美食の国へ

2008-01-27 dimanche

「メディアと知」の最終回のゲストスピーカーに卒業生でエディターをしている「だからどうだっていうのよヒロコ」が来てくれて、彼女が作っているさまざまな「美味本」について話してくれる。
話を聞いているうちに、「美味本」というようなジャンルの本がこれほど大量に供与されているのは世界で日本だけではないかということにふと思い至った。
むろんヨーロッパにもアジアにも「好事家のための美食文化」は豊かに存在する。
けれども、それはあくまで料理人がいたり、地下にワインセラーを持っていたりする選ばれた少数のためのものである。
本邦の美食本のマーケットはそうではない。
これらの雑誌の読者たちはビジネス街のランチや「こなもん」の美食情報を求めるヴォリューム・ゾーンな人々である。
そのような日常的食物(カツサンドとかオムライスとかおでんとかについての)美食情報が国民的規模で熱い関心をもって探求され、かつこれほどに情報精度が高い出版文化を持つ社会が他にあることを私は知らない。
山本画伯によれば日本のベトナム料理はベトナムのベトナム料理よりも美味いそうである。フレンチについて言えば、同じ金額なら本邦のフレンチレストランの出す料理の方が確実にパリで食べるそれよりはクオリティが高い。
この数年のあいだにもしかすると日本は世界一の「食大国」になったのではないか。
先般ミシュランの東京版が出て大騒ぎになったのはご案内の通りであるが、ミシュランの採点で 3 つ星 8 店、2 つ星 25 店、1 つ星 117 店。星数トータル191。
この評価は本家に続いて世界二位であるらしい。
これは東京だけの話である。
西日本の食文化の厚みは底知れないので、日本版ミシュランが出たらおそらく本家を凌駕するであろう。
このことの歴史的意味に多くの日本人はまだ気づいていない。
美食情報誌に対する市場のニーズがこれだけ高いということは「食についての教養」が我が国においては現在すでにきわだった文化資本として機能し始めているということである。
文化資本についてはこれまでも何度か本欄で言及してきたけれど、要するに社会の階層格差を記号的に表示する「教養の差」のことである。
食についての教養の文化資本的機能についてピエール・ブルデューはプレサックの『料理についての省察』から次のような言葉を引いている。

「味覚 (goût) を美食学 (gastronomie) と混同してはならない。味覚とは完璧さを認知しこれを愛する自然の才能であるのにたいし、美食学はこれと反対に、教養と味覚教育とを支配するもろもろの規則の全体である。美食学の味覚に対する関係は、文法や文学研究が文学的意味にたいして持っている関係に等しい。(…) 美食家 (gourmet) とは繊細な通人 (connaisseur) であるとすれば、美食研究家 (gastronome) とは料理の衒学者ということになる。」

ブルデューの術語で言えば、味覚は「身分資本」である。
それは生育環境で身体化したものである。
「この身分資本は、テーブルマナー、会話術、音楽的教養、礼儀作法、テニスをすること、言葉の発音などといったさまざまな文化習得に関して、正統文化を早期に身につけているがゆえに得られるもろもろの利点によって倍加される。(…) そのおかげでこの家に新たに生まれた者は自分にとって親しみ深いモデルのうちに実現された文化の例をはじめから一挙に与えられ、生まれたそのときからすぐに、(…) 正統的文化の基本要素を身につけはじめることができるのである。」(ピエール・ブルデュー、『ディスタンクシオンI』、石井洋二郎訳、藤原書店、1999年,112頁)

身分資本を潤沢に蔵している人の特権は「無知状態に安住する余裕」を持っている。なぜなら身体化した文化資本は「彼らがその正当な相続人をもって任じている家族財産のようなもの」(103頁)だからである。
一方、「美食研究家」は後天的な努力(おもに学校制度を通じて)文化資本を獲得しようとする。ブルデューの卓越した比喩を使えば、彼らは「映画愛好家たちが自分の見たことのない映画についても知っておかなければならないことはすべて知っているのと同じように、経験を犠牲にしても知識を特権化し、作品そのものを熟視することをおろそかにしても作品について語ることを優先させ、感覚 (aisthesis) を犠牲にしても訓練 (askesis) を重んじるようにしむけてゆく禁欲主義的な堕落の諸形態にいつも直面しているのである。」(104頁)
喩えて言えば、あるワインを飲んだときに、そのワインをはじめて飲んだときのグラスの手触りや隣にいた女性の香水や自分の着ていたシャツの肌触りといった「生な経験」が甦る人間は美食家であり、頭の中にそのラベルと価格と「合わせる料理」のリストが記号的に浮かぶ人間は美食研究家である。
美食家はそれが市場的にどれほどの価値があるかはあまり知らない(彼が興味をもつ「自分にとっての価値」だけである)。
身体化された文化資本の持ち主は自分が何を知っているのかを知らない。
「生まれついての文化資本」を有している人間は自分が身体化しているものの何がそれを「学校で学ぼうとする」人々の欲望を励起しているかを知らない。
この欲望の非対称性が階層格差を決定づけるのである。
日本の食文化はかつては「後天的に獲得される文化資本」であった。
美食ブームが言われたバブルの頃、テレビに登場してきた美食家とか料理研究家と称する人々のうちに「上品な育ちの人」はほとんど見ることがなかった。
それは彼らが努力の末に体得した料理の技術や味覚の鋭さの「市場価値」をどうやってつり上げようかと必死になっていたからである。
だが、そのあとの10年のあいだに美食文化についてはある種の「洗練」があったと私は思う。
江さんが『街的ということ』で「いなかもの」と「街的」という二項を対比させて書こうとしていたことは、ブルデューの理説にかなり近い。

「人より先んじて情報を手に入れたり、人より多く情報を得ること。それを消費に直結させ誇示することが、他人より優位な位置につくことであり、それが『都会的』であると信じて疑わない類の感性が『いなかもの』をつくりだしている。」(江弘毅、『街的ということ』、講談社現代新書、2006年、47頁)

江さんが「いなかもの」の美食研究家たちやそのフォロワーに対抗して立てたのは「街的」という概念である。
それは「生もの」に触れる経験の唯一無二性を、記号的な知識の蓄積よりも優先させる生活態度のことである。誰にでもその経験の意味や有用性がわかる経験ではなくて、その経験の切実さやかけがえのなさを他人にはうまく言葉では伝えられないような種類の経験をどうやって言葉にしようかじたばたすることである。
そこには「パッケージ済みのもの」を相手にしているのか、「生もの」を相手にしているのかの違いがある。
「生もの」を相手にするときの「正しいやり方」の一般解は存在しない。
だから、「どうやっていいかわからないときに、どうやるのがいいかわかる人」にしかこの仕事はできない。
「どうやっていいかわからないときに、どうやるのがいいかわかる」のはその知識が主題的には意識されないままに身体化していた人だけである。
私たちはさまざまな知識を主題的には意識しないまま身体化している。
江さんは『ミーツ』時代に「最高、の店」六軒を選んだことがある。

リーチバー、白雪温酒場、スタンド、イノダコーヒ、クック・ア・フープ、ジャック・メイヨール。

その選択がどういう基準で行われたのかを江さんは本の中で私たちにわかるようには説明してくれていない。
江さんはこう書いている。

「店は何一つ変わらないけれど、わたしが変わったから、わたしに見える店はかわるのである。それが結果的にわたしにとっていい店であればあるほど、わたしが変わるたびに幸せな発見があるから、通うたびにその店がどんどん好きになる。」(159頁)

これはきわめて個人的な経験なのであるが、この経験には汎通性があることが確信される。
江さんはそう書いたのである。
江さんはこのとき20世紀末から21世紀初頭にかけて実現した「食文化のイノベーション」を(ご本人はそれと知らずに)体現していたのだと私は思う。
江さんは、それまでのバブリーな「美食研究者」とそのフォロワーたちよりも高い位階に「街的通人 (connaisseur)」を位置づけた。
これはブルデューの採用する文化資本による位階化が「ブルジョワを上位におく」という因習的な序列には手をつけないのに対して、大きな変化である。
すごく変な言い方をすれば、文化資本の「民主化」といってもよい。
文化資本のキャリアパスが一本しかないと、「文化貴族」と「文化平民」が差別化される。
その階段を必死ではいのぼろうとする様子があまりに「野暮」くさくてうんざりした江さんは、みんな「わたしが変わるたびに幸せな発見がある」ような身体知を個人的に登録していけばいいじゃないかという対抗命題を立てたのである(たぶん)。
そのような対抗命題が許容され、それがメインストリームになりつつあるほどに熟した食文化を有している社会はおそらく世界で日本だけである。
日本が格差社会であることはさまざまなかたちで徴候化している。食文化の格差もその一つである。
岩村暢子さんの食文化論三部作(「変わる家族変わる食卓」「〈現代家族〉の誕生」「普通の家族がいちばん怖い」)はこの食文化において急激に進行している階層化の二極化の下層についての詳細なレポートである。
岩村さんの本が教えるのは、食文化のレベルの低さは、現代日本ではダイレクトに家族のバインドの弱さ、情緒の未発達、社会的地位の低さの指標となりつつあるという現実である。
一方に食文化の洗練と食教養の文化資本化があり、他方に食文化からの疎外があり、その二極化は階層の二極化に対応している。
だから私たち日本人は現在おそらく世界でもっとも「美食コンシャスネス」の高い国民である。
それは頽廃期のローマの美食コンシャスネスとは違う。
だって、これは全国民的規模で「食についての教養」にもとづく階層再編が進行しつつあるという事態だからである。
歴史上存在したことのない事件である。
私自身はこの地殻変動的な変化に日本の「未来」を見ている。
「温泉国家・食道楽国家」として国際社会において余人をもっては代え難い卓越した一国となること、それが「日本の行く道」ではないかと私は考えているのであるが、それはまた明日。
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