前にラジオでおしゃべりしているときに養老孟司先生から「情報」と「情報化」というのはまるで違うことだと教えていただいたことがある。
情報化というのは「なまもの」をパッケージして、それを情報にする作業のことである。
例えば、獣を殺して、皮を剥いで、肉をスライスするまでの作業が「情報化」だとすると、トレーに載せられて値札を貼られて陳列されたものが「情報」である。
「情報」(トレーの上に並べられた肉)を他の「情報」(隣のトレー)と見比べているときに、(こちらが豚肉で100グラム200円、あっちは牛肉で100グラム400円・・・というような比較をしているとき)それが「情報化」されたプロセスのことを私たちは考えない。
情報の差異の検出に夢中になっているとき、私たちはそもそもそれらの情報がどうやって私たちの下に到達したのかという情報化プロセスのことをできるだけ考えないようにしている。
私たちの脳は同一の事象について、「水平面の差」と「階層的な差」を同時に認識することができないからである。
そして、情報と情報の差は「空間的に」表象され、情報と情報化の差は「時間的に」表象される。
とりあえず、「空間情報処理のために用いる知的エネルギー」と「時間情報化のために用いる知的エネルギー」はゼロサムの関係にある。
あちらが立てばこちらが立たず。
私たちの社会で起きているさまざまな問題はこの「情報と情報化の階層差」の見落としに起因しているように私には思われる。
例えば、過日、福岡のサイバー大学が在校生の30%に対して本人確認を行わないまま単位を与えようとしたことで文科省から注意を受けるということがあった。
これについてはすでに一度書いたがそのときには、どうして「本人確認」というような重大な事務上の手続きを懈怠したのか、その理由がよく理解できなかった。
そのことがしばらく「魚の小骨」のように喉にひっかかっていた。
人間が「何の理由もなく」仕事をさぼるということはない。
あらゆる怠業には主観的には合理的な理由がある。意識に前景化しないだけである。
サイバー大学が本人確認を怠った理由は、おそらくそれが実はサイバー大学の根幹に触れる禁忌だったからである。
サイバー大学というのは、インターネットで授業が受けられるというのが売り物である。
ある学生の名前とパスワードで送られてきたレポートがほんとうにその学生が書いたものであるかはレポートだけからはわからない。(本人を呼びつけて口頭試問してもたぶんわからない)。
私たちがふだんこともなく学業成績と学生本人を結びつけることができるのは、「人間を知っている」からである。
学期末に提出されたレポートを見て、「え?あの子、こんなレポート書けるの?」と思うことがある。
それは日頃の受講態度によって、その学生の語彙の限界や論理操作の不自由さを私が熟知しているからである。
彼女の語彙にない言葉が使ってあり、彼女には操作できないロジックで文章がつづられていた場合、高い確率でそれはWikipediaからコピペしたものであるので、ちゃかちゃかと検索をかけれれば瞬時に「ご用」となるのである。
だから、私たちのような「対面教育」をベースにしているところでは「本人確認」の必要性はほとんど感じられることがない。
サイバー大学の場合は対面教育というのは例外的な(できることなら存在させたくない)教育形態である。
だから、この大学の教務システムは、提出されたレポートを手際よく処理するために開発されたものであって、そのレポートなり答案なりを「本人が書いたものかどうか」をチェックするためのシステムにはおそらくそれほど設備投資しなかったのである。
これは「情報」を取り扱うことを本務とする人々が陥る典型的なピットフォールである。
「情報」を手際よく処理するシステムの開発に熱中する人は、その「情報」が「生の現実」からどうやって抽出されたのかという「情報化」プロセスには関心を寄せない。
情報化プロセスからはむしろ眼を逸らそうとする。
同じ「どんぶり」からエネルギーを取り出しているのだからそれが当然なのである。
その典型的な例が実は社保庁の年金記録である。
年金記録の「オリジナル」の手書き記録は、コンピュータに入力されたあと、廃棄されたり、倉庫に段ボール箱につっこまれたり、たいへん手荒に扱われていた。
そのあと手書き記録の突き合わせが今手作業で行われているようだが、この作業の手荒さも『週刊現代』がリアルに報じているのでご存じのかたも多いであろう。
この重要な作業はまるごとバイト任せで、本庁の役人はかかわっていない。
この「生もの」に対する軽視・蔑視(というよりはむしろ積極的な嫌悪)は「情報」を扱う人間の特徴である。
メディアは憤慨していたが、これはよく考えれば「当然」なのである。
コンピュータで記録を管理するというときに大事なのは、「情報化がすでに完遂している」ということであって、「情報化の作業をどれだけ丁寧にやっているか」ということには副次的な重要性しか認められない。
情報処理担当者からすれば、「すでに情報化されたもの」をどれくらい手際よく処理するかが腕の見せ所であり、情報が「オリジナル」を正確に表象しているかということなんか、はっきり言って「どうでもいい」のである。
住基コード化に対して私たちが何となく「うさんくさい」気がするのも同じ理由による。
それが便利であることはよくわかる。
だが、「コンピュータにはそう記録されています」「でも、それは現実とは違う」という押し問答が役所の窓口で多くの機会に予測されるがゆえに、私たちは生の現実をコード化するシステムに対して不信のまなざしを向けるのである。
情報と情報化の階層差について、行政はまことに鈍感だからである。
「前例がない」と「そういう決まりになっていますから」というのは小役人が「生もの」をつきつけられたときに使う代表的な遁辞である。これはいずれも「それはすでに情報化されています」と言い換えることができる。
小役人が「小」役人であるのは、彼らは「すでに情報化されたもの」だけしか取り扱うことが許されず、「生の現実が情報化されるプロセス」には参入することが許されないからである。
「国民総背番号制」制度を私たちが忌避するのは別にジョージ・オーウェル風の「ビッグブラザーがすべてを見ている」管理社会を恐れているからではない。
そうではなくて、この国民総背番号情報の中には山のようなバグが含まれていて、誤った情報によってでたらめな管理をされる迷惑に加えて、それに対する修正の申し立てにはたいへん不機嫌な対応をされることが確実だからである。
それは別にわが国の公務員がとくに怠慢であるからではなくて、情報と情報化の階層差の重大さに気がつかない人間はみな同じ穴に落ちるのである。
私たちの「高度情報社会」は「ありもの」情報の処理速度の向上には無限の投資を惜しまないが、「生もの」を情報化するプロセスの充実のための投資にはきわめて吝嗇である。
それは情報処理の理想が「無時間モデル」(入力と出力の時間差がゼロ)なのであるのに対して、情報化の理想が「無限」(入力から出力までの間に「永劫の時間」が流れること)だからである。
そして、資本主義社会は基本的に無時間モデル社会だからである。
情報化操作は「身体」が担当する。
というのは、情報化というのは時間的な表象形式を要求する作業なのであるが、人間システムの中で「時間部門」を担当しているのは身体だからである。
私たちは呼吸と鼓動を基軸にして「時間ベース」を作っている。
それに基づいてしか時間は表象されない。
時間をカウントするためには身体が要る。
時間という表象形式がないと情報化は行われない(情報化というのは「さっきここにあって今はもうない『あれ』は今ここにある『これ』に代理表象された」という考え方のことだからである。「さっき」と「今」の時間差を設定しない限り情報化は成立しない)。
つまり、「身体がないと情報化は行われない」ということである。
高度情報社会というのは、いかにして「身体抜き」でシステムを動かすかに焦点化した社会であるのだから、そこで情報化プロセスが不調になるのは論理的には自明のことだったのである。
年金問題が私たちにもたらした一番生産的な知見はそのことではないかと私には思われる。

コメント (13)
だから情報化社会にも肉体労働者(単純作業身体労働者)が必要になる。
しかし情報化社会はそこのところに目をふさぎ手抜きをする。情報化社会ってのは、ほんとうはお百姓さんが米をつくるような忍耐強い仕事なのに、そんなものではにゃいような幻想がはこびっている。
てことですわな。
いや、わたしは前からそこに気がついていて、そこにこそ、わたしども中卒が失業したときに食い込む余地があるとにらんでいるわけでね。
いいご指摘をしてくださって単純労働者としてはありがたくももっています。
ただし、
>「国民総背番号制」制度を私たちが忌避するのは別にジョージ・オーウェル風の「ビッグブラザーがすべてを見ている」管理社会を恐れているからではない。
いや、やっぱり恐れているんですよ、わたしたちは。人間これを恐れなくなったらおしまいです。
投稿者: イカフライ
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2008年02月05日 12:19
日時: 2008年02月05日 12:19
はじめまして。大学3年生のendoと申します。
内田先生の「態度が悪くてすみません」を拝読しました。
あとがきの出典掲載の中で、「『合理的な人』は結婚に向かない」が『ダカーポ』の結婚特集に書いたと、書かれてました。
しかし、僕が思うに、これはクイック・ジャパン(太田出版)というカルチャー誌?の60号(2005年6月10日発売)の結婚特集に書かれたものじゃないですか?
僕は書店で60号を読んでいて、「あれ?内田樹さんはこんな若者向けの雑誌にも文章を書くんやな~」と意外に思った記憶があります。文章も同じ内容だったと思います。
一応、クイック・ジャパン60号のページを貼っておきます。良ければ見てください。
http://quicjapanbooks.seesaa.net/article/52342019.html#more
投稿者: endo
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2008年02月05日 18:46
日時: 2008年02月05日 18:46
『生もの』、そしてその『情報化』に鈍感な人間が増えることはけっして社会にとっていいことではないと思われるので、なんとかしたいですね。
もし、一方ではナマモノ階層群の頂点に異性の身体があり、他方ではそれを否定する資本主義の無時間モデル社会があるとすれば、これは背筋が寒くなるような社会にもうずっと昔から生きているぞ、と言わねばならないかもしれません。
ただ、社会はその隅々まで無時間モデル化したわけではないので、まだ息が出来ます。(希望的観測かな?)どうやったら無限を知る・測る『時間』の内に生きることが出来るのでしょうか?自問自答します。B. Stieglerの器官学にその答えのヒントが、あるかもしれません。今度研究してみます。って、そんな時間『内』けど、、、
投稿者: 昼夜転倒
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2008年02月05日 20:08
日時: 2008年02月05日 20:08
> そうではなくて、この国民総背番号情報の中には山のようなバグが含まれていて、誤った情報によってでたらめな管理をされる迷惑に加えて、それに対する修正の申し立てにはたいへん不機嫌な対応をされることが確実だからである。
これに限ったことではないですが,情報化社会においては,「『誤った情報』に『なまもの』のほうが歩み寄らなければならない」という,(極めて馬鹿げた)本末転倒の出来事がしばしば起こる,という問題点があります。
この種の馬鹿馬鹿しさを可能な限り回避しつつ情報化社会を受け入れるにはどうすれば良いのだろうか。
投稿者: heisan
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2008年02月05日 22:08
日時: 2008年02月05日 22:08
heisanさま。
名前を複数使って生活してます。慣れると便利です。
そういうのではいかがでしょうか。
投稿者: ここ
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2008年02月05日 23:28
日時: 2008年02月05日 23:28
僕はよく村上春樹の小説に現れるモノの佇まいにやられてしまいます。例えば『アフターダーク』の「先端が鋭く尖り、veriteck という会社名が入った銀色の鉛筆が、6本きれいにペン皿に並んでいる光景」とか、「夜明け前のキッチンで男がひとり、プラスチック容器から直接プレーン・ヨーグルトをすくって食べているスプーン」とか。僕の脳は、これらのモノたちを何らかの比喩・象徴・記号として「意味」へと回収することに失敗し続け、だから彼らは僕の心の中のそれぞれの場所に、ただそのままの光景としていつまでも漂い続けることになります。僕はこの状態が快感なのか苦痛なのかうまく判断できないのですが、先日の内田さんの記事の言葉を借りるなら消せない刻印という意味で「外傷的」かもしれませんし、またなんと言っても一番便利な日本語表現は「モノ哀しい」だなあと思います。ラカンの「現実界」にほんの少しだけ触れてしまった体験というと言い過ぎかな?
今回の内田さんのエントリーに習ってこの現象を分析すると、僕の「身体」が入力されたモノと共鳴し、ただちに情報化のプロセスが起動するのだけれど、しかし出力形態としての僕の「言語」はあまりにも非力すぎてモノの容量だか複雑性だか深度だか直接性だかをまったく処理することができず、結局断念してモノを身体へと送り返してしまい、そして身体は再び情報化プロセスを起動して、ある種の無限ループが発生するということなのかもしれません。内田さんが書かれた
> 情報化の理想が「無限」(入力から出力までの間に「永劫の時間」が流れること)だからである
という言葉は文学という特殊な情報体の持ち得る最良の質を言い当てたものでもあるように僕は感じました。
投稿者: ブルー
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2008年02月06日 02:18
日時: 2008年02月06日 02:18
ナチスがユダヤ人やローマ、シンティーと呼ばれる流浪の民を殺した時、膨大な手書の資料を残しました。人物A毛髪500グラム、金歯3グラム。人物B毛髪100グラム、銀歯15グラム。人物C、、。
そして、今1月27日のホロコースト犠牲者の追悼会に始まった、子供の犠牲者の名前の朗読が、おこなわれています。その子供たちの名前を肉声で一人一人読み上げるのに、一年以上かかるそうです。無名孤児という言葉はイスラエルの人には存在しません。情報に対する絶対的な態度ですね。イス研の皆様によろしく。
投稿者: ふれむで
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2008年02月06日 04:19
日時: 2008年02月06日 04:19
情報化社会のプロセスは生モノ→情報化→情報。
これで終わるわけではなく最後に「物語化」というものがあることも忘れないでください。
「ぎょうざ、ぎょうざ」で報道が埋め尽くされて「年金」も「ガソリン」もどこかへすっ飛んじゃったように。
もともと日本人は情報を作り出すことに苦手でいつも雛鳥のように受動的だったから「物語」に気づかないけど、TB先のモモブログで桃地さんが仰っていたように情報への意識も管理されている。それは「物語」によって管理している。そういうことも忘れないようにしたい。
たとえば「ラカン、ラカン」というけれど、所詮、あれはラカンの「物語」にすぎない。ただ、雛鳥的受容体質の日本人にはそれでいいのだろうなあ。考えることをやめた国民だから。W
投稿者: イカフライ
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2008年02月06日 05:09
日時: 2008年02月06日 05:09
出会い系からSNS、ブログまで、ネット上のコミュニケーションでは自分という情報を自分自身で情報化して公開している。身体性が著しく失われた昨今の世界では、他人とのコミュニケーションによって得られる「メタ認知」を得にくい。独りよがりで自己中心的な人間が増えて来たのも致し方ないと思う。株価という情報は「市場」でミクロ経済学上での「価格」が決まるが、ネット上で、例えばSNSで、自分の評価(価値といっても良い)が乱高下しているのを本人は気付き辛い。情報化された情報の価値をフィードバックする機能が、ネット上で大きく欠落しているから。wikiなど、ネットを疾走していると、随分と頭が良くなった気がして、自分の脳みその記憶の一部がネット上にある、と錯覚に陥る。自分という「生身の個性」は「軽視」されていまや身体を捨てて、瞳と脳みそだけの不気味な幽霊として、機械の中をさまよう現代人。自分の身体という情報は、スポーツやセックス或は病院で検査したり、整体を受けたりする時に認知される。「自分」という情報は「情報化される前に」きちんと自分で整理しておこう。
投稿者: LINUS
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2008年02月06日 06:27
日時: 2008年02月06日 06:27
それにしても、「情報」と「情報化」は違う、などというあたりまえのことを、わざわざ意識化し、言語化しなければ、わからない世の中っていったい何だろ? そもそも言葉自体が違うだろうに。言葉自体がそれを語っているだろうに。
それを有名大学の有名教授がわざわざ口にする。
悪いけど「アホちゃうか..」という呟きをうっかり洩らしてしまう。子供だって自覚していることなのだ。それが言葉の山にうずもれてゆくうちに自然な言語活動のなかであたりまえのこととして立ち現れなくなるのだろうか?
なんだかこの国はもはや自立的思考のいっさいから疎外されているのじゃないか。気の遠くなるようなあほうらしさを覚える。
投稿者: イカフライ
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2008年02月06日 08:03
日時: 2008年02月06日 08:03
いつもこのブログから得られる知見を糧にさせて頂いております。卒論のタイトルを「無時間モデルの検討」ということにしてしまったので、色々調べている最中です。
どうも、自我や脳を相手にしている場合と身体を相手にしている場合の「時間」は異なる感じが致します。
自我心理学のエリクソンは、自我同一性の拡散によって、時間的展望の拡散ということを述べています。自我同一性の拡散は、現在の環境に対する不適応から起こると考えれば、現在に焦点が当てられているように思います。また、精神科医の計見一雄は、脳の機能とは、煎じ詰めると人体の健康を維持することであり、そういう制御機構の最高中枢である意識の一番重要な働きは、「時間」に遅れないでついていくこと、と推測しています(『脳と人間』)。同時に彼は、現在あるいは現在が保たれている状態というものは、脳が苦労して作る作品である、としています。
内田先生の仰る「時間性」は「他者性」であると存じます。
そして、身体により獲得される時間性とは、未来は分からないけど、それでもそれに反応しないと生きていけないよ、というものであるように思います。
そもそも時間的展望の概念を発展させたのはレヴィンであってレヴィナスと同様の時代を生きたユダヤ人です。また、フランクルの『夜と霧』の中で語られるエピソードに、「もはや人生から何も期待できない」と自殺企図を打ち明ける人々に対し、彼が「人生はあなた方にまだ期待しているものがあるのではないか」と問い掛ける場面が出てきます。
どうもこれらの人々の中で、時間性の転換があったような気がします。
投稿者: daiaku
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2008年02月06日 08:25
日時: 2008年02月06日 08:25
ここ様,
素早い突っ込みありがとうございます。
ご提案の内容はなんとなく名案のようにも思いますが,それは,「情報システムを整備する人間を常に不機嫌な気分にとどめおく」ことを同時に意味するでしょう。
それに耐えられるのか。
そこにかかっている気が致します。
投稿者: heisan
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2008年02月06日 22:56
日時: 2008年02月06日 22:56
heisan様、お返事ありがとうございます。
例えば「情報システムを整備する人間」は、今のところ名前は一人に1つという大前提の上に立っています。だから1つを捉えていれば満足。遠い先のその大前提の撤回の日までは、1つをそれ用にして御想定どおりに対応していれば、きっとごきげんです。
それから「情報システムを整備する」方々は、もし「不機嫌な気分」になられたら、それが続く状態に耐えられないことが多いので、まもなく何とかしようとなさるでしょう。その時複数の名前はここでの意味を失います。または、大前提の維持を選んで、不機嫌を忘れ果てるという選択もあるかもしれません。
ご指摘のように、きっと誰も「不機嫌な気分」に長くは耐えられないし、そうはならないような気がいたします。
投稿者: ここ
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2008年02月07日 08:52
日時: 2008年02月07日 08:52