さよなら主体たち

2007-11-25 dimanche

ロード二日目は日本文学協会でのシンポジウム「言葉の力」。
会場が学士会館のお向かいの共立女子大。昼まで寝ていても間に合うというグッドロケーションである。
それでも打ち合わせ時間に遅刻(ありがちなことである)。
司会の須貝千里先生、丹藤博文先生、パネリストの馬場重行先生、横山信幸先生とお昼を食べ食べご挨拶。
シンポジウムは1時半から5時まで、なんと3時間半一本勝負という長丁場である。
主題はどのようにして文学テクストのうちに棲まう「他者」をして語らしめるか、というたいへんにヘビーなものであった。
これはびっくり。
私の知らないうちに、日本の文学研究は「主体が語る」という近代主義のパラダイムから「他者が語る」というポスト・モダンのパラダイムにしっかり移動中のようである。
しかし、「どのようにして他者をして語らしめるか」という問題の立て方にはいまだ「主体性」のシッポが覗いている。
「主体性なんかブタに食わせろ」ということは簡単であるが、その場合「ブタさん」に主体性を給餌しているところの「誰か」がやはり存在せねばならぬわけであり、それは「主体」ではないとしたら誰なのかという難問は手付かずのまま残るのである。
私の場合は、「ここで『私』という一人称代名詞を主語として語っているのはすでにして『他者さん』です」というスキームを採用させていただいているので、そのような齟齬は起こらない。
語りにおける私と他者との関係は、『サウスパーク』におけるギャリソン先生とハット君の関係と類比的であるといえばおわかりになる方はおわかりになるであろうし、おわかりにならない方にはぜんぜんおわかりにならないであろう。
でも、今こうして語っているのは「ハット君」の方なので、そんなことは「ギャリソン先生」である当の私にはかかわりないのである(態度悪いよ、ハット君!)。
ともあれ(なにが「ともあれ」だか)、現代における文学研究・国語教育研究のキーワードが「他者」であるということを知って私は一驚を喫したのである。
しかし、他者問題はさきに申し上げたとおり、「他者との架橋をいかにして果たすか」という「架橋問題」に書き換えてしまうと、ひたすら主体を強化することになりかねない。
そうではなくて、一方で「私のうちなる他者」が語り、一方で「他者のうちなる私」が語るという「主体-他者関係のぐちゃぐちゃ化プロセス」として構想されねばならないのではないか。
レヴィナス老師はそう教えておられたかに思う。
「ぐちゃぐちゃ」にするというのは特段アナーキーなことを申し上げているのではない。
もともと「主体」とか「他者」というのは、アモルファスな絡み合いのうちから便宜的に二つの項を極化してとりだしてみせたものであって、そういう名前をつけると「そういうものがあるような気になる」という言語記号の事後的効果にすぎない(おお、大胆な断定)。
いかにして主体は他者の声を聴き取るか・・・というような問題設定をしている限り、主体と他者の極化は強化されるだけである。そんな暇があったら、主体と他者をまとめて「生ゴミ」に出した方がよほど話が早いのではないかということを私はせんから申し上げているのであるが、なかなかご理解いただけないのである。
もちろんシンポジウムではこんな話をしたわけではない。
シンポジウムに来ていたウッキー、トガワさん、タカハタさんにご挨拶して、学士会館に戻る。
ここで『BRUTUS』のために写真撮影をぱしぱしと済ませて(学士会館から叱られて)から、橋本麻里さんにつれられて麻布十番のミシュラン☆のイタリアン・レストランへ。
高橋源一郎・橋本麻里父子とのディナー。
高橋さんは育児と執筆に疲れ果てて、小林秀雄賞の受賞パーティに来られなかったので、それを埋め合わせるために個人的に私のためのパーティを(橋本麻里さんの誕生パーティも兼ねて)開いてくださったのである(ほんとうによい人である)。
シャンペン、ワインなどをぐいぐいといただき、トリュフを齧り、あわびを食べ、鰤をつつき、鯛をせせる。
最初の話題は高橋さんの新作のプロットについて。
これはかっこいいタイトルから想像されるのと、ぜんぜん違う内容でびっくり。
それから高橋さんの宿業となった引越しの話。
そして、期せずして主体性の話。
主体性は純理的には整合的であるのだが、世界のエコノミーの中では使い物にならない。
「エコノミー」というレヴィナスの用語を高橋さんは期せずして使われた。
「エコノミー」とはギリシャ語「オイコノモス」の派生語で、その本義は「家政」である。
つまり、「家の中の切り盛り」のこと。
「家の中」という条件づけが重要なのである。
「使えるリソースに限りがある」ということである。
「使えるリソースに限りがない」場合と、「限りがある」場合では、正否の記号が反転することがある。
たとえば、資本主義は「使えるリソースに限りがない」ことを前提にして利益追求をわれわれに求めるが、地球上のリソースには限界があるので、どこかで資本主義的であることを止めないと資本主義は生き延びることができない。
主体性も同断である。
主体はどこかで主体的であることを止めないと生き延びることができない。
それが「主体性のエコノミー問題」である。
たいへんわかりにくいことを申し上げているので、お若い方には意味不明であろう。
そのうち年をとって、余命をカウントダウンするようになればおのずとお分かりになるからご心配には及ばない。
ともあれ、「エコノミー」を勘定に入れ忘れたのが近代の病であると考える点で私は高橋さんと老師の知見に深く同意するのである。
美食と美酒に酔いしれて東京漂流二日目の夜もまたしんしんと更けてゆくのでありました。
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