吉川宏志とスラヴォイ・ジジェク

2008-01-31 jeudi

入試の採点が当たっているので、昼過ぎに出勤。
採点を終えてから、「メディアと知」のレポートを読んで、成績をつけて提出。
後期の仕事がこれで終わる。とりあえず形式的には今日から春休みである。
とはいえ、私にはその間もほとんど休日はない。
机の上にはゲラが4つ積み上げられている。そのうち二つは今週中に返送しなければならない。
これを送り出しても、近日中にさらに3つ4つゲラが届くことになっている。
ということは、夏前には6冊ほど本が出るということである。
何の因果でこんなにたくさん本を出さなければならないのであろうか。
しかし、それは真夏に「暑いよお」と泣訴しているのと同じで、言っても何もならないのである。
わかっている。
黙って働こう。

吉川宏志さんという若い歌人の書いた『風景と実感』(青磁社)という本が届く。
帯文を頼まれたので、ゲラを読んで、暮れに短い推薦の言葉を書いた。
知らない人の書いた本の帯文を書くということはあまりしない。
ゲラを読んでみて断ることの方が多い。
吉川さんの本は歌論である。
歌学について私はまったくの門外漢であるが、この本は面白かった。
吉川さんは「どんな歌になまなましさを感じるか」ということを論じている。

「なぜそのようななまなましい感触が生まれてくるのかを説明することは非常に難しい」(10頁)

歌において「リアリティ」や「実感」が出来するのはどういうことかという、あまりに根源的で、それゆえ回答しがたい問いに吉川さんはさまざまな事例を挙げて、まっすぐに取り組んでいる。
私はこの姿勢を高く買うのである。
真率ということを美徳にあげる習慣は廃れて久しいけれど、私は若い書き手についていちばん評価するのはこの「まっすぐ感」である。
真率それ自体に価値があるわけではない。
真率である人間は自分の誤まりに気づく可能性がそうでない場合よりはるかに高いからである。
気取った文体で飾る若い人に注意しておくけれど、若いときはそれで通るけれど、中年期にさしかかる頃には自分の誤謬と愚鈍さを吟味する回路が機能しなくなる。
十代のころにはたしかに「オーラ」があったのに三十過ぎる頃にそれがあとかたもなく消えてしまう早熟な少年たちを私はたくさん見てきた。
彼らは知的に洗練されているせいで、「私はどうしてこのことを知らないのか? 私はどうしてこのことをうまく説明できないのか? 私の無知と無能はどのように構造化されているのか?」という形式で問いを立てることを嫌う。
彼らはそれよりは「自分がどれほど賢く有能なのか」をショウオフすることの方に知的リソースを投じて、ある日気がつくと狷介で孤独な中年男になっている。
真率というのは、そのピットフォールを避けるためのたいせつな気構えである。

大学からの帰り道に鈴木晶先生から送ってもらったジジェクの『ラカンはこう読め!』(紀伊国屋書店)を読む。
ラカンとジジェクをともに熟知している鈴木先生の訳文は実に読みやすい。すらすらと読んでいるうちにあっというまに読み終わってしまった。
読み終えて、私自身がいかにラカンとジジェクに影響されてきているのか、よくわかった。
物語をラカン的に解釈するというアイディアはそういえばジジェクの真似をして始めたのである。
最初にトライしたのがカミュの『カリギュラ』のラカン的解釈で、これは面白いほどうまく行った。
そのあと『エイリアン』にラカン的解釈を施して、これまたツボにはまったので、五回近くあれこれの本で使い回ししたのはご案内の通りである。
その『エイリアン』についてもこの本でジジェクは書いているが、「なるほど」と唸る。
「ラメラ」とラカンが術語化したものについての記述である。
ジジェクはラカンの『精神分析の四基本概念』でラメラについて述べられたつぎのような箇所を引く。

「何か特別に薄いもので、アメーバのように移動します。ただしアメーバよりはもう少し複雑です。しかしそれはどこにも入っていきます。そしてそれは性的な生物がその性において失ったものと関係がある何物かです。(…) それはアメーバが性的な生物に比べてそうであるように不死のものです。なぜなら、それはどんな分裂においても生き残り、いかなる分裂増殖的な出来事があっても存続するからです。そしてそれは走り回ります。
 ところでこれは危険がないものではありません。あなたが静かに眠っている間にこいつがやって来て顔を覆うと想像してみてください。
 こんな性質をもったものと、われわれがどうしたら戦わないですむのかよくわかりません。もし戦うようなことになったら、それはおそらく尋常な戦いではないでしょう。このラメラ、(…) それはリビドーです。」(ジャック・ラカン、『精神分析の四基本概念』)

ジジェクはラカンを承けてこう書く。

「この映画に出てくる怪物エイリアンはラカンのラメラにあまりによく似ているので、ラカンはこの映画ができる前にこの映画を観たのではないかとさえ思えてくる。この映画にはラカンが述べていることが全部出てくる。」(112頁)

エイリアン=リビドーという公式は私も「エイリアン・フェミニズム」で採用した。
ラカンを説明するときには『エイリアン』が最良の素材なのである。
『アイズ・ワイド・シャット』についてもジジェクは驚くべき分析をしている(この映画にはついては「貨幣=糞」というアイディアを軸にした分析を私もしたことがある)。
私たちが「現実」として認識しているものはさまざまな「幻想」によって構造化されている。
凡庸な哲学者たちは、この「幻想」を引き剥がして、「真正な対象」と向き合う方法を探る。
けれども、もしかするとこの「幻想」は「われわれを守っている遮蔽膜」であるのかも知れない。
私たちが間違って「現実」と呼んでいるものは、「〈現実界〉との遭遇からの逃避として機能しているのかもしれない」(101頁)
ジジェクはこう続ける。

「夢と現実の対立において、幻想は現実の側にあり、われわれは夢の中で外傷的な〈現実界〉と遭遇する。つまり、現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる〈現実界〉)に耐えられない人たちのために現実があるのだ。」(101頁)

これがジジェクの本の中でピンポイントで私に「来た」箇所である。
いや、ほんと、その通りだと思う。
ジジェクはフロイトの『夢判断』に出てくるよく知られた「息子の棺のかたわらで通夜しているうちに眠ってしまった父親の見た夢」の例を引く。
夢の中で息子があらわれて父親にこう告げる。
「お父さん、ぼくが燃えているのが見えないの?」
父親が目を覚ますと、ロウソクが倒れて、棺を覆っている布に火がついていた。
通常の夢解釈であれば、「まず」ロウソクの転倒という事実があり、そこから発する臭気や熱で父親の睡眠が妨げられるのだが、夢は欲望充足のために、それらを取り込んだ物語を編制して、睡眠の継続をはかる、という説明がつく。
だが、ラカンはさらに興味深い解釈を施す。
「何が目覚めさせるのか?」という問いをラカンは立てる。

「目覚めさせるもの、それは夢『という形での』もう一つの現実にほかなりません。『子どもが彼のベッドのそばに立って、彼の手を掴み、非難するような調子で呟いた-ねえ、お父さん、解らないの? 僕が燃えているのが?』
このメッセージには、この父親が隣室で起きている出来事を知った物音よりも多くの現実が含まれているのではないでしょうか。この言葉の中に、その子の死の原因となった出会い損なわれた現実が込められているのではないでしょうか。」(ラカン、『精神分析の四基本概念』)

「彼が夢の中で遭遇したのは、現実よりももっと強い(息子の死に対する自分の責任という)外傷だった。そこで彼は〈現実界〉から逃れるために、現実へと覚醒したのである。」(103頁)

なんと。
ブレヒトの「異化効果」は、「幻覚的な見世物」の中に突然「現実的なもの」が闖入することで(例えば、俳優同士の内輪の話を台詞のあいだに挟むとか-こちらの方は歌舞伎でも宝塚でもやるけど、観客席に水をかけるとか-これは昔のテント劇場ではよくあった)夢の中に安らいでいるブルジョワ的な観客たちを「現実に覚醒させる」政治的効果をねらったものだが、ジジェクはこれをきっぱりと否定する。
話は逆なのだ。

「彼らのやっていることは、彼らの主張とは裏腹に、〈現実界〉からの逃避であり、幻覚そのものの〈現実界〉から逃げようとする必死の企てにすぎない。〈現実界〉は幻覚的な見世物の姿をとって出現するのである。」(104頁)

現実への覚醒は夢の中で遭遇する〈現実界〉からの逃避である。
あまりに恐ろしい夢を見たときに、私たちはそこに蠢くあまりにおぞましいものから逃れるために覚醒する。
夢から逃避するのだ。
現実では夢の中で遭遇するような「おぞましいもの」に遭遇する可能性はほとんどないからである。
だから、『エルム街の悪夢』というのはラカン的にはまことによく出来た映画だったということになる。
あの映画では夢の中でフレディが表象する〈現実界〉に遭遇すると人は死ぬ。だから、主人公たちは繰り返し現実に覚醒することで夢から逃避しようとする。
人間存在の根源を脅かす外傷的経験はつねに「幻覚的な見世物」のかたちをとって出現する。
吉川宏志は塚本邦雄のこんな歌を引いている。
「醫師は安樂死を語れども逆光の自轉車屋の宙吊りの自轉車」
それについてこう書いている。

「医師から、患者の苦しみを長びかせるよりは安楽死させたほうがよい、というような話を聞いた。その後ぼんやりと町を歩いていると、暗い自転車屋の中にぶらさがっている自転車が見えた。その金属製のフォルムが妙に黒くつやめいて、無生物のもつ実在感の強さに圧倒されるように感じられた-
 そのような場面を読み取ればいいのであろうか。生きているものよりも、生命のない物体のほうがなまなましく感じられることは、私たちの日常でもしばしば起こる。おそらくこの歌はそんな一瞬の感覚をとらえているのだろう。」(15-16頁)

「安樂死」という「現実」よりも、「逆光の自轉車屋の宙吊りの自轉車」という「幻覚的な見世物」の方がより深く、回復不能なまでに外傷的であるような「一瞬の感覚」があることを歌人は知っている。
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