用事がないから原稿でも書こう

2007-08-24 vendredi

金曜のGoogleカレンダーは空白。
どこに行かなくてもよいし、誰も来ないということである。
何もすることがないので、とりあえず9月の下旬締め切りの原稿を書いてしまうことにする。
神奈川大学から頼まれた「格差社会論」。
8000字か・・・ずいぶん多いな。
格差社会論を論ずる学者たちは彼ら自身が「より政治的に正しい格差社会論」を語ることで、「不出来な格差社会論」を語る学者を「知的位階の下位に格付け」して、格差を再生産していることに果たして自覚的なのであろうか・・・という書き出しを思いつく。
意地の悪い書き出しを思いつくとなぜか筆が走る。
すらすらすいすいと書いているうちに気がついたら、8000字を超していた。
こういう「書きスケ」体質ゆえに私は締め切り地獄から逃れられないのである。
わかっているけれど、鼻歌まじりで書いたものを苦吟して書いたと嘘をつくわけにもゆかぬ。
半月ほど塩漬けにしておくことにする。
文春のコンピ本の校正締め切りを11月まで延ばしてもらう。
これでしばらくはレヴィナスの翻訳にかかりきりになることができた。
7本論文があるので、一日一本のペースで訳してゆく。
一本がだいたい2頁から5頁くらいの量なので、ちょうどよい分量である。
翻訳は一気にやらないと文体のリズムというか思考の波に乗れない。
山下達郎くんの On the street corner の一人多重録音アカペラと一緒である(あれは一日に一曲録音するそうである。二日にわたってやると、前日の歌と拍が合わなくなるらしい)。
翻訳も同じ。
日を跨ぐと、拍が合わなくなる。
それでも「うまく乗れた日」と「乗り損なった日」がある。
うまく乗れるているときはフランス語を見ると訳語がすぐに浮かんでくる。乗れないときはフランス語の意味はなんとなくわかるのだが、それが日本語にならない。
柴田元幸さんは、英語のテクストの上にもう訳し終えた日本語が見えるので、ただそれをそのまま「筆写」しているだけだそうである。
柴田さんくらい英語ができるとそういう感じになるのであろう。
レヴィナス老師は悪魔のような文体で書くということはこれまでに何度も書いているが、それは老師が「わざと」わかりにくく書いているからである。
ほんとうにそうなのだ。
それは老師が「わかりやすく」書いている文章を読むとわかる。
今日訳したのは「教育の10年」という、戦後フランスにおけるヘブライ語教育を論じたものであるが、おそらく掲載された媒体が「ふつうの学校教育関係者」が読むものであったのであろう。
レヴィナス老師がなんと「ふつうの文章」(!)を書いているのである。
老師は「こういう文章」も書けるのであった。
たしかにそうでなければ、実務家として生きてゆけたはずがない(レヴィナス老師は久しく東方イスラエル師範学校の校長先生だったのである)。
校長先生の訓話が毎回あのような文体のものであったら、生徒たちの多くはおのれの知力に絶望して不登校になっていたであろうし、校長先生の年次報告書があのような文体のものであったら、フランスの文部省の担当官も師範学校への補助金交付の適切性について判断に窮したであろう。
つまり、あの「悪夢のような文体」はレヴィナス老師から私たち読者への「贈りもの」なのである。
あの文体のうねりのうちに師の愛を感じ取ることが「レヴィナスの弟子」のおそらくは条件なのである。
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