演芸場国家ニッポン

2008-01-29 mardi

広州に留学中のぴんちゃんが一時帰国したので、三回のゼミ生たちとプチ歓迎会をする。
オリンピックを目前にした現代中国事情について興味深い現地レポートを拝聴する。
そのときふと思い出して、大阪府民である学生諸君に日曜はちゃんと投票したかねと訊いてみた。
「はあ」と返事はあるのだが、声に勢いがなく、知事選の話題に誰も乗ってこない。
選挙権を得て最初の選挙というような方もいるはずなのに、これはどういうことであろうか。
そういえば、日曜の例会のときも、いくたりかの大阪府民会員は投票をすませてから例会に来られたはずであるのに、知事選の話題は忌避されていた。
例会中も「開票結果どうなったかな」と私が話題を振ったが、誰も返事をしてくれない。
橋下徹が圧勝するであろうという予想が彼らの気持ちを重たいものにしていたのであろう。
しかし、私はどのような現象についても「サニーサイド」を見るように努めている。
橋下新知事に与えられたこの圧倒的信任を一つの大きな社会的変化の徴候と私は解釈したい。
先回の話題の続きになるが、21世紀ニッポンが粛々と向かっている「食堂国家・温泉宿国家」のもうひとつの特質は、そこから当然想像されることであるが、「演芸国家」というものである。
「世界の食堂」「世界の湯治場」「世界の演芸場」それが21世紀ニッポンが国際社会でおそらくは引き受けることになる機能である。
われわれはそのような国家に特化するという無意識の選択を「すでに行っている」というのが私の考えである。
「世界の食堂」ニッポンの異常な食文化の爛熟ぶりについてはつとに報告した。「世界の湯治場」の市場価値についてはゴールドマンサックスがすでにAAAの格付けを示して温泉の買収を進めていることはご案内の通りである。
となれば、飯美味し、温泉よろしの湯治場が次に求めるものは、ザッツ・エンターテインメント、「世界の演芸場」である。
芸人というのは、人類学的には「河原乞食」と蔑まれると同時に「秩序にまつろわぬ遊行の人」として、日本社会の流動性とイノベーションを担保し、かつ天皇制とダイレクトに繋がっていると網野善彦先生はつとに道破されていた。
遊行の人々は、他方にある定住農民という巨大集団との相互関係でそのときどきの社会的機能を変化させてきたが、政治的にはつねに「カウンター・カルチャー」を担う少数派にとどまっていた(後醍醐天皇が全国の「秩序にまつろわぬもの」を糾合した建武の中興を唯一の例外として)。
だが、芸能人やタレントたちがカウンター・カルチャーを担う少数派である時代はどうやら終わったように私は思う。
今や彼らはメインカルチャーの批判者ではなく、その主たる担い手となりつつある。
多くの人々が指摘するように、その最初の徴候は「タレント議員」第一号藤原あき1962年に参院全国区でトップ当選した事件である。
以後、テレビでのポピュラリティを基盤に政界進出した事例は、文字通り枚挙に暇がない。
青島幸男、横山ノック、石原慎太郎、八田一朗、大松博文、高橋圭三、今東光、コロムビア・トップ、田英夫、木島則夫、中山千夏、八代英太、山東昭子、野末陳平、山口淑子、扇千景、西川きよし、田中康夫、大橋巨泉、江本孟紀、中村敦夫、森田健作、小池百合子、松浪健四郎、蓮舫、大仁田厚、馳浩、神取忍、喜納昌吉、舛添要一、田嶋陽子、橋本聖子、丸川珠代、丸山和也、横峯良郎、そのまんま東・・・
テレビのバラエティやトーク番組にこまめに出演して、「辛口」のコメントをすることがたぶん現在では国会議員になるためにもっとも効率のよい方法である。
私はそれを「非常識」であるとか、そのような頭の固いことを申し上げたいのではない。
地方議員からこつこつとキャリアを積もうと、代議士の秘書として「雑巾がけ」の修業時代を送ろうと、大学教授から転身しようと、政治家になるためにはどれが本道で、どれが裏道というような区別はない。
政治家になるキャリアパスがランダムに存在する社会の方が、限定された人間にしかそのチャンスがない社会より、政治的な成熟度は高いと評価されるべきだと私は思う。その点で、日本は政治的成熟度がきわめて(ほとんど異常に)高い国であると評してよろしいであろう。
テレビ出身の政治家たちの共通の特色はポピュリスト的な「有権者フレンドリーネス」である。
彼らは無党派浮動層の「気分」で選ばれた代表者であるから、その最優先の使命はときどきの民意に敏感に反応して、とにかく「受ける」政策を選択することである。
私はそういう政治家たちが一定数存在することは悪いことではないと思う。
「賢明な有徳な人物」よりもむしろ「選挙民と同程度の知性と道徳性の持ち主」を選ぶというのはアレクシス・ド・トックヴィルによればアメリカン・デモクラシーの生命線である。
トクヴィルはアメリカン・デモクラシーの最良の点は「失敗の矯正が容易であること」のうちに見た。

「一見して明らかに、アメリカのデモクラシーにおいて、民衆はしばしば権力を託する人物の選択を誤る。」(アレクシス・ド・トクヴィル、「アメリカのおけるデモクラシーについて」、岩永健吉郎訳、中央公論社、『世界の名著33』、1970年、456頁)

しかし、アメリカは現に「誤って選ばれた指導者」の下で例外的な繁栄を達成した。
その理由をトクヴィルはきわめて明快にこう記している。

「疑いもなく、支配者に徳と才とが備わっていることは、国民の福祉にとって重要である。しかし、それにもまして重要なのは、被支配者大衆に反する利害を支配者がもたぬことである。もし民衆と利害が相反したら、支配者の徳はほとんど用がなく、才能は有害になろうからである。」(457頁)

有徳で才能豊かな指導者と、それほどではない被支配大衆の利害が対立した場合、そのような指導者を「厄介払い」することはきわめて困難である。しかし、あまり頭が良くなく、徳性にもやや瑕疵のある指導者の場合、彼らをその席から逐うことはそれほどむずかしくない。
アメリカの建国の父たちは、彼らの後継者たちに高い徳性や知性を求めなかった。その代わりに、それほど有徳でも有能でもない指導者でもそれなりに統治できるシステムを作ることに工夫を凝らしたのである。
それは「大衆的人気」にもっぱら依拠する指導者を「短期間」のみ登用するという制度である。

「アメリカの人々は立法部の構成員が人民によって直接に任命され、その任期をきわめて短期に限られることを望んだ。議員がその選挙民の一般的意見のみならず、日々の感情にも服するようにさせるためである。」(471頁)

アメリカの人々は、明確な政治的理念を持たず、つねに有権者の顔色を窺ってその意に迎合しようとする指導者に権限を委ねることを望んだ。
それはたいていの場合、確固不抜の政治的理念を持ち、有権者の意向など意に介さない指導者の方がそうでない指導者よりも国民を苦しめる確率が高いことを彼らが知っていたからである。
トクヴィルがこの文章を書いたのはアメリカ建国後わずか60年のことであった。その省察の正しさは以後200年のアメリカの歴史が証明している。
日本は「アメリカ化」しているのであろうか。
そうなのかも知れない。
しかし、トクヴィルの時代のアメリカ人が「権力を託する人間」として誤って選んだのはアンドリュー・ジャクソンやデイビー・クロケットのようなタイプの「やたらに闘う男」であった。
それに比べると、21世紀ニッポンの有権者の嗜好はずっと柔弱である。
だから、私にはこの事態は「アメリカ化」というよりは「演芸場化」という方がことの本質を言い当てているような気がするのである。
そして、繰り返し言うように、私はそれを別に悪いことだと思っていない。
もし演芸場で国政を議しても、とくに大きな支障がないというような統治システムを私たちが完成させたのだとすれば、それは政治史上に残る達成として久しく言祝がれるべきであろう。
いや、ほんとに。
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