鷲田清一先生とお正月用の対談。
これは「三社連合」(不穏な名称のような気がするのは私たちの世代の人間だけであろうか)の企画。
北海道新聞、中日・東京新聞、西日本新聞三社が記事を共同配信する機構である(そのようなものがあるとは知らなかった)。
合計部数600万。
お正月用にどさっと三日分配達されるのがありますね。
あの中に見開き2頁で鷲田先生と私が「日本の夜明け」について談論風発しようではありませんかというナイスな企画である。
同一の企画が三社連合の一週間ほどあとに某大新聞から来た(こちらは申し訳ないがお断りした)。
お正月紙面にはやはり鷲田先生や私のような「さあ、みなさんどっと陽気に参りましょう」系の面立ちの人間が好まれるのであろう。
別にいつもにこにこ脳天気というわけではない。
私たちは(規模も偉さも違うが)それぞれ大学の管理職として、また「はいはい書きます」空約束の履行を求める債鬼たちの責め苦で日々胃に穴が開くようなストレスのうちで息も絶え絶えに執務しているわけであるが、それでも笑みを絶やさないのである。
鷲田先生の豊かな笑みの下にどのような反骨の気骨がひそんでいるかは先生のご著書を一読した方はどなたもご存知であろう。
「わし、この世にこわいものなんかないけんね」的な不羈の血のたぎりを鷲田先生はゆるやかな温顔に包まれている。
そのような「根はワルモノだが、ふだんは温厚な紳士」であるところの二人による対談は「幼児化する日本人をどうやって成熟に導くのか」というような包括的なテーマを与えられて、それをめぐるものであった。
「成熟」が主題になるという傾向は私のたいへんよろこぶところである。
成熟とことの理非は別の次元に属する。
どれほど理路整然と「正しいこと」を言い募っても、「こどもの言い分」はなかなか世間に通らない。
それは「子ども」が自分たちが拠って立つところの「システム」に対してもっぱらその影響をこうむる「被害者・受苦者」という立ち位置を無意識のうちに先取するからである。
つねづね申し上げているように、年齢や地位にかかわらず、「システム」に対して「被害者・受苦者」のポジションを無意識に先取するものを「子ども」と呼ぶ。
「システム」の不都合に際会したときに、とっさに「責任者出てこい!」という言葉が口に出るタイプの人はその年齢にかかわらず「子ども」である。
なぜならどのような「システム」にもその機能の全部をコントロールしている「責任者」などは存在しないからである。
「システムを全部コントロールしているもの」というのは、自分が被害者である以上どこかに自分の受苦から受益しているものがいるに違いないという理路から導かれる論理的な「仮象」である。
これを精神分析は〈父〉と呼ぶ。
〈父〉がすべてをコントロールしており、〈父〉がこの世の価値あるもののすべてを独占しており、「子ども」たちの赤貧と無能・無力はことごとく〈父〉による収奪と抑圧の結果であるというふうに考える傾向のことを「父権制」イデオロギーと呼ぶ。
その点ではマルクス主義もフェミニズムも「左翼的」な「奪還論」はすべて「父権制」イデオロギーである。
「父権制」イデオロギーは当たり前であるが、父権制を批判することも、もちろん父権制を解体することもできない。
〈父〉を殺して、ヒエラルヒーの頂点に立った「子ども」はそのとき世界のどこにも「この世の価値あるもののすべてを独占し、〈子ども〉たちを赤貧と無能・無力のうちにとどめおくような全能者」が存在しなかったことを知る。
どうするか。
もちろん自ら〈父〉を名乗るのである。
そして、思いつく限りの収奪と抑圧を人々に加えることによって、次に自分を殺しに来るものの到来を準備するのである。
というのは、彼または彼女が収奪者・抑圧者〈父〉として「子ども」の手にかかって殺されたときにはじめて、彼または彼女は〈父〉が彼らの不幸のすべての原因であったという「物語」が真実であったことを身を以て論証することができるからである。
〈父〉を斃すために立ち上がったすべての「革命家」が権力を奪取したあとに、〈父〉を名乗って(国葬されるか、暗殺されるかして)終わるのは、〈父〉の不在という彼ら自身が暴露してしまった真実に「子ども」である彼ら自身が耐えることができなかったからである。
「父権制社会」を創り出すのは父権制イデオローグであり、彼らはみな「子ども」であり続けようとしたせいで不可避的に〈父〉の立場になってしまうのである。
気の毒だが、そういうものである。
「子ども」でも何かを破壊することができる。
でも、彼らが破壊したあとに建設するものは、彼らが破壊したものと構造的には同一で、しばしばもっと不細工なものである。
もちろん「「子ども」には「子どもの仕事」がある。
それは「システム」の不具合を早い段階でチェックして、「ここ、変だよ!」とアラームの声を上げる仕事である。
そういう仕事にはとても役に立つ。
でも、「システム」の補修や再構築や管理運営は「子ども」には任せることはできない。
「ここ変だよ」といくら叫び立てても、機械の故障は直らない。
故障は「はいはい、ここですね。ではオジサンが・・・」と言って実際に身体を動かしてそのシステムを補修することが自分の仕事だと思っている人によってしか直せない。
現代日本は「子ども」の数が増えすぎた社会である。
もう少し「大人」のパーセンテージを増やさないと「システム」が保たない。
別に日本人全員に向かって「大人になれ」というような無体なことは言わない(そういうめちゃくちゃなことを言うのは「子ども」だけである。「大人」はそんな非常識なことは言わない)。
まあ、5人に1人か、せめて7人に1人くらいの割合で「大人」になっていただければ「システム」の管理運営には十分であろうと私は試算している。
今は「大人比率」が20人に1人くらいまで目減りしてしまったので、この比率をもうちょっといい数字まで戻したいだけである。
「そういうのだったら、それやってもいいです」という奇特な方が若い人の中から少しばかり出て来ていただければ、それで十分である。
残りの諸君は愉快に「子ども」をやっていてくださって結構である。
というような話で盛り上がるが、もちろんこんな話は掲載されぬであろう。
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(2007-12-02 12:08)