日曜なのであるが、締め切りが二本あるので、朝からモーツァルトの『フィガロの結婚』を聴きながら、こりこりと原稿書き。
ひとつは文藝春秋の『日本の論点』という本のための憲法九条論。ひとつは中央公論から今度出ることになった森銑三選集の『明治人物閑話』のための解説。
九条論は『九条どうでしょう』の焼き直しである。
こういう論件については、あまりころころと言うことが変わってはまずいので、だいたい「焼き直し」にしかならないんだけど。
安倍首相の退陣で、「戦後レジームからの脱却」も改憲運動も尻すぼみになって、その点は慶賀の至りなのであるが、改憲は自民党の党是であるから、改憲という考え方がレアールポリティーク的にどうダメなのかをまめにアナウンスしておかないといけない。
面倒なことである。
自民党の改憲案は九条一項はそのまま残し、二項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」を廃し、これに代えて、「自衛軍」条項を新たに書き加えようとするものである。
内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍は「法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態における公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる」
とするのが改憲案の文言である。
九条一項を手つかずに残しておく、というところが「せこい」と私は思う。
改めてご教示するまでもないが、一項の条文はこうである。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
これは1928年の不戦条約をそのまま引き写したものである。
不戦条約の第一条は「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス」とある。アメリカ、イギリス、フランスはじめこれに世界の63カ国が(もちろん大日本帝国も)調印した。
だが、加盟国はどこもこの不戦条約は「自衛のための交戦権」は制限していないという解釈を採用した。
だから、歴史が教えるところでは、不戦条約の規定を遵守して戦争を断念した国はこれまでに一つも存在しない。
日本自身も、この条約に調印した2年後の満州事変以後、15 年にわたって「自衛戦争」を戦い続けた。
不戦条約は今でも国際条約として有効であるから、加盟国がこれまで行ってきた戦争は(敗戦国のものを除いて)すべて「不戦」の枠内での「自衛戦争」なのである。
不戦条約の空文化というこの歴史的経験が私たちに教えてくれる有用な知見は一つしかない。
それは「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という九条第一項はあってもなくても戦争する上では何の支障もないということである。
九条一項というのは「世界人類が平和でありますように」とか「いつもニコニコ守る締め切り」と一般で、普遍的に正しいけれど、現実的実効性がゼロの空語に過ぎぬのである。
というわけで問題は九条二項なのであるが、これは第一項の空疎さに比べて、また奇妙なほどリアルである。
どうリアルであるかは、ここに「日本は交戦権を持っているのか?」という問いを補助線に引いてみるとよくわかる。
改憲後の日本は交戦権を有しているのか?
交戦権というのは平たく言えば「こちらの好きなときに、どこの国とも戦争を始める権利」のことである。
国力の差や外交関係の得失を勘案して「とりあえず戦争をしないほうがいい国」はある。
だが、「いついかなる場合も戦争してはならない国」というものは存在しないはずである。
そのような国の存在は「交戦権」という語の定義と背馳するからである。
その上で私が訊ねたいのは「アメリカと戦争をする権利」をこの改憲案は担保しているのか、ということである。
例えばの話、「国際社会の平和と安全を確保するために」アメリカを攻撃するということに「国際社会」が同意した場合には、法理上アメリカと戦争することもできるのか、ということである。
「できる」ということを改憲派は議論に先立って、国民の前に断言する必要があるだろう。
もちろん、現実的には日本がアメリカに向けて戦端を開く可能性はきわめて低いし、私自身はそのような事態の到来をまったく望んでいない。
けれども、私が問うているのは現実的可能性ではなくて、法理上の権利問題である。
もし、法理上も日本はアメリカとは戦争ができないというのであれば話が変わってくる。
この改憲案の「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び緊急事態」という文言は「アメリカの平和と安全を確保するためにアメリカと協調して行われる活動及び緊急事態」と書き改めなければ整合性が取れない。
いや、実際の話、改憲派の諸君はこの改憲案の文言を頭の中ではそのように読み替えて理解しているはずである。
私は別にその意見を改めろというような非道なことを言わない。
ただ、そう思っているなら、思っていることをそのまま文言に反映した方がよいと言っているだけである。
だが、「アメリカの平和と安全を確保するためにアメリカと協調して行われる活動及び緊急事態」を「自衛」と称する国があったとすれば、それは論理的には「アメリカの軍事的属国」以外にはありえない。
改憲案によって、日本はアメリカの同意抜きでは動くことができず、アメリカに向けては決して交戦権を発動しない「自衛軍」を持つということを全世界に対してカミングアウトすることになる。
その告白によってわが国がどのような外交上の利益を得ることになるのか、それがどのようなかたちでわが国の国益を増大させることになるのか、それについてエビデンス・ベーストでのご回答をお願いしているのである。
改憲派の方々は「憲法九条のように恥ずかしいほど非現実的な憲法条文は他に存在しない」とよく言う。
同じように、自民党改憲案のように「恥ずかしいほど現実的な憲法条文は他に存在しない」と私は思う。
どちらがより恥ずかしいのか。
これは一考を要する論件であろう。
何度も言うように、私は「現状維持」派である。
このままでいいんじゃないの、別に、オレ的には困ってないから。という立場である。
それを是非変えたいという方々がおられるわけである。
こういう場合は「是非現状を変えたい」ということを主張する側に「変えることによってもたらされる種々の利益」についての挙証責任はある。
だが、私は改憲派の人々のうちにこの挙証責任をきっぱり引き受けて発言する人のあることを知らない。
現状を変えたいのだが、それによって「何が起こるか」については何も申し上げられない、というような政治的主張に賛同を求められても、私は困る。
驚いたことに、それでも「困らない」という方が有権者の60%くらいおられると今年の初め頃の世論調査が報告していた。
なんだ、「見る前に跳べ」かよ。
こりゃまた日本の有権者のみなさんはずいぶん「大胆」な政治的ご判断をなされるのだなと私はびっくりしたのであった。
というようなことを書く。
これを読んでこめかみに青筋を立てて怒る人がたくさんいるだろうなと想像すると筆の走りがよろしい。
続いて心を落ち着けて森銑三選集の解説を書く。
私は森銑三、吉川幸次郎、中島敦、白川静といった明治生まれの文人の漢文崩しの文体が好きである。
とくに森銑三には成島柳北という人の思想を教えて頂いたという厚恩がある。
『明治人物閑話』はタイトル通り、明治人のプロフィールをぱらぱらと書き連ねたものである。
閑人閑話。
世間無用の文たることを断固たる決意のもとに貫いている。
この風儀を森銑三は柳北から受け継いだと私は思う。
『柳橋新誌』の跋文に柳北はこう書いている。
「仙史此の編を草するの際、一客偸かに之を読み額を蹙め眉を攅めて曰く、子の書は世教に益なくして徒に人を罵詈す。無用の文を作つて以て世の怒りに触る。何の故に狂愚此の若きの事を為す也。子其れ悔有らん乎。仙史笑つて曰く、吾は固より無用の人なり。何の暇か能く有用の事を為さん。」
仙史とは柳北の号である。
柳北の文章は、その恐るべき学識と語彙を駆使して、「ど〜でもいい話」を延々と書き連ねて、真綿で針をくるむように、その行間に寸鉄人を刺すような批評の言を記すことを骨法とする。
私はその批評性の滋味において成島柳北をポール・ヴァレリーよりもモーリス・ブランショよりも上位に置く。
惜しむらくは、現代日本人のうちに柳北の文を解する国語能力を備えたものがすみやかに「絶滅危惧種」になりつつあることである。
小学校から英語を教えるよりも漢詩の音読でもさせた方が日本人の知的能力の向上には資するところが大きいだろうと私は思うが、もちろん同意してくれる人はどこにもいないのである。
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(2007-10-01 10:44)