怪異ゴミ屋敷

2007-08-10 vendredi

引越準備に明け暮れ。
今朝は燃えないゴミ捨て。7袋。
前日は燃えるゴミ14袋。
どうしてこんなに必死にゴミ捨てをしているかというと、「らくらくパック」だからである。
「らくらくパック」は梱包を全部引越業者のみなさんがやってくれるのであるが、彼女たちはプロフェッショナリズムゆえに徹底的にすべての家財を梱包してしまうのである。
それゆえ、しばしば「それは誰が見てもゴミでしょう・・・」というものまで丁寧に梱包して新居に運び入れてしまう。
前回の引越のときに手抜きですべてお任せしたら、大量の不要品が新居に運び込まれてしまった。
むろん大量の不要品をかかえて生活していた私が悪いのである。
今回は前回の轍を踏まぬように、事前に「煤払い」を断行した。
かつてドクター佐藤はヴァン・ヘイレンの力を借りて、大量の衣類を「えいや」とゴミ袋に投じたそうであるが、私の場合はなにしろ家財の30%がゴミであり、ゴミを収納するためだけに3LDKの1室を明け渡していたので、「えいや」どころでは済まぬのである。
私は決してものを貯め込むタイプの人間ではない。
むしろ、できるだけものを持たないように心がけてきた人間である。
もとより「コレクション」と呼ばれるようなものは何一つ所持しておらない。
私が唯一コレクトしているのは山本浩二画伯のタブローだけである。
それだって7点しかない。
あとは何もない。
レコードもCDもDVDも段ボール5箱くらいに収まる。
私のような商売の場合はどなたも蔵書で苦労されるのであるが、私は本を持たないことをプリンシプルとしている。
蔵書はせいぜい4000冊程度である。
だから、私の家を訪れた同業者たちは書棚を一瞥したあとに一様に「で、あとの本はどこに?」とお訊ねになる。
これで全部ですというとみな絶句する。
「あなたはこのわずかな蔵書だけをネタに本を書いているのか?」という非難のまじった(というよりは非難が97%くらいの)まなざしで見つめられると私はあいまいに頷くのだが、実はその蔵書だって8割方は読んでないのである。
つまり実質1000冊ほどの蔵書だけをレフェランスに私の学的生活は営まれているのである(おまけにそのうち半分はマンガである)。
私はここに粛然とカミングアウトするが、私は「日本で一番蔵書の少ない学者」ランキングがあれば、間違いなくベスト100にはランクインされるであろう。
高校大学の頃に買った本は震災のあとにあらかた捨ててしまった。
捨てあとで「あれはどこだっけ?」と探して「しまった」と後悔したものもないわけではないが、それだって今のところ一冊だけであり、アマゾンでまた買うことができたからノープロブレムなのである。
にもかかわらず大量の家財に埋もれて暮らしているというのはどういうことなのであろう。
理由のひとつは人々が私の家を「パブリックスペース」として使う傾向があるということである。
私の家には雀卓が3つあり、麻雀牌が5セットある。
ワイングラスとビールグラスは50人でパーティができるくらいある(実際に47人でパーティをしたことがある)。
「こたつ」だって二個あった(和室が一個しかないのに)。
「置き傘」「置き皿」「置きタッパ」は売るほどあるし、「置き酒」は床が抜けるほどある。
もう一つは家財の量がある閾値を超えると、ゴミが幾何級数的に増えるという数理が存在するためである。
その理路は賢明な読者諸氏にはただちにご理解いただけるであろう。
「家財」はある段階で「ゴミ」になる。
使用価値に経年変化が生じるからである。
例えば、どのように質のよい衣類であっても、過去3年間一度も袖を通していない場合、引き続き二度と袖を通す機会がない確率は90%を超えるので、これはカテゴリー的には「ゴミ」に類別せねばならない。
だから、家財の使用価値の逓減について定期的に正確な評価を下していさえすれば、家財がゴミ化したときに適切に処分することができる。
家の中には有用な家財しか存在しない、というのは主婦の夢である(私の夢でもある)。
ところが家財が収納スペースに対して過剰になるとそれができなくなる。
それは、もっとも使用されない家財(つまり使用価値がゼロになりつつあるもの)が原理的に収納スペースのいちばん奥にしまい込まれているためである。
そして、恐ろしいことに、家財が増えすぎると、「収納スペースそのものにアクセスできない」という事態が生じるのである。
わが家の場合はだいぶ前から(2年ほど前から)収納スペースのドアを開くためには、かなりの量の家財を移動させなければならないという危機的水域に達していた。
当然、本来の収納スペースの中にはすでに経年的に「ゴミ化」した家財がぎっしり詰まっている。
そこに収納すべきそれよりゴミ度の少ない家財がスペースの手前に位置し、もっとも有用性の高いものがいちばん手前に位置するという地政学的配置になる。
「あ、今日はゴミの日だ!」と朝、ねぼけ頭で納戸を開いたときに、ゴミとして処分すべきものに到達するためには相当の努力が要されるという場合に、二日酔いの中年男がエプロンをかけてさくさく掃除を始めるということは考えにくい。
少なくとも私はそのような行動をとることができなかった。
ともあれ、そのようにしてわが家は「家財の30%がゴミ」という状態になったのである。
引越を機に、それらを一斉処分できることはまことに欣快の至りである。
朝はまず電話回線の工事立ち合いのために新居に。
それから家に戻って荷造り。
三宅接骨院帰りのタムラくんが手伝いに来てくれたので、タムラくんを相手に駄弁を弄しつつ本をどんどん捨ててゆく。
午後2時にSightの編集者が来る。
参院選の総括について取材。
自民党はどうして後継首相選びで党内闘争をしないのか、ということを申し上げる。
「安倍おろし」に対して「徹底抗戦」とことになると、メディアの注目は自民党に集中する。
新聞紙面もTVも「自民党の話」で持ちきりである。
黒塗りのハイヤーから降りてくる議員たちを記者たちが追いかけて争って談話をとろうとする。
全国放送の画面で自分の政治的意見を開陳し、自分の個性や才覚をアピールする絶好の機会である。
どうして彼らはその機会を利用しないのか?
自民党が後継者選びで内紛激化すれば、メディアは民主党のことなんか見向きもしなくなる。
次の総選挙のとき、有権者がその見識や雄弁について詳細に「知っている」のは自民党議員ばかりで、民主党の議員ではないというチャンスが目の前にぶらさがっているのに、どうしてそれを利用しないのか?
リアルに自身の総選挙対策を考えるなら、ここは「挙党一致」というような近視眼的な対応ではなく、「解党的危機」をアジテートして、「党の分裂をも辞さず」というような大法螺を吹き上げる方が有権者受けはいいに決まっている。
そうすれば次の総選挙は自民党圧勝である。
そういう悪知恵が働かなくなったというところが自民党の落日である。
そんなヨタ話をしているところに青山さんと平尾くんが引越助っ人に登場。
釈老師の朝カルを聴きに行く前にお立ち寄り下さったのである。
汗とほこりにまみれて2時間余。
みなさん、どうもありがとう。
シャワーを浴びて再び御影へ。
カーテンの採寸と書棚の見積もり。
終わって家に戻る。
もう鍋釜も調味料も片付けてしまったので、料理ができない。
お弁当を買ってきて、ビールで流し込む。
ラポルテで過ごすのも今日が最後。
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