情報と情報化

2008-02-05 mardi

前にラジオでおしゃべりしているときに養老孟司先生から「情報」と「情報化」というのはまるで違うことだと教えていただいたことがある。
情報化というのは「なまもの」をパッケージして、それを情報にする作業のことである。
例えば、獣を殺して、皮を剥いで、肉をスライスするまでの作業が「情報化」だとすると、トレーに載せられて値札を貼られて陳列されたものが「情報」である。
「情報」(トレーの上に並べられた肉)を他の「情報」(隣のトレー)と見比べているときに、(こちらが豚肉で100グラム200円、あっちは牛肉で100グラム400円・・・というような比較をしているとき)それが「情報化」されたプロセスのことを私たちは考えない。
情報の差異の検出に夢中になっているとき、私たちはそもそもそれらの情報がどうやって私たちの下に到達したのかという情報化プロセスのことをできるだけ考えないようにしている。
私たちの脳は同一の事象について、「水平面の差」と「階層的な差」を同時に認識することができないからである。
そして、情報と情報の差は「空間的に」表象され、情報と情報化の差は「時間的に」表象される。
とりあえず、「空間情報処理のために用いる知的エネルギー」と「時間情報化のために用いる知的エネルギー」はゼロサムの関係にある。
あちらが立てばこちらが立たず。
私たちの社会で起きているさまざまな問題はこの「情報と情報化の階層差」の見落としに起因しているように私には思われる。
例えば、過日、福岡のサイバー大学が在校生の30%に対して本人確認を行わないまま単位を与えようとしたことで文科省から注意を受けるということがあった。
これについてはすでに一度書いたがそのときには、どうして「本人確認」というような重大な事務上の手続きを懈怠したのか、その理由がよく理解できなかった。
そのことがしばらく「魚の小骨」のように喉にひっかかっていた。
人間が「何の理由もなく」仕事をさぼるということはない。
あらゆる怠業には主観的には合理的な理由がある。意識に前景化しないだけである。
サイバー大学が本人確認を怠った理由は、おそらくそれが実はサイバー大学の根幹に触れる禁忌だったからである。
サイバー大学というのは、インターネットで授業が受けられるというのが売り物である。
ある学生の名前とパスワードで送られてきたレポートがほんとうにその学生が書いたものであるかはレポートだけからはわからない。(本人を呼びつけて口頭試問してもたぶんわからない)。
私たちがふだんこともなく学業成績と学生本人を結びつけることができるのは、「人間を知っている」からである。
学期末に提出されたレポートを見て、「え?あの子、こんなレポート書けるの?」と思うことがある。
それは日頃の受講態度によって、その学生の語彙の限界や論理操作の不自由さを私が熟知しているからである。
彼女の語彙にない言葉が使ってあり、彼女には操作できないロジックで文章がつづられていた場合、高い確率でそれはWikipediaからコピペしたものであるので、ちゃかちゃかと検索をかけれれば瞬時に「ご用」となるのである。
だから、私たちのような「対面教育」をベースにしているところでは「本人確認」の必要性はほとんど感じられることがない。
サイバー大学の場合は対面教育というのは例外的な(できることなら存在させたくない)教育形態である。
だから、この大学の教務システムは、提出されたレポートを手際よく処理するために開発されたものであって、そのレポートなり答案なりを「本人が書いたものかどうか」をチェックするためのシステムにはおそらくそれほど設備投資しなかったのである。
これは「情報」を取り扱うことを本務とする人々が陥る典型的なピットフォールである。
「情報」を手際よく処理するシステムの開発に熱中する人は、その「情報」が「生の現実」からどうやって抽出されたのかという「情報化」プロセスには関心を寄せない。
情報化プロセスからはむしろ眼を逸らそうとする。
同じ「どんぶり」からエネルギーを取り出しているのだからそれが当然なのである。
その典型的な例が実は社保庁の年金記録である。
年金記録の「オリジナル」の手書き記録は、コンピュータに入力されたあと、廃棄されたり、倉庫に段ボール箱につっこまれたり、たいへん手荒に扱われていた。
そのあと手書き記録の突き合わせが今手作業で行われているようだが、この作業の手荒さも『週刊現代』がリアルに報じているのでご存じのかたも多いであろう。
この重要な作業はまるごとバイト任せで、本庁の役人はかかわっていない。
この「生もの」に対する軽視・蔑視(というよりはむしろ積極的な嫌悪)は「情報」を扱う人間の特徴である。
メディアは憤慨していたが、これはよく考えれば「当然」なのである。
コンピュータで記録を管理するというときに大事なのは、「情報化がすでに完遂している」ということであって、「情報化の作業をどれだけ丁寧にやっているか」ということには副次的な重要性しか認められない。
情報処理担当者からすれば、「すでに情報化されたもの」をどれくらい手際よく処理するかが腕の見せ所であり、情報が「オリジナル」を正確に表象しているかということなんか、はっきり言って「どうでもいい」のである。
住基コード化に対して私たちが何となく「うさんくさい」気がするのも同じ理由による。
それが便利であることはよくわかる。
だが、「コンピュータにはそう記録されています」「でも、それは現実とは違う」という押し問答が役所の窓口で多くの機会に予測されるがゆえに、私たちは生の現実をコード化するシステムに対して不信のまなざしを向けるのである。
情報と情報化の階層差について、行政はまことに鈍感だからである。
「前例がない」と「そういう決まりになっていますから」というのは小役人が「生もの」をつきつけられたときに使う代表的な遁辞である。これはいずれも「それはすでに情報化されています」と言い換えることができる。
小役人が「小」役人であるのは、彼らは「すでに情報化されたもの」だけしか取り扱うことが許されず、「生の現実が情報化されるプロセス」には参入することが許されないからである。
「国民総背番号制」制度を私たちが忌避するのは別にジョージ・オーウェル風の「ビッグブラザーがすべてを見ている」管理社会を恐れているからではない。
そうではなくて、この国民総背番号情報の中には山のようなバグが含まれていて、誤った情報によってでたらめな管理をされる迷惑に加えて、それに対する修正の申し立てにはたいへん不機嫌な対応をされることが確実だからである。
それは別にわが国の公務員がとくに怠慢であるからではなくて、情報と情報化の階層差の重大さに気がつかない人間はみな同じ穴に落ちるのである。
私たちの「高度情報社会」は「ありもの」情報の処理速度の向上には無限の投資を惜しまないが、「生もの」を情報化するプロセスの充実のための投資にはきわめて吝嗇である。
それは情報処理の理想が「無時間モデル」(入力と出力の時間差がゼロ)なのであるのに対して、情報化の理想が「無限」(入力から出力までの間に「永劫の時間」が流れること)だからである。
そして、資本主義社会は基本的に無時間モデル社会だからである。
情報化操作は「身体」が担当する。
というのは、情報化というのは時間的な表象形式を要求する作業なのであるが、人間システムの中で「時間部門」を担当しているのは身体だからである。
私たちは呼吸と鼓動を基軸にして「時間ベース」を作っている。
それに基づいてしか時間は表象されない。
時間をカウントするためには身体が要る。
時間という表象形式がないと情報化は行われない(情報化というのは「さっきここにあって今はもうない『あれ』は今ここにある『これ』に代理表象された」という考え方のことだからである。「さっき」と「今」の時間差を設定しない限り情報化は成立しない)。
つまり、「身体がないと情報化は行われない」ということである。
高度情報社会というのは、いかにして「身体抜き」でシステムを動かすかに焦点化した社会であるのだから、そこで情報化プロセスが不調になるのは論理的には自明のことだったのである。
年金問題が私たちにもたらした一番生産的な知見はそのことではないかと私には思われる。
--------