた映画館五館が、嫌がらせや営業妨害を懸念して、上映を取りやめた。
同じような事件は年初にもあった。
日教組の教研集会会場に予定されていたグランドプリンスホテル新高輪が同じ理由で使用を断ったのである。
右翼の街宣車が集まって、顧客や周辺住民に迷惑がかかるからという理由だった。
そのとき、グランドプリンスホテル新高輪関係者に訊きたかったことがあるので、忘れないうちに書いておく。
グランドプリンスホテル新高輪は日教組をこの場合「顧客」には算入しなかったと解釈してよろしいのか、ということである。
予定していた集会が中止になることによって日教組が蒙る損害は「顧客の迷惑」にはカウントされない、と。
つまり、利用者のうち誰が「顧客」であり、誰が「顧客」でないかは、グランドプリンスホテル新高輪が利害得失を勘定して決定する。ということでよろしいのか。
いや、それが悪いと言っているのではない。
そちらがそういう「ルール」でやるということを公言しているのであれば、それでよろしい。
そこで、お訊きしたいのだが、『ホテル・ルワンダ』という映画をご覧になった方はグランドプリンスホテル新高輪の従業員にはおられるのだろうか。
たぶんいないだろうから、あらすじをお教えしよう。
ルワンダにはツチ族とフツ族という二つの民族集団があり、62年の独立後も民族紛争が続いた。73年に多数派のフツ族が政権を握り、ツチ族を支配し、ツチ族はルワンダ愛国戦線を組織してこれに抵抗した。94年にフツ族の大統領の飛行機事故死をきっかけに内戦が再燃、政府軍と暴徒化したフツ族によって、三ヶ月間に 100 万人のツチ族と穏健派フツ族が殺害された。
その混乱の中でホテル・ルワンダの一人のマネージャーがホテルに逃げ込んできた1000人以上の「顧客」を命がけで暴徒から守った。
その実話に基づいた映画が『ホテル・ルワンダ』である。
私は別にこのような超人的な勇気をグランドプリンスホテル新高輪のマネージャーも持つべきだというような無法なことは申し上げない。
私が言いたいのは、SF的想定であるが、もしグランドプリンスホテル新高輪のマネージャーが内戦時代のルワンダでホテルのマネージャーをしていたら、彼はためらうことなくツチ族の顧客全員を政府軍に差し出しただろうということである。
ホテルの(ツチ族以外の)「顧客」や「周辺住民」に多大の迷惑をおかけすることになるからだ。
そうしなければ話の筋目が通るまい。
平時にしたことを彼らが合理化できるなら、戦時においては同じふるまいを合理化することは一層容易である。
私の推論は間違っているだろうか?
それとも、日教組の集会は断るが、政府軍の戦車に追われて逃げ込んできた被迫害民族集団は命がけでお守りしますと言うのだろうか。
そうであれば、たいへん失礼なことを申し上げた。
だが、私の経験が教えるのは、平時に卑劣なふるまいができる人々は、軍国主義の時代や恐怖政治の時代にも同じ種類のふるまいを(もっと葛藤なしに)できるということである。
そのことを覚えておこう。
映画館についても同じことを申し上げる。
この程度の圧力で上映を中止する映画館主たちは、これよりも強い圧力が予想される政治的状況におかれたら「言論の自由なんかなくてもいいです」という宣言書にただちに署名するだろう。
人間が卑劣であったり、惰弱であったりすることを私は責めない。
けれども、「言論の自由」を二束三文で売れるタイプの人間にはメディアの仕事にはあまりかかわってほしくないと思う。
それともう一つ、私にどうしてもよく理解できないのは、こんなふうにして少しでもハードな圧力が加えられそうになると、「言論の自由」の看板をすぐにおろしてしまうような惰弱な人間ばかりで日本社会が埋め尽くされることをどうして右翼の諸君は歓迎するのか、ということである。
たしか彼らは日本人は「もっと誇りを持たなければならない」ということを主張していたのではないのか。
「抗議の電話があるかもしれないから怖いので仕事を止めます」というようなことを軽々に口にする惰弱な人間が「日本を守る戦い」においてだけは例外的に勇敢に戦うとは誰も思うまい。
少なくとも私は思わない。
こんな人間は平時でも戦時でも、どこにいても何の役にも立たない。
そんな人間を組織的に作り出すことに何の意味があるのか?
国民が陋劣な人間ばかりになることによって日本国民はどんな利益を手に入れるのか?
誰か教えて欲しい。
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(2008-04-03 13:13)