青山さんが府知事選のあとの新聞の底意地の悪いコメントに怒っている。
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私も同感である。
済んでしまったことについて、後から「だから言ったじゃないか」みたいな訳知り顔をされても得るところはない。
そんな訳知り顔をする暇があったら、この「災厄」がもたらす被害を最小限に食い止めるにはどうすればよいのかを考えることに知的リソースを投じる方が生産的だろう。
外洋航海士であった池上六朗先生から伺ったことだが、船が座礁したときには、「だから言ったじゃないか」みたいなことを言ってせせら笑う人間に用はない(というか、そんなやつはその場ではり倒される)。
とにかく、この苦境から脱するためには「使えるものはすべて使う」という姿勢でなければならない。
猫の手も借りたいときに人間の手を使わない法はない。
こういう場合に必要なのが「ブリコラージュ」的な知性運用である。
『野生の思考』の冒頭でレヴィ=ストロースは「ブリコルール」についてこう書いていた。
「ブリコルール(bricoleur=使えるものは何でも使う屋)の道具的世界は閉じられている。彼のゲームのルールは何はともあれ『とりあえず手元にあるもの』でやりくりするということである。今手元にあるのは道具にせよ資材にせよとりとめのないものばかりである。今直面している目的のために集められたわけではないのだから仕方がない。というか、そもそもいかなる特定の目的のために集められたものでもない。ただ、目についたものをどんどん合切袋に放り込んでいたら、こんな収集物になったというだけのことである。だから、ブリコルールの持っている手段の総体を単一の目的によって定義することはできない。(…) これらの要素は『こんなものでもいつか役に立つかも知れない』(ça peut toujours servir) の原則に基づいて収集され、保存されてきたものなのである。」(Claude Lévi-Strauss, La Pensée sauvage, Plon, 1962,p.31)
私もまたレヴィ=ストロース老師の訓戒に従い、「こんなものでもいつか役に立つかも知れない」原則に基づいて目に付くものはどんどん合切袋に放り込むようにしている。
漢語には「これを奇貨として」という似た言葉もある。
どのような災厄のうちにも何らかのチャンスはある。
それを最大化するために努力することの方が、せせら笑いよりは建設的だろう。
私はこの選挙結果を日本国が「エンターテインメント国家」という方向に舵を切った重大な歴史的選択であると考えたいと思う。
この事件を「21世紀のグランドデザイン」についての議論のきっかけにできるならば、それは生産的なことだろう。
「なわけねーだろ」というご反論ももちろんおありであろうが、別に私がそう言ったからといって誰かが損することもないし、この仮説についてしばらくスペキュレーションを暴走させてみたいと思う。
先般私は「食堂国家ニッポンの成熟」について書いた。
これについてはどなたからも異論がなかったように思う。
その前には「温泉国家ニッポンの国際的評価の高さ」について書いた。
これもまたどなたからも反論がなかった(事実だから当然であるが)。
「演芸場国家ニッポン」については当惑された方が多かったようであるが、私はこの考想は現状を理解するために有効な補助線ではないかと思っている。
「演芸場国家」というと、ほとんどの方は「政界の芸能界化」というようなマンガ的風景を思い浮かべられるであろうが、私のイメージはそれとは違う。
日本の有権者たちは古典的なタイプの政治家たち(代議士秘書からのたたき上げとか、中央省庁からの天下りとか、松下政経塾出身でアメリカ留学経験者とか、政治学・経済学専門の大学教授とか、業界や労組の利益代表とか)よりもテレビタレントたちの方を政治家として適任であると考える傾向にあり、その傾向はどうも強まり続けているように見える。
彼らに指導力や政治的卓越性を求めているからであろうか。
たぶん違うだろう。
そうではなくて、日本の有権者たちはおそらく「有権者と統治者」の関係を「視聴者とテレビタレント」の関係を基準に再編しようとしているのである。
統治者と大衆の関係の「理想」として私たちが戦後63年の経験の結果、たどりついた結論は「視聴者=有権者/タレント=統治者」の関係だった、ということである。
私はここには掬すべき見識の一端があるように思われる。
というのは、「視聴者とタレントの関係」は、現在の平均的日本人が他者と取り結ぶ中では、あきらかにもっとも「練れた」関係の一つだからであ。
テレビを見ているときの観客たちはきわめて「醒めた」状態にいる。
一家四人が黙ってテレビの画面を見つめている。
母親がぽつりと呟く。
「片平なぎさも老けたわね」
誰も応えない。
これほど「クール」な状態でメディアに対峙している機会というのは他にないのではないか。
天気予報を見ているときの方がまだしも人々は「素」になって感情をあらわにする。
テレビの画面の中のタレントたちをみつめている視聴者たちの眼は冷たく、そして不思議な暖かさを伴っている。
歯に衣着せぬ批評性と慈母のような寛大さ。
視聴者としてテレビの芸を享受するときに、日本国民はほかのどの場面でよりも成熟した社会的人格を実現している。
私たちはそのことを半世紀近いテレビ・ウオッチングを経由して、経験的に学習したのである。
橋下徹知事のパフォーマンスについては、爆笑問題の太田光が、テレビでは話していることのコンテンツではなくメッセージの「熱い」差し出し方が注目されるという有用なアドバイスをしたことが繰り返し報道された。
この知見はジジェクの言う「ポスト・イデオロギー社会」を特徴づけている。
テレビの中の人々は「彼ら自身」を演じる。
それは彼らが「こうすれば受ける」という計算に基づいて構築した架空の人格である。
しかし、この架空の人格はたいていの場合、「真正なる人格」よりも「リアル」である。
むしろ、「実相」にリアリティがないほど「仮面」のリアリティが増すと申し上げてよろしいであろう。
パスカルはかつて「跪いて祈り、信じているように行動しなさい。そうすれば信仰は自然にやってくるだろう」と語った。
ジジェクは反対のことを言う。
「跪いて祈り、信じているように行動しなさい。そうすれば信仰を自然に追い払える」
私たちは自分の内面の信仰や愛情や確信を動員することなしに、それらにかかわる仕事をやり遂げることができる。
というより、内面的なものを動員しない方がたいていの場合、その仕事は手際よくこなせるのだ。
例えば、挨拶をするときに、「やあ、こんにちは」という言葉を相手の身に対する祝福の気持ちが内面に充実するまで保留していた場合、私たちは「なかなか挨拶をしない失礼な人間」だと思われるリスクを負うことになる。
ジジェクは内面的な確信の動員抜きで成し遂げることができる社会的行為の総体を「文化」と呼ぶ。
ニールス・ボーアの家の玄関の扉には蹄鉄が打ち付けてあった。家を訪れた人がこの高名な理論物理学者が蹄鉄が幸運を呼ぶというような迷信を信じていることに驚くと、ボーアはこう答えたそうである。
「私だって信じていません。それでも蹄鉄を打ち付けてあるのは、信じていなくても効力があると聞いたからです。」(ジジェク、『ラカンはこう読め!』、59頁)
何が言いたいのかというと、私たちは「内面的な政治的信念に忠実な政治家」よりもおそらく「おのれの政治的信念に誠実な政治家のふりをすることに長けた政治家」を優先的に選ぼうとしている、ということである。
テレビにおいてもてはやされるのは、興味深いことに内面と表層のあいだに架橋不能の「断絶」を含んだ人間である。
断絶にはいろいろなヴァリエーションがある。
「表面的にはフレンドリーだが、何を考えているのかわからない人間」、「表面的には毒舌だけれど、何となく暖かそうな人間」「言うことは偉そうだけれど、本性が俗悪そうな人間」「言うことは下品だが、内面に深い信仰や政治的信念を持っていそうな人間」などなど。
表層と内面のあいだに何らかの相克的な対立を抱えている人間をテレビは好む。
テレビはこのような表層と内面の齟齬を映し出す装置としてはどのメディアよりも卓越している。
かつての長野県知事もいまの宮崎県知事も大阪府知事も、「本心で何を考えているかわからないけれど、『受け』を求めることについては貪欲」という点で共通している。
メディアは後の方の特性について集中的に報じたが、私は有権者が支持したのはむしろ「本心で何を考えているかわからない」という点ではなかっただろうかと思う。
彼らはどう見ても崇高な政治的理念をもった人間のようには見えない。
けれどもそのような人間に見られたいということについては、きわめて貪欲である。
そのような心理的洞察に基づいて、有権者たちは「徳性も知性も高くないが、それを糊塗することには全力を賭けるタイプの候補者」を選択したのではないか。
「そういう人間のふるまい方についてなら、テレビを見て、よく知っている」と信じているからだ。
有権者たちは「自分にもそのふるまい方が予期できる政治家」を統治者として優先的に選択する。
現代の有権者がもっとも人物鑑定において客観的になれるのがテレビ媒体と向き合っているときであるとしたなら、テレビ露出度の高い人間を統治者に選ぶという判断は間違っていない。
彼らの見通しが正しかったのかどうかが明らかになるまで、私は大阪府民の選択に対してしばらく判断を留保したいと思っている。
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(2008-02-01 12:16)