朝三暮四とマッチポンプ

2007-06-28 jeudi

ひさしぶりの、ほんとうにひさしぶりのオフ。
10時近くまで寝てから、朝ご飯、お洗濯。
ブログに「めちゃモテ日本」論を書く。
これはひさしぶりにわくわくするビッグピクチャー(大風呂敷ともいう)。
続いて、文藝春秋specialのための「日本人と労働」の原稿を6枚書く。
グローバリゼーションというのは「朝三暮四」のサル頭になるということであるという話。
こういう故事については一応原典に当たって文言と解釈を確認する。
朝三暮四の出典は『荘子』である。
書棚から『荘子』を取り出して、「斉物論篇」を読む。
たいへんに面白い。
「朝三暮四」の前の頁に「天籟」の話が出ている。
古来きわめて難解とされた概念である。
こんな話。

楚の隠者に南郭子綦(なんかくしき)という人がいた。その弟子に子游という人がいた。
弟子に向かって師が言う。
「女(なんじ)は人籟(じんらい)を聞くも、未だ地籟(ちらい)を聞かず。地籟を聞くも天籟を聞かざるかな。」
注解によれば、人籟とは楽器が奏でる音楽であり、地籟とは風にざわめきたつ大地が奏でる音楽である。人籟、地籟は耳を澄ませばまあ誰でも聞くことができる。
しかし、天籟は簡単には聴けない。
どうやったら聞けるのでしょうかと子游は問う。
子綦はこう答える。
「夫(そ)れ万(よろず)の不同を吹きて、其れをして己(おのれ)よりせしむ。みな、其れ自ら取れるなり。」
洞窟に風が吹き込むと、あるときはすすり泣きのような、あるときは怒号のような「地籟」の音が生成する。
同じように、天籟とは人間のうち喜怒哀楽の感情を生成させる「何ものか」である。それは効果だけがあって、かたちをもたない。しかし、現に喜怒哀楽、悲嘆や執着の情が生じている以上、「其の由る所(原因)」がどこかにあるはずである。
『荘子』はそれを「真宰」(真の主宰者)と言い換える。
ひとりひとりの聴手ごとに聞かれ方が異なり、つよいリアリティをともなって私たちを揺さぶる「天来の音」がある。
それによって人間的意味は構築されている。
それは現実の音ではなく、聴き手の実存的な踏み込みを俟ってはじめて鳴り響く種類の「天来の音」なのである。
これって、二日ほど前に私自身が書いた話とたいへんよく似ている。
「おお、シンクロニシティ」
倍音論で荘子がシンクロするとは思わなかった。
「朝三暮四」というのはこんな話である。

サルを飼っている人がサルたちに「朝にとちの実を三つ、夕方に四つ上げよう」と言ったら、サルたちが激怒した。しかたがないので、「では、朝に四つ、夕方三つではどうか」と言ったら、サルたちは大喜びした。

難解きわまる天籟論の直後に出てくるのであるから、この逸話が「サルは計算能力がない」というようなお気楽な話であるはずがない。
天籟は「私」の世界への踏み込みによって、「私」と「世界」のあわいに生成する、私にだけ聞こえる音である。
サルは天籟を聞くことが出来ない。
どうしてか。
サルには「マッチポンプ」という概念がないからである、と言い換えてもよい。
サルは「朝の自分」が食べる「三つ」と「暮れの自分」が食べる「四つ」を足すことができない。
なぜなら、「朝のサル」と「暮れのサル」はサルにとっては別ものだからである。
「マッチポンプ」というのは「朝三暮四」のちょうど逆のつくりを持っている。
「今の私」と「未来の私」が同一人物であるということについての確信がなければできない。
しかし、よく考えるとわかるが、実際には「朝の私」と「暮れの私」は同一人物ではない。
朝の私が愛していた妻を(昼間に知り合った女性と電撃的な恋に落ちたせいで)暮れにはもう愛していないかも知れないし、朝の私の政治的意見は(昼間に見聞きしたニュースによって)暮れまでに一変しているかも知れない。
朝家を出たところで車に轢かれて死んでしまった場合には「未来の私」などというもの自体が存在しない。
別人を自分と取り違える能力こそ、人間だけに与えられ、サルが持ちえないものなのである。
私は先に「倍音というのは本質的に『マッチポンプ』である」と書いた。
自分がつけた火を自分で発見して驚いてみせる。
しかし、ここで「驚き」が成り立つためには、「自分が火を点けた」という原事実は抑圧されねばならない。
そうですよね。
自分で点けた火を自分で消したのでは、少しも誇らしい気分になれないからである。
「マッチポンプ」というのは「今の私」と「未来の私」は同一人物であるという「確信」と、その「否定」が同時に働かないと存立しえない機制なのである。
ややこしい話だ。
「火を点けた私」と「火を消す私」は同一人物であり、かつ同一人物ではない。
このようなややこしい事態をクリアーできる方法が一つだけある。
抑圧である。
トラウマというのは、抑圧しておかないと、それが私の自己同一性を破綻させることが「わかっている」ような心的過程についてのみ起こる。
抑圧されることは、言い換えれば、存在することがあまりにも自明であることに限られる。
それをさらに言い換えると(めんどくさくてごめんね)、何かを「存在することがあまりに自明」であると思わせるためには、それを抑圧しちゃえばいいのである。
経験的にたしかなように、何かが存在することを人に信じさせるもっとも有効な方法は「何かを隠すふりをすること」である。
隠す以上は何かがそこにあったはずだと私たちは推論するからだ。いくら探しても出てこなければ、巧妙に隠蔽されねばならないほど重大なものが「ある」ことについての私たちの確信はさらに深まる。
神が存在することを人に信じさせるもっとも有効は方法は「神は死んだ」と慨嘆してみせることである(「死んだ」以上は死ぬ前には生きていたということだからだ)。
抑圧もそれと同じ機能を果たしている。
抑圧というのは「存在しないものを存在すると信じさせるもっとも確実な方法」なのである。
「マッチポンプ」というのは「火をつけた自分」と「消した自分」は同一人物でなければ成り立たないし、「火を点けたのは私だ」という原事実を抑圧しない限り、「消火の功績」を心静かに享受することができない。
必ずここでは抑圧が働く。
抑圧されたことによって、「火を点けた私」と「消した私」は同一人物であるという信憑は無意識レベルでいっそう強化される。
「今の私」と「未来の私」は同一人物だという無意識的な信憑を強化すること、すなわち時間の中での自己同一性の確立こそが「マッチポンプ」型の行為の究極の目的なのである。
私たちは時間を超えて自己同一性を維持することがいかに困難であることを熟知しているがゆえに、「同一的である」という事実を抑圧することで「同一的である」という信憑を強化するというトリッキーな戦略を採用したのである(人間というのはまことにいろいろなことをするものである)。
サルの話がどこかへ行ってしまった。
労働というのは、本質的に「私ならざるもの」に対する贈与である。
だが、それは「私ならざるもの」が実は「私自身」であると勘違いしなければ成立しない。
私が贈りものをする相手は私自身である。
そう思わなければ人間は贈与しない。
しかし、自分で自分に贈与するのなら、してもしなくても同じじゃん、と思う。
たしかにそうである。
「自分の得になることしかしない」のだが、「してもしなくても同じ」なら何もしない。
人間というのはそういうややこしい生き物である。
これになんとか仕事をさせたい。
そのためには、「労働するということは、結局自分が自分に贈与していることなのだ」と信じさせ、かつその事実を隠蔽する必要がある(論理的にはそういうソリューションしかない)。
「贈与者と被贈与者は同一人物である」という信憑は抑圧されて、無意識レベルに押し込まれる。
抑圧された心的過程は必ず症状として回帰してくる。
それが「どういう訳だか知らないけれど、オレって、つい他人のために働いちゃうんだよね〜」という「病的行動」として徴候化するのである。
よくできている。
労働しない人間というのは、端的に言えば、このような抑圧が働いていない人間のことである。
彼にとって、自分は自分であり、未来の自分は他人であり、他人はもちろん他人である。
だから、労働する動機はゼロである。
働かない人間は「朝三暮四」のサルと構造的には同一である。
別にオレ「サル」でもいいよという人はどうぞそのまま楽しく「とちの実」を食べて人生(サル生か)をお過ごしになればよろしいかと思う。
別に「人間という病」に罹患しなければならない義理なんか、誰にもないんだしね。
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