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親族の基本構造

大学院では今期は「家族論」をやっている。
今回のお題は「父親」。
発表担当のマスダさんがいろいろな論者の家族論・父親論を引用してくれたので「父親をめぐる言説史」を一覧できた。
日本人の家族論の多くがサル学の知見に依拠しており、精神科医たちまでが霊長類の「延長」として家族をとらえていることに私は一驚を喫した。
人間の家族はゴリラやチンパンジーの「家族」とは成り立ち方が違う。
レヴィ=ストロースは家族論を語るときの必読文献だと私は思うのだけれど、家族論者のどなたもこの人類学者の知見には特段のご配慮を示されておらないようである。
よい機会であるので、レヴィ=ストロースの「親族の基本構造」の考想を簡単にご紹介しておこう。
レヴィ=ストロースはラドクリフ=ブラウンの先行研究をふまえて、親族の基本単位が四項から成ると論じている。
「ラドクリフ=ブラウンによれば、伯叔父権(avunculat)という術語は相反する二つの態度の体系を意味している。第一の場合、母方の伯叔父は家族の権威を表象する。彼はその甥にとって恐るべき人物であり、甥は彼に服従し、彼は甥に対してさまざまな権力を行使することができる。第二の場合、伯叔父に対してさまざまな親しみの特権を行使し、軽んじることが許されるのは甥の方である。そして、母方の伯叔父に対する態度と父親に対する態度のあいだには相関関係がある。いずれの場合でも、われわれは二つの同一の体系を見出すのであるが、それは逆転しているのである。つまり父親と息子の関係が親密である集団においては母方の伯叔夫と甥の関係は冷たいものであり、父親が親族の権威の受託者である場合には、甥が親しくつきあうことができるのは伯叔父の方なのである。この二つの態度集団は音韻論で言うところの対立する一対(couple d’oppositions)をなしているのである。」(Claude Lévi-Strauss, Anthlopologie structurale, Plon, 1958,49-50)
問題は甥と母方の伯叔夫との単独の関係ではなく、「兄弟/姉妹」「夫/妻」「父/子」「母方の伯叔夫/その姉妹の息子」という四つの「対立する一対」の有機的連関なのである。
実例を挙げよう。
母系のトロブリアンド島では、父子はへだてのない親密さで結ばれており、甥と母方の伯叔夫はきびしく対立している。コーカサスのチュルケス族では父と子は非寛容な関係にあり、母方の伯叔夫は甥を支援し、結婚に際して馬を贈る。
また、トロブリアンド島では夫婦は親密であるが兄弟姉妹はきわめて厳格なタブーによって親しく交わることを禁じられている。チュルケス族では逆に兄弟姉妹はきわめて親密であるが、夫婦は人前ではけっして一緒に行動せず、夫に妻の健康を訊ねることはタブーになっている。
などなど。
これらの事例からレヴィ=ストロースはこの二対の親族関係が次のようなルールで律されていることを発見する。
「この構造は二つの相関的な対立関係で結ばれた四つの項(兄弟、姉妹、父、息子)から出来ている。その結果、二世代のそれぞれにおいて、一つのポジティヴな関係と一つのネガティヴな関係が存在することになる。この構造は何か?この構造の存在理由は何か?答えは次のようなものである。この構造は考え得る限り、存在しうる限りもっともシンプルな親族構造である。これがまさしく親族の原基(l’élément de paranté)なのである。」(Ibid., p.56)
どうして二世代にわたって二対の対立関係が存在しなければならないのか。
その理由をレヴィ=ストロースはあっさりと「インセスト・タブー」として説明している。
「人間社会では一人の男は女を別の男から受け取るしかなく、男は別の男に女を娘または姉妹というかたちで譲渡するのである。(・・・)親族は静態的な現象ではない。それが存在する唯一の理由は親族が存続することである。われわれは人種を継続させる欲望について話しているのではない。そうではなくて、われわれが語っているのは、ほとんどの親族体系において、任意のある世代において女を譲り渡したものと女を受け取ったものの間に発生した始原の不均衡は、後続する世代において行われる反対給付(contre-prestation)によって相殺されるしかないという事実である。」(Ibid.,p/57)
相変わらずレヴィ=ストロース先生は鋭くものごとの本質を言い当てている。
親族の存在理由は親族を存続させることであり、四項から成る基本構造は親族のダイナミズムを担保するための必要最低限のかたちである。
女性はどうなるのか、というお訊ねが当然あるだろう。
どうして「母と娘」「父方の伯叔母と姪」の四項より成る親族の基本単位は存在しないのか、と。
現に、多くのフェミニストたちはレヴィ=ストロースの「女の交換」とか「女の譲渡と反対給付」というような言い方に激怒されて、レヴィ=ストロースはセクシストにすぎぬと断罪して『構造人類学』を悪質な妄言に満ちた書物であると断じて焚書坑儒してしまったのである。
愚かなことである。
どうして男が「交換の主体」であり、女が「交換の対象」であるかというと、答えは簡単。
男それ自体には交換物としての価値がないからである。
男は再生産しない。
再生産のためには女100人あたり、男一人いれば十分である。
99%の男には生物学的には価値がない。
無価値なものをもらっても、反対給付の義務は動機づけられない。
それでは親族は形成されない。
父権制というのはフェミニストたちが正しく指摘するように男に「不当に高い価値を賦与するシステム」のことであるが、どうして男に「不当に高い価値を賦与する」のか、その理由は論理的に考えればすぐにわかる通り、男には価値がないからである。
だから、男性にのみ選択的に与えられるすべての価値は原理的に「不当に高い価値」なのである。
と書くと、また「男性が権力も財貨も情報も文化資本も現にすべての価値を独占しているではないか」ということを言い出す方がおられるかもしれない。
だからですね。
つねづね申し上げている通り、国家や貨幣や威信やなどというものはすべて男が作り上げた幻想であって、このようなものに生物学的には鐚一文の価値もないのである。
現にまともな女性はそういうものにぜんぜん価値がないことを知っているので、定期預金の残高を眺めたり、パソコンのディスプレイに見入っている男に向かって「ねえ、私と仕事とどっちが大事なの?」と訊くのである。
むろん、その場合に「仕事」などと答えた男は再生産の機会から永遠に排除されることになる。
まあ、愚痴はやめておこう。
とにかくそういうわけで、親族というのは本来四項から成るものなのである。
レヴィ=ストロースが言っていないことでたいせつなことが一つある。
それは子どもには先行世代に「対立する態度を取る同性の成人」が最低二人は必要だということである。
これは男女ともに変わらないと私は思う。
成熟のロールモデルというのは単独者によっては担われることができない。
タイプの違う二人のロールモデルがいないと人間は成熟できない。
これは私の経験的確信である。
この二人の同性の成人は「違うこと」を言う。
この二つの命題のあいだで葛藤することが成熟の必須条件なのである。
多くの人は単一の無矛盾的な行動規範を与えれば子どもはすくすくと成長すると考えているけれど、これはまったく愚かな考えであって、これこそ子どもを成熟させないための最も効率的な方法なのである。
成熟というのは簡単に言えば「自分がその問題の解き方を習っていない問題を解く能力」を身に付けることである。
成人の条件というのは「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまうかを知っている」ということである。
別に私はひねくれた逆説を弄しているわけではない。
「私はどうふるまってよいかわからない状況に陥っている」という事況そのものを論件として思考の対象にし、それについて記述し、それについて分析し、それについて他の人々と意見の交換をし、それについて有益な情報を引き出すことができるのが成人だと申し上げているのである。
だって、人生というのは「そういうこと」の連続だからである。
けれどもシンプルでクリアカットで無矛盾的な行動規範だけを与えられて育てられた子どもは「そういうこと」に対処できない。
「どうふるまってよいかわからない」ときに、「子ども」はフリーズしてしまう。
フリーズするかしないかはハードでタフな状況においては「生死の分かれ目」となる。
だから、子どもたちは矛盾と謎と葛藤のうちで成長しなければならないのである。
父と伯叔父は「私」に対してまったく違う態度で接し、まったく違う評価を与え、まったく違う生き方をリコメンドする。
この矛盾を止揚するフレームワークはひとつしかない。
それは「この二人の成人のふるまいはいずれも『私を成熟させる』という目的においてはじめて無矛盾的である」という回答に出会うことである。
だが、この父と伯叔父を統合する包括的フレームワークは父も伯叔父もどちらも与えてくれない。
子どもはこれを自力で発見しなければならない。
それは「成熟」という概念を子ども自身が理解しない限り発見できない。
成熟しない限り、「成熟のための装置」としての親族の意味はわからない。
親族は本来そのように構造化されていたのである。

近代の核家族からは「伯叔父」が排除された。
同性を引き裂く二つの原理の対立から、父が代表する父性原理と母が代表する母性原理の性的対立の中に子どもたちは移管された。
性間の葛藤は同性間の二原理の葛藤よりもはるかに処理しやすい。
というのは、人間は自分がどちらの性に帰属しているかを知っており、どちらの性の原理に従うべきかを知っているからである。
後期資本主義社会になったら、母たちがまでが男性原理を内面化するようになってきた。
権力や年収や威信や情報というそれまで男性にとってしか価値ではなかったものに女性たちも親族の存続よりも高い価値を見出すようになったのである。
これが現代の子どもの置かれた状況である。
かつての子どもたちは父と伯叔父と母という三人の先行世代、三つの原理の併存による葛藤のうちに生きていた。
今の子どもたちは「権力と金が価値のすべて」という単一原理のうちに無矛盾的に安らいでる。
このようなシンプルな原理の下では子どもたちは成熟できない。
だから、成熟することを止めてしまったのである。

親族の解体というのは、当今の社会学者が考えているよりもはるかに射程の広い人類学的問題につながっている。
その日本の社会学者たちが「成熟の問題」を論件としてさっぱり取り上げないのはなぜであろうか。
答えは一つしかない。
ここまでをお読みになった方にはすぐにわかるだろうけれど。

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コメント (17)

かまくら [TypeKey Profile Page]:

叔父と甥の関係は、「ななめ」の関係であるという考えを聞いたことがあります。それは、たしか精神科医の笠原嘉さんの本で(「青年期」という題名でしたか)、スチューデント・アパシー(懐かしい?病気)の治療で叔父さんが治療に重要な役割を果たすというものです。父親にがみがみ言われるより、ちょっと距離のある叔父さんの方が甥っ子も聞く耳を持つということだと思います。「男はつらいよ」の寅さんと満男がまさにこの関係です。

晶子 [TypeKey Profile Page]:

今日の項、ちょっとイメージしきれんのですが、

>>かつての子どもたちは父と伯叔父と母という三人の先行世代、三つの原理の併存による葛藤のうちに生きていた。<<

朝ドラ ちりとてちん。。。でしょうか。。。ね?

heisan [TypeKey Profile Page]:

> 日本人の家族論の多くがサル学の知見に依拠

家族論は,男女の役割の問題に立ち入らないといけないが故に,(現代においては)非常に語りづらい面があります。
多くがサル学の知見に依拠しているのは,いざとなったときには「いやいや,これはあくまでサルの話ですから…」と回避できるようにしておくためではないでしょうか(笑)


> 男それ自体には交換物としての価値がないからである。

おお,そうだったのか!


> 男性にのみ選択的に与えられるすべての価値は原理的に「不当に高い価値」
> 国家や貨幣や威信やなどというものはすべて男が作り上げた幻想

「不当」という言葉と「幻想」という言葉が重なります。
要は「嘘」だということですね。
ふむふむ。


■ 感想など
交換という取引を成立させるに当たって必要なものは,「交換の主体」と「交換の対象」であると。
「価値がある」ということことが「交換の対象」の条件であることは,誰にもよく分かるであろう。
だが,「交換の主体」の条件とは何だろうか?
単純に「価値がないこと」ではない。
というのは,価値がない場合,「(取引が成立している)市場から追放される」というオプションも有り得るからである。
「交換の主体である」か「市場から追放される」かの分岐点はどこにあるのか?

私は,「査定の対象に上るか上らないか」ではないかと思う。
「市場から追放される」というのは,「こいつには価値はねえな」との査定を受けた後の処遇であるが,「交換の主体である」というのは,そうではない。

査定者には誰でもなれる。
一方で,被査定者となるためには,自身を市場の真ん中に置いて衆目を集め,人々の査定を誘う必要がある。

もとの問いに戻ろう。
「交換の主体」の条件とは何だろうか?
それは,(1)自身が人々に査定されない立ち位置であり(衆目を集めない立ち位置であり),かつ,(2)自身が査定者でありまくることである。

(1)の条件を満たす手っ取り早い方法は,自分より目立つ奴が自分の隣に居ることである。
(2)の条件は,「自身の査定意欲が(相対的に)強い」ということによって与えられる。査定意欲の強さは,自身の危機感の強さと密接に関連している。例えば腹が減っているときには,食糧に対する査定意欲がかき立てられる。その他の欲求についても同様である。

(1)で,自分=男性,自分より目立つ奴=女性,と考えれば,なぜ男性が交換の主体であり,女性が交換の対象なのかの理解が一層深まる気がする。
女性における男性の(生物学的)価値よりも,男性における女性の(生物学的)価値のほうが格段に高い。
格段に高いから,男性は女性を査定しまくり,女性は男性が査定しまくるほどの勢いでは査定しまくれず,相対的な勢力関係の帰結として,「交換の主体」と「交換の対象」という“市場における役割関係”が定まるのであろう。

しー [TypeKey Profile Page]:

「寝な構」ふたたび、という感じで楽しく読ませて頂きました。大学時代にレヴィ=ストロースをわけが分からないと思いながら手に取ることがなかったら、中年になってからの内田先生との出会いもなかったかも、と思うと感慨深いです。

>親族の解体というのは、当今の社会学者が考えているよりもはるかに射程の広い人類学的問題につながっている。
その日本の社会学者たちが「成熟の問題」を論件としてさっぱり取り上げないのはなぜであろうか。

その大学時代も終わる頃、社会学の大学院に進学しようと(無謀にも)思ったことがあり、母校のある教授に相談したことがありました。精神科医で人類学も専門としている先生でしたが、希望を話すと即座に

「どうして人類学に行かないんですか。社会学ぐらい非社会的な学問はありませんよ」

と言われてしまい二の句が継げなかったのを懐かしく思い出しました。

雪国のTT [TypeKey Profile Page]:

内田先生、今晩は。ちょっと自分ちが忙しくて、ゆっくりブログを読ませてもらっていませんでした。今日のところは前からおっしゃってて、先生の論のおもしろいほうの一つですね。私の知り合いに一人っ子が一人っ子と結婚して、生まれた子供も一人っ子で、従兄妹というものも無く何だか一人で生きていかなくてはいけないというような子が実際にいるので、おじおばを持つのも贅沢と思ってしまいました。

先生、この頃ブログ長くないですか?以前下書きをして推敲してブログに載せてると書いておいででしたが、今もそうしていらっしゃるのでしょうか。何だかそうではなくなってしまっているようで、おいそがしいからなあとは思うのですがあまり長いと読めないので、私のような弱いもの(@阿部英薬害エイズ)、私のような頭の弱いものにも読めるようによろしくお願いします。

hanao [TypeKey Profile Page]:

はじめまして
初めてコメントさせていただきます。

>子どもには先行世代に「対立する態度を取る同性の成人」が最低二人は必要だということである。

上の一文にはっとさせられた思いでした。

僕は十八まで祖父(母方の父)と両親、姉と自分という家族構成で暮らしていました。
祖母は僕が三歳の時に亡くなりました。
つまり家族の中で女性は母と姉だけということになっていたのですが、
僕が物心のついたときにはすっかり姉と母が対立して、あまり仲のいい関係とはいえない状態になっていました。
いまでも二人は関係に容易には解けない結び目を残しているように見えるのですが、
内田さんの先の一文を見て「ああ、ばあちゃんがもうちょっと長生きしてくれるか、もうちょっと家族に近しい女性がいてくれたら姉と母も今より少しは楽になれてたのかもしれないんだな・・・。」と思いました。
なにも姉と母だけではなく、僕は父と祖父の強い確執や、母と父の対立や慈しみなどをつぶさに見てきたと思います。
しかし、彼らは僕には本当に優しくしてくれて、僕は「それぞれがお互いに対立しているのに、この人たちはどうして僕だけはこの人たちの対立に加わらせないでいるのだろう?どうして自分だけがこの家族の中で、台風の目の中のような無風で生暖かくて心地よい場所にずっと立っているのだろうか?」という思いで、なんというか疑問と家族に対する申し訳なさみたいなものもあった(ある)んですが、その疑問の答えの一端は僕以外の家族が対立関係を抱えていたということそのものにあるのかもしれないとも思いました。

読んでいて少しうれしくなったエントリーでした。
ありがとうございます。

atra [TypeKey Profile Page]:

んーどうでしょう。

このエントリの論理でいくと、それまでの子供達も「権力と金が価値のすべて」という単一原理のうちに無矛盾的に安らいでることになってしまうと思うのですが。
父も伯叔父も「男性原理」に変わりはないわけですから。

あと、「後期資本主義社会になったら、母たちがまでが男性原理を内面化するようになってきた」というのは、その直前の「人間は自分がどちらの性に帰属しているかを知っており、どちらの性の原理に従うべきかを知っている」と矛盾しないのでしょうか。
むしろここには、異性間の原理の葛藤であっても容易に解消し得ないという新しい可能性が開かれているようにも感じるのですが。

「答えは簡単。男それ自体には交換物としての価値がないからである」と言い切られ、船から降ろされたアフリカ人たちを競りにかける港町の奴隷市場がむしろ鮮明に再現されました。商人とバイヤーに奴隷たちが持っている交換価値はない。確かに。レヴィ=ストロースがあからさまに男女の価値の高低、有無について語ったものを読んだ記憶はありませんので内田先生のオリジナリティーでしょうか。最近の若者たちは成熟していないとする、したり顔の頭が悪そうな年配者を最近のネット社会に見かけます。この記事の誤読によるものではないでしょうね。
いつごろどんなふうに家族構成とか社会自体の変質が始まったのかわかりませんが、ときどきの社会構成員が計画して承認し協力し、また黙認し盲従して継続されてきた変化に違いありません。すべての結果に社会構成員はほぼ等しく有責で、たとえ「反対だった」「だまされた」と主張しても同じでしょう。現代日本の言説空間を先導される先生がそのようなお立場に立っているとは想像しにくく、まして男女・老若の間に和解しがたい対立点を設定されるはずもありません。だからどうすると日本の近未来に向けた問題の設定も重要であり、もとに戻ろうと提唱する「昔はよかった」的な見通しも、なるほど一つの生産的な行動指針だろうと理解できます。演繹すれば「美しい(過去の)日本」になりますか。

heisan [TypeKey Profile Page]:

atra様,


> このエントリの論理でいくと、それまでの子供達も「権力と金が価値のすべて」という単一原理のうちに無矛盾的に安らいでることになってしまうと思うのですが。
> 父も伯叔父も「男性原理」に変わりはないわけですから。

差し出がましい真似をお許しください。「親族の基本構造」というモデルと,「タイプの違う二人のロールモデルがいないと人間は成熟できない。」というときのモデルとを混同なさっているのはありませんか?
前者はレヴィ=ストロースが言っていることですが,後者は内田先生の考えで,両者はとりあえず違う話として理解するのがいいのではないでしょうか。

「後期資本主義社会」云々以降において,この両者の接点が語られているように思います。
すなわち,「それまでの子どもたち」には2人以上の異なるロールモデルが(父・母・伯叔父という3人の先行世代によって)提供されていたが,「いまの子どもたち」に提供されるロールモデルは,(核家族化により伯叔父が排除され,後期資本主義社会になって母たちまでが男性原理を内面化することによって)「権力と金こそすべて」モデルに一本化されつつあると。

> あと、「後期資本主義社会になったら、母たちがまでが男性原理を内面化するようになってきた」というのは、その直前の「人間は自分がどちらの性に帰属しているかを知っており、どちらの性の原理に従うべきかを知っている」と矛盾しないのでしょうか。

さあどうでしょう?
或いは矛盾するかもしれません。
というのは,内田先生は暗に,「(ヒトというものは本来,)どちらの性の原理に従うべきかを知っているはずなのに,後期資本主義社会の一部の母たちは,それに反する行動を取っている」とおっしゃっているようにも思えるからです。

atra [TypeKey Profile Page]:

>heisanさん

レスを頂き、ありがたく思います。

私は内田先生の考えのみを参照しているつもりなので、
失礼ながら私のコメントに混同の余地があるとは思えません。

私が申し上げたいのは、ここではロールモデルの現実的なあり方が「男性」のロールモデルとしての、「権力と金こそすべて」モデルしか示されていない点です。

かつて、同じ「男性」である父と伯叔父の間で葛藤が生じていたならば、それより一段上のここでは示されていないようなロールモデル間での葛藤となるのではないでしょうか。
ならば、今でも、父親と男性原理を取り込んだ母親の間の葛藤を通じた成熟が可能である余地が残されているということにはならないか、ということです。

そして、そのことは、今の母親達の一部が男性原理を「取り込めた」こと、つまり生物としての直観に反して異性間の葛藤も十分成熟を促すに足るものになりうるという一つの例からも、それなりの裏づけを得ているのではないでしょうか。

bun [TypeKey Profile Page]:

こんにちは。

>その日本の社会学者たちが「成熟の問題」を論件としてさっぱり取り上げないのはなぜであろうか

宮台、あ、間違えた、日本の社会学者たちもいまだ「成熟」していないから。

です。

つまり、成長期において「権力と金が価値のすべて」という単一原理のうちに無矛盾的に安らいでいたため、「矛盾と謎と葛藤のうちで成長する」経験に乏しく、「成熟」という概念を自身で理解できず発見もできず、いきおい「成熟のための装置」としての親族の意味がいまだにわかっていないから、です。

賛成です。学位取得の要件にないですものね。「成熟」(笑)。

atra [TypeKey Profile Page]:

>bunさん

初めてのレスで、不躾な質問をすることをお許しください。
なぜ賛成なのか、もう少し詳しくお聞かせ願えないでしょうか。
私の考えが足りないのか、最後の一行がどうしても理解しかねるので。

bun [TypeKey Profile Page]:

こんにちは。

>もう少し詳しくお聞かせ願えないでしょうか

丁重にお断り申し上げます(笑)。

atra [TypeKey Profile Page]:

>bunさん

レスを頂き、ありがたく思います。
そうですか・・・遺憾の極みでありますが、諦めることにいたします。

heisan [TypeKey Profile Page]:

atra様

遅くなってすみません。
ここ数日間 返事を書く余裕がありませんでした。


> 私が申し上げたいのは、ここではロールモデルの現実的なあり方が「男性」のロールモデルとしての、「権力と金こそすべて」モデルしか示されていない点です。
> かつて、同じ「男性」である父と伯叔父の間で葛藤が生じていたならば、それより一段上のここでは示されていないようなロールモデル間での葛藤となるのではないでしょうか。

なるほど。
「必要なはずのモデルの不提示」を指摘されていたのですね。ありがとうございます。これは確かにその通りだと思います。
男性のロールモデルが,“権力と金”モデルしかないのであれば,父と伯叔父のロールモデル上の対立など有り得ないと。


> ならば、今でも、父親と男性原理を取り込んだ母親の間の葛藤を通じた成熟が可能である余地が残されているということにはならないか、ということです。

う~ん… どうでしょう。
内田先生は,「“モデルが複数あれば良い”という単純なものではなく,女性原理が存在しなければ成熟は不十分になる」と説いておられるような気がしますが…。
人間にとって,十分な成熟のための葛藤に必要なものは,「生物学的価値(女性原理)+複数種の幻想価値(男性原理)」であって,このうち前者が損なわれた状況での葛藤というのは,「所詮,幻想価値の間での葛藤でしかない」わけで,まあいわば非常に幼稚なわけですね。6歳児の発想の域を出ていないというか。


<余談>
> そうですか・・・遺憾の極みでありますが、諦めることにいたします。

横レスで失礼します。
bun様のご投稿の中に,「最後の一行」に込められた意味を読み解くためのヒントが存在していると思うのですが…(笑)

ya [TypeKey Profile Page]:

レヴィ=ストロースの親族論とサル学的家族論を仲介しようとする試みとして,以下の文献があります.ご参考までに.

北村光二.2003.「家族起源論」の再構築―レヴィ=ストロース理論との対話」(『人間性の起源と進化』所収)

atra [TypeKey Profile Page]:

>heisanさん

いえいえ、私も大変返信が遅くなりまして、申し訳ありません。
今更、という感じになってしまいましたが、言論に旬など無い、と信じつつ厚顔無恥に放言いたします(笑)

うーん、内田先生は異性間の葛藤を重視していらっしゃるのでしょうか。

>それは子どもには先行世代に「対立する態度を取る同性の成人」が最低二人は必要だということである。

や、

>性間の葛藤は同性間の二原理の葛藤よりもはるかに処理しやすい。

という記述から推察するに、異性間の葛藤は葛藤として問題にならず、むしろ同性間の葛藤こそが重要と説いておられる印象があります。
もちろん、だからといって男が永遠の6歳児であっていいという訳ではありませんが・・・。

>余談

あー、社会学者への皮肉ということは理解しております。
ただ、その社会学者への皮肉を支える所の内田先生への賛意において、そちらは何を淵源としていらっしゃるのかが気になりまして。

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2007年11月07日 12:53 に投稿されたエントリーのページです。

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