Happy birthday to me〜
57回目の誕生日である。
まさか自分が57回目の誕生日に Happy birthday to me〜というような気の抜けた「行き場のないギャグ」を口にする老人になろうとは少年の頃には思いもしなかった。
人生というのは予断を許さぬものである。
私は16歳の頃に自分が57歳の時にどんなことを考えている人間になるのか想像もつかなかった。
想像がつかなかったのは、「57歳というのは、すごい大人だ」と思っていたからである。
16歳はガキであるから、ガキの想像力をもってしては57歳の爺の頭の中に渦巻く妄念や諦観や洞見についてはそれを忖度することはできるはずがないと思っていたのである。
そこらへんの考えの浅さがやはり16歳のガキである。
なんのことはない。
40年経っても、「がわ」が爺になっただけで、16歳の私はそのまま手つかずで残っているのである。
そういうたいせつなことをどういうわけか大人たちは決して子どもに教えてくれない。
だから、私の文章を読んでいる若い方々にここに声を大にしてご教示するのである。
このあと何十年経っても、あなたの「中身」はほとんど今のまま残っている。
でも、「がわ」の性能にはガタが来る。
歯が抜け、毛が抜け、腹が出て、肌がどろんとたるみ、白目が黄色く濁り、全体にやる気がなくなる。
そういう中年老年の自分の肉体に「いまの自分」の頭を移植した状態を想像してみればよろしい。
それが紛れもなく諸君の何十年後かの実体なのである。
それが厭さに、悪魔に魂を売って加齢を止めようとする人もいるし、手早く老人力を身に付けて、「二十歳にして朽ちたり」と嘯く人もいる。
どちらも無理があると私は思う。
「老いる」というのは若いみなさんが思っているような経験ではない。
「死ぬ」というのがどういうことかは、自分が死んでみるまでわからない。
「老いる」というのがどういうことかも、自分が老いてみないとわからない。
私は自分が老いてきて、「老いる」というのが子どものころに想像していたのとはぜんぜん違う経験だということを身に沁みて知った。
老いるというのは「精神は子どものまま身体だけが老人になる経験」のことたったのである。
『ハウルの動く城』のソフィーの気分である。
映画の中でソフィーは「まだら老女」である。
寝ているときとロマンティックな空想をしているときだけ彼女は少女に戻る。
これは人間の老いの様態をじつに見事に図像化していると思う。
作り話ではなくて、それが人間の「ふつう」なのである。
この「まだらに」少年であったり爺であったり、少女であったり婆であったりする、「存在のゆらぎ」が老人であるということの最大の特徴である。
赤ちゃんはずっと赤ちゃんのままである。
でも、老人は赤ちゃんになったり、青くさい少年少女になったり、分別くさいおじさんや世間ずれのしたおばさんになったり、死にかけのおいぼれになったり、ちょっとした状況の与件の変化でこまめに「ゆらぐ」。
老いるということは、単線的に加齢するというほど単純なことではない。
「よく老いる」というのは、「いかにも老人臭くなること」ではない。
そんな定型的な人間になってもしかたがない。
生まれたときから現在の年齢までの「すべての年齢における自分」を全部抱え込んでいて、そのすべてにはっきりとした自己同一性を感じることができるというありようのことをおそらくは「老い」と呼ぶのである。
幼児期の自分も少年期の自分も青年期の自分も壮年期の自分も、全員が生きていま自分の中で活発に息づいている。
そして、もっとも適切なタイミングで、その中の誰かが「人格交替」して、支配的人格として登場する。
そういう人格の可動域の広さこそが「老いの手柄」だと私は思うのである。
『村上春樹にご用心』昨日発売になりました。
今日のランキングは、アマゾンで文芸で8位、総合88位。bk1では単行本総合4位。
すごいなあ。
宣伝も何にもしてないし、取次も通さない「手売り」の同人誌みたいな本なのにね。
でも、村上春樹を絶賛する本だから(そんな本これまでないし)、村上ファンはみな買うわな(ぼくだって買うもの)。
ということは400万部くらい?
スズキさん! 自社ビル建つかもしれないよ。
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(2007-09-30 12:11)