岡山県高等学校教育研究会図書館部会研究協議会という長い名前の集まりに呼ばれて「言語と身体」と題する講演をする。
オーディエンスは岡山県下の高校の先生方である。
岡山の高校からは多数の卒業生を本学にお送り頂いている関係もあり、いそいそと岡山まで出かける。
新神戸に車を置いて新幹線で30分ちょいで岡山である。
岡山は私の母方の祖父の郷里であり、今も伯母と従兄一家が住んでいる。ゼミの卒業生のマキちゃんもいるし、私にとっては懐かしい土地である。
高校の先生たちにはいろいろと申し上げたいことがある。
「申し上げたいことがある」と言っても、別に文句があるわけではなくて、そちらが18歳まで育ててくださった続きをこちらは引き受けて教育をさせて頂いているという「スクラムハーフからスタンドオフへ」というような関係である。
この間のパスの連携に「阿吽の呼吸」というものがなければ、教育はうまく機能しない。
私がまめに中高の先生がたの集まりに顔を出すのは、この「パス」の精度を高めたいと念じているからである。
「まくら」に『論座』の話をする。
『論座』の今月号に私は短いエッセイを書いた。
掲載誌を送ってきたので、ぱらぱらと読んでいたら特集が「ポスト・ロストジェネレーション」である。
ロストジェネレーション話についてはこれまで何度か書いたので、私がこの問題の切り出し方について批判的であることはご案内の通りである。
この論題を持ち出したのはもともと朝日新聞であり、それが「え、もうポストなの?」と私はちょっと驚いたのである。
その中に「ポスト・ロストジェネレーション世代」の座談会というのがあって、四人の20代前半の男女がおしゃべりをしている。
読み進むと、中の一人の「01年に関西の高校を卒業して、それから東京に出てきてずっとフラフラしている」女の子が「東京高円寺の『素人の乱』という、アナーキストとろくでなし(笑)がやっているリサイクルショップでバイトしていましたが、いまは完全な無職です」と自己紹介したので、口からワインを噴き出す。
あまり父親を脅かすものではないよ。
読むと、ずいぶんつらく苦しい子ども時代を送っていたようである。
「もう本当に、小学校時代からずっと『早く学校を卒業したい』と思ってました。ゴミを拾っただけで、『お前ホントにいいやつだな=偽善者だな』とか言われる。だから、目立たないようにひたすら蹲って『早く大人になりたい』と思ってましたね」
そうだったのか。
私は娘がそれほど学校生活で屈託していたとは気がつかなかった。
学校がつまらないのは私もよくわかる(だから私も一年で中退したんだから)。
でも、自分の子どもの苦しみは「誰でもそんなもんだろう」と高をくくっていて、それほど深く苦しんでいるとは思わなかった。
配慮の足りない親であった。
育児論を偉そうに語る資格はない。
教師としても同じようにろくでもない教師であり、おそらく相当数の学生を回復不能な仕方で傷つけたはずである。
ろくでもない親でかつろくでもない教師の話としてお聞き願いたいという条件付きで、それでも身を削って理解したいくつかのことをお話しする。
今日話した中でたいせつなことの一つは、子どもは健全な成長の過程で必ず「毒を吐く」ということである。
それは彼らが彼らを保護してきた皮膜を破るときに必ず起きる生理現象である。
それまで彼らを守ってきたものを文字通り「弊履のごとく」捨てないと子どもたちは「脱皮」できない。
それはそれまで信じてきたものに唾を吐きかけ、愛おしんできたものを踏みにじるようなふるまいとして表現される。
教育における教師の困難な課題は、この「毒を吐く」というプロセスをきちんと受け止めることである。
自分を保護してきた甲殻を破り捨てるのは、子どもたちにとっても怖い。
清水の舞台から飛び降りる覚悟で彼らだって毒を吐いているのである。
その冒険的な営みが彼らの成熟のために必須であるということを私たちは理解しなければならない。
むずかしいのは、それをまともに受け止めてはならないということである。
例えば、彼らは必ず一度はかつて畏敬していたものを否定する。
聞くに堪えないような言葉づかいでかつて彼らにとって「天蓋」であったものを罵る。
教師たちはその言葉を黙って聞かなければならない。
「そんなことを言うものではないよ」と言葉を遮ってはならない。
黙って聞く。
けれども、「黙って聞く」ということと「同意を与える」ということは違う。
「新しい言葉づかい」を獲得することを支援するということと、その言葉づかいで語られるコンテンツに同意するということは次元の違う話である。
それはカトリックの聴聞司祭の仕事と同じである。
「恐るべきこと」を言語化することは受け容れるが、そのコンテンツには同意しない。
教師はややもすると「言葉そのものを遮る」か「言葉の内容に同意する」か、どちらを選んでしまう。
でも、ほんとうにたいせつなのは「言葉は遮らないが、内容には同意しない」という構えである。
私たちは誰も成熟の過程のどこかで「畏るべきこと」を言語化しなければならない。
それは年長者によって聞き届けられねばならないが、同意されてはならない。
というのはそれがまさしく「畏るべきこと」だからである。
それに同意を与えれば私たちのささやかな「現実」が崩壊する。
しかし、それを言語化したいという欲求を抑圧すれば、「畏るべきこと」とどうかかわるかという死活的に重要な生きる技術を学ぶ機会を逸してしまう。
しかし、それがまさしく「畏るべきこと」であるがゆえに、それをまともに受け止めては年長者だって身体が保たない。
そのような言葉は「アース」する以外に接する手だてがない。
「アース」する技術にはマニュアルがない。
でも、身体はやり方を知っている。
私たちの身体は何億年かを生き抜いてきたしたたかな生命体である。
「人間性」というものを構築してからも数万年を経ている。
意識が知らなくても、無意識が知っていることがある。
私がレヴィナス老師と多田先生から学んだのは「畏るべきもの」とかかわる人間的技法である。
教師の仕事は実定的な知識や技術を教えることではない。
子どもを成熟させることである。
そして、成熟の旅程は牧歌的な風景でみたされているわけではない。
それは一種の「地獄巡り」である。
教師の責務は子どもたちが地獄巡りをしたあとに、戻り道を指し示すことである。
戻り道は身体だけが知っている。
曹洞宗の南直哉老師から聞いた話だけれど、座禅で「魔境」に入ったときに、そこから道は「呼吸」をたどって戻って来るのだそうである。
どれほどすさまじい幻覚に襲われても、自分の呼吸を数えている限り身体から致命的に遊離することはない。
呼吸は前に書いたように、私たちが「時間」を表象するとき基礎形式である。
呼吸が時間を教えてくれる。
そして、時間というのがたぶん人間を人間的たらしめているフレームワークなのである。
成熟というのも(当たり前だが)時間的な、それゆえ人間的な現象である。
その導きの糸になるのは呼吸である。
教師の仕事はだから極論すれば一つしかない。
それはつねに規則正しく、深く「呼吸する」し、それによって「時間」という、揺るがすことのできない人間的な「軸」を立ち上げることである。
というような話をすればよかったが、とてもそれでは90分では終わらないので、だいぶ違う話をしてしまった。
--------
(2008-02-06 11:59)