三連休のはずだが・・・

2007-10-08 lundi

明けて土曜日は学士会館で取材が二つ。
一つは旧友阿部安治くんの会社、教育開発出版株式会社の仕事で、教育問題について。
阿部くんはアゲイン店主石川 “針切りボーイ” 茂樹くんの青学仏文時代の友人の過激派文学青年で、私も二十歳頃からの長いおつきあいである。
夭逝した妻のみさぶーが「名前からして『治安』をひっくり返すんだから」と長嘆していたとおり、出版会社に入ってからも組合の委員長をやって経営者たちの心胆を寒からしめていたが、いつのまにかその会社の社長になっていた。
平川くんの跡を継いで、サンケイに「ビジネスアイ」というコラムを書いているので、名前をご存じのかたも多いであろう。
どうして子どもたちはこんなに学力が低下してしまったのでしょう?
というインタビュアーの質問から始まって、1時間半ほど「学ばない子どもたち、働かない若者たち」の「モチベーションの崩壊」がどのようなダイナミックな構造をもって再生産されているかについて自説を述べる。
つとにロラン・バルトが指摘しているとおり、「無知」というのは単なる知識の欠如ではなく、そのつど力動的に、主体的な関与を俟って構成されている。
人は断固たる決意のもとにおのれの無知を構成するのであって、怠惰や不注意のために無知であるわけではない。
学力の低下は『階層化日本と教育危機』で苅谷剛彦さんが述べているとおり、自身の学力の低下に満足感や達成感を覚える社会集団の出現の帰結である。
学力の不足はひさしく自己評価を下げる要因であったけれど、学力の不足を「無意味なことをしない、合理的な生き方をする私」に対するプラス評価としてカウントする社会集団が統計的には90年代末に出現したことが知られている。
この集団は現在学齢期の子どもたちの相当数に達していると思う。
同じことは「うまく働けない若ものたち」にも見ることができる。
この場合は、就労していないことを直接的に「合理的な生き方」としてプラス評価することにはいささか無理がある。
社会評価が低いし、金も入ってこない。
そこで彼らはちょっと変わったカードを切ってくる。
それは「格差社会の本質と構造についての洞察は、格差社会の最底辺にいる人間がもっとも深い」というロジックである。
私が格差社会論とかニート、フリーター論を書くと、自称「格差の最底辺」にいる人々から罵倒に近い言葉がどっと寄せられる。
それらのすべてに共通するのは、「お前は格差社会の実情を知らないが、私は知っている」という「知的優越」のポジションを検証抜きで前提にしていることである。
このロジックは古くはマルクス主義者が、近年ではフェミニストが愛用したものである。
差別されている人間は差別社会の構造を熟知しているが、差別する側の人間は差別社会がどう構造化されているかを知らない。
マルクス主義者や第三世界論者やフェミニストたちの知的な明晰性が運動の過程でどのように劣化していったのか、私は四十年ほど前から注意深く見守ってきたが、その主因のひとつが、この「被迫害者は当該社会における『神の視点』を先取しうる」という仮説にあるというのが経験的に得られた教訓の一つである。
あるゲームでつねに勝つ人間とつねに負ける人間がいた場合に、そのゲームが「アンフェアなルール」で行われていると推論することは間違っていない。
しかし、つねに負け続けている人間はつねに勝ち続けている人間よりもゲームのルールを熟知していると推論することは間違っている。
通常、ゲームのルールを熟知している人間はそうでない人間よりもゲームに勝つ可能性が高いからである。
格差社会において下位階層に釘付けにされている人間は、格差社会における階層化の力学法則についてあまりよくわかっていないと私は推論する。
よくわかっていれば、階層上位に上昇する方法についても熟知しているはずであり、当然その方法を試しているはずだからである。
「階層上位に上昇する方法を熟知していながら、それを試さない」理由として合理的なものは一つしかない。
それは「階層上位に上昇する方法は、階層上位のものにしかアクセスできない方法である」という説明である。
現に、ほとんどの格差論者はその説明を採用している。
しかし、これはよく考えればわかるとおり、何も説明していない。
「世界が今のようであるのは、世界が今のようであるからだ」という命題は無謬であるが、世界の成り立ちについては何一つ情報をもたらさない。
私はそれよりは階層化社会の下位に釘付けにされている人々は「階層上位に上昇する方法」は自分たちには構造的に与えられないという説明を鵜呑みにすることによって階層社会の下位におのれ自身を釘付けにしているという解釈の方が生産的ではないかと思う。
「被害者は全能である」というのは今私たちの社会にひろく流布している一つの「ドクサ」である。
それゆえ誰もが「被害者」の立場を先取しようと、必死に競い合っている。
だが、被害者の立場からの出来事の記述は、そうでない人間の記述よりも正確であり、被害者の立場から提示される解決策は、そうでない人間が提示する解決策より合理的であるという判断には論理的には根拠がない。
特に今論じている格差社会のケースでは、格差社会の被害者である階層下位のものが「私はこの社会の構造を熟知している」という「全知」の視座を請求した場合、階層上昇のチャンスは原理的に失われる。
もし階層上昇のチャンスが彼らにも与えられていたのだとしたら、それを試さなかったことは彼ら自身の自己責任になってしまう。
だから、「階層上昇のチャンスは階層下位者には構造的に与えられていない」ということは自動的に真理とならねばならない。
その命題の真理性は、「現に階層上昇ができていない」という事実によってのみ証明されるのであるから、この理説を採用した人々は、全力を尽くして階層下位に踏みとどまろうとする。
社会改革を語るすべての理説はこれと同じアポリアに陥る。
社会改革の緊急であることを主張する人は論拠として、「眼を覆わんばかりに悲惨な事実」を列挙しようとする。
被迫害者の悲惨だけが彼の理説の正しさを証明するからである。
結果的に、社会改革の喫緊であることを主張する人々は、彼が救おうとしている当の被迫害者たちができる限り悲惨な状況のうちにとどまることを無意識のうちに願うようになる。
格差論も同じアポリアに落ち込んでいる。
「格差社会に対する知的・批評的な構えは、格差社会の下位にとどまることによって担保される」という考え方はメディアの格差論を通じて若者たちに大量に投与されている。
この事態は「学歴社会に対する批評性は、学歴社会の下位にあくまでとどまることで構築される」というイデオロギーによって子どもたちが「学びからの逃走」のうちに満足感と達成感を得ているのと同型的である。
しかし、このイデオロギーは社会全体にではなく、社会の一部、それも階層下位をピンポイントして投与されていることを人々は忘れがちである。
現にそのイデオロギー操作の結果、階層の流動性は失われ、「勝つ人間は勝ち続け、負ける人間は負け続ける」というポジティヴ・フィードバックがかかって、社会の二極化は急速に進行しているのである。
繰り返し言うように、今の私たちの社会は「アンフェアなルール」でゲームが進められている。
その「アンフェアネス」の最たるものは、「このゲームは『ゲームのルールをいちばんよく理解している人間』が負けるゲームなのだ」という偽りのアナウンスが一部のプレイヤーにだけ選択的になされているということである。
あらゆる社会は階層化されているが、その階層化の力学は格差論者が考えているほど単純なものではない。
階層化は「このゲームのルールはどういうふうになっているんですか?」と訊いたら負けというルールで行われている(と、多くの人々は信じているので、「私はこのゲームのルールを誰よりもよく知っている」と競って主張する)。
でも、残念ながら、誰かに訊かなければゲームのルールはわからない。
ゲームのルールがわからない人はたいてい負ける。
もし、階層化社会をラディカルに審問しようと思うのなら、「『このゲームのルールはどういうふうになっているんですか?』と訊いたら負け」というこのルールは誰が負け続けるために作られているルールなのか、を問わなければならない。
というような話をする。
続いてサンケイ新聞から武道の取材。
これも紹介すると論文一本分になるので、割愛。またの機会にね。
新幹線で爆睡しつつ帰宅。そのまま死に寝。
日曜はフランス語教育学会。芦屋大学という近場なので、昼過ぎにふらふらと出かける。
お題は「フランス語教育と人文・社会『知』」。
シンポジウムの相方は立花英裕(早稲田大学)、工藤庸子(放送大学)、澤田直(立教大学)、水林章(上智大学)というみなさん。
仏文学会をやめてずいぶんになるので、お目にかかるのは久しぶりという方々ばかりである。
工藤先生は都立大学時代に非常勤で来られていた。
「ウチダくんて万年助手だったから、ずいぶん若いのかと思っていたけど、けっこういい年なのね」と言われる。
偉い先輩なので、へへへと頭を掻く。
2時間半ほどのシンポジウムでぐったり疲れて、芦屋の街に下り、相方のみなさんたちと生ビールでプチ宴会。
みなさん帰ったあとに、ジローくんとふたりで摂津本山でワインを飲む。
この15年ほどジローくんと二人でワインを飲むのは主にパリにおいてであるので、なんだかパリにいるような気分になる。
ああ、よく働いた。
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