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学校の怪談ほか

朝一で大学のチャペルアワーでお話をする。
いかにもころりと忘れていたのだが、前日たまさか宗教センターのおねいさんに廊下で「明日よろしくお願いします」とぺこりと頭を下げられたので、私はそのような礼を言われるいわれはないのである旨を申し上げたら、翌日のお話の担当に決まっていて、私はそれをグーグル・カレンダーに入力し忘れていたのである。
危ういところであった。
朝ご飯を食べながらぱらぱらとコンコルダンスをめくって「学びと畏れ」にかかわる箇所を探して申命記4-10を「本日の聖句」に選ぶ。
インターネットというものがなかった時代の遺物であるが、便利なものである。
大学で10分間「学びと畏れ」についてお話をする。
どうして「学校の怪談」というものがあれほど広く普及しているのに、「会社の怪談」というものは存在しないのか。
それは学校の「建築物としての構造」が「学びの構造」の比喩になっているからである。
小学校一年生で入学してきた子どもにとって学校は未知の空間であり、どの廊下を回ればどこに出て、どのドアを開くと何があるかを知らない。
だから新入生は「学校探検」をするときにどきどきする。
新入生にとって学校は「くらがり」に満ちているが、比喩的な意味における「くらがり」とは、子どもがその有用性や意味をまだ理解していないところの学知のことである。
学年が進み、6年生になるころには、学校の中のどこに何があり、どの先生がどんなキャラクターで、どのボタンを押せばどんな機能が起動するかがだいたいわかるようになる。
学校というシステムを理解するころに、学習指導要領の学習すべき範囲を理解し終えるように学校というシステムは構造化されている。
昔の人たちは無意識的にであれ、そのことを知っていた。
だから、学校の仕組みを新規参入者に「一望俯瞰的」に開示しないように制度設計したのである。
学校の建物は謎に満たされていなければならない。
思いがけない隠し扉や、隠し階段や、隠し部屋が構造的に含まれていること、そのしくみは学校に通っているうちに「メンター」の手引きによって開示されることが制度的に要請されているのである。
本学を設計したヴォーリズは「校舎が人を育てる」という名言を残した。彼はそのことを熟知していたと私は思う。
ご存じのように(ご存じない方も多いが)、本学の理学館と文学館は「双子」の建物であるが、理学館には「隠し三階」があり、「隠し屋上」がある(人間科学部の先生たちは以前はそこでバーベキューなんかしていたらしい)。
私はそのことを震災のときまで知らなかった。
土木作業のために、ふだんは入らない理学館の「くらがり」に入り込んだときにそのことを知ったのである。
理事室の「隠しトイレ」の存在を知ったのは着任してから15年目のことである。
たいしたものだと思った。
学びの場は構造的に「謎めいたもの」でなければならない。
これは私の経験則である。
今の学校の建物を設計する建築家たちの多くは、「誰にでもその構造が一目瞭然であり、どのフロアもどの棟も同一の設計であり、使い勝手が一瞬で理解できる」コンビニチェーンのような建物をおそらく学校建築の理想としているであろう。
それはまったくの間違いである。
人と人が出会う場所、未知のものと出会う場所は、それにふさわしくさまざまな「くらがり」によって彩られていなければならない。
というような話をする。
昼から4年生最後のゼミ。
もう卒論を出した後なので、することがない。
みんなでピザを取って昼食会をしたあと、「お楽しみ会」をすることになった。
ゼミ室で「色紙をくるくるまるめた飾り物」でデコレーションして、みんなで「ゲーム」をする。
ジェスチャーと花いちもんめとトランプ。
みんな小学生気分になって、楽しそうである。
ジェスチャーで「内田先生」というのが二度も出題され、秒殺的に当てられる。
私の立ち居振る舞いというのはそのように真似しやすいものなのであろうか。
少し悩む。
講演とテレビ出演について電話がある。
講演はお引き受けし、テレビはお断りする。
断られたテレビのデスクの人が「そうですよね。出ませんよね」と納得している。
「こういっては変ですが、『テレビには出たくない』という人の方がなんとなく信用できるんです」
テレビマンがそういうことをおっしゃってよろしいのであろうか。
大学院今季最後の授業。
家族論のまとめとて、発題をいただいた「お墓の話」をする。
家族についての議論は今大きく変化しようとしている。
その潮目の変化を学者やメディアはまだとらえていないように見える。
橋本治先生が『日本の行く道』で示唆されているように、日本人の過半はもうこれ以上の豊かさや利便性を、あるいはこれ以上の自由や孤立を、あるいはこれ以上の逸脱や冒険をもう求めてはいない。
多少可処分所得が目減りしようと、多少自己決定の範囲が限定されようと、多少隣人から厄介ごとを持ち込まれても、相互に扶助し、支援し合うぬくもりのある共同体に安定的に帰属したいと考えている。
このような反-進歩主義的な政治的目標が先駆的な思想家の口から語られたことは近代日本では例外的なことである。
しかし、橋本先生の先駆的知見は遠からず日本人の相当数によって共感を以て迎えられるようになるだろう。
もちろん、それからのちも「私はいかなる共同体にも属さず、100%の自己決定しその結果を100%自己責任において処理するスタンドアローンでな生き方を貫きたい」という方はいるだろう。
けれども、「ローンウルフの会」という笑話が教えるように、「私はいかなる共同体にも属さず、スタンドアローンを貫きたい」という方はそれならばどうして「そんなこと」を声高に主張されるのか、その理由をすこしは自省されてもよいと思う。
そういう方々でも「自説の賛同者」が欲しいのである。
その人の活動を支援し、その人に然るべきポストを提供し、その人の書いた本を読み、講演を聴いてくれる「共同体」の支えがなければ、彼または彼女は遠からず餓死してしまうであろう。
スタンドアローンの人間などというものは存在しない。
私たちはみんな支え合ってかろうじて生きているのである。
「インディペンデントに見える人間」というのは、権力をもっていたり、巨額の定期預金をもっていたり、華やかな名声をもっていたりするから、そのように見えるのである。
彼らは「権力のまえに萎縮する人々」や「お金の前で揉み手してしまう人々」や「有名人を崇拝してしまう人々」の共同体によって支援されている。
そのような「共同体」はあまりにメンバーが多いために、ご本人の気に入らない五人や十人をそこからたたき出しても「いくらでも換えが効く」ので、「まるで孤立しているようにふるまう」ことができるのである。別にインディペンデントなわけではない。
私たちに欠けているのは、「共同的に生きるためのマナー」である。
その大切さを教える制度的基盤がないし、その大切さについての国民的合意もない。
それは家庭と学校でまず学ぶべきことだと私は思う。
けれども、いまはその二つの制度がもっぱら「自己利益の追求を最優先することの大切さ」を学習する場になっていることに私は深い懸念を抱くのである。
演習終了後、我が家に移動して、一品持ちよりの大学院打ち上げ宴会。
講談社(大学院の教育論はこちらから本になって出版される)のオザワさんとアサカワさんも来る(オザワさんはモエ・エ・シャンドンのロゼご持参)
ご近所の川上牧師もパイとギターをもって飛び入り参加。
ジョンナム長光も久しぶりに登場し、またまた高歌放吟談論風発のうちに御影の夜は更けてゆくのでありました。

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2008年01月23日 12:49 に投稿されたエントリーのページです。

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