倍音的エクリチュール

2007-06-22 vendredi

京都造形芸術大学のクリエイティヴ・ライティング・コースに呼ばれて特別講演を一席。
こちらのCW(めんどくさいから省略するね)は今年から芸術表現・アートプロデュース学科に出来た新しいコースである。
大学案内には

「大学教育では初めて〈書く〉ことに特化したカリキュラム編成で、作家、ライターを育成するコースです。まず言語力の伸長をめざし、現代日本語だけでなく、日本の古典や海外の名作を解読・解釈することを通して、言語における創造性と理解力の習得を目指します。より実践を重視し、実際に出版物を刊行します。文芸誌、総合誌の2つのタイプの異なる雑誌を立ち上げ、創作から編集まで、あらゆる方面で学生が参加できる体制を整えます。」

すごいですね。実際に雑誌まで出しちゃうんだ。
専任教員はお一人。アメリカ文学の翻訳で知られる新元良一(にいもと・りょういち)さんである。
CWはうちでも 2006 年度に私がナバちゃんといっしょに始めたばかりの教科だし、新元さんは柴田元幸さんともお友だちで(今日もこのあと東京で対談をするそうである)、専従職員の竹内さんは私の大学院の聴講生であるし、私の前に五月の特別講演をした講師は江さん。
またまた What a small world なのである。
土砂降りの雨の中、京都まで行って、40 人ほどのCWの第一期生さんたちを相手に「倍音的エクリチュール」について80分話す。
このところずっと脳裏から離れない「書くことで倍音を出せるか?」という問いを抱え込んで、みなさんの前でうんうん唸って苦しんでみせるという趣向である。
私自身まだ答えが出ない問いなのであるから、理路整然というわけにはゆかない。
あっちへよろよろこっちへよろよろ。
それでも途中からかなり問題の見通しがよくなってきた。
今書いている村上春樹論の書き下ろし核心部分はおそらくこの「倍音的エクリチュール論」になるはずである。
すでに何度も書いたことではあるけれど、改めて「倍音の不思議」についてまとめるとこういうことになる。

倍音というのは基本周波数の整数倍の周波数の音のことである。
合唱では聞こえるはずのない高音が「天から降ってくるように」聴取されることがあるが、これは倍音の効果である。
歌手が一人で歌う場合も、舌の位置を微妙に調整すると口腔内に同じ容積の共鳴空間を作り出すことができる。
こうするとかなりはっきりとした倍音が出る。
モンゴルには倍音を効かせたホーミーという民族歌謡があることはご存じの方も多いだろう。
本邦でも、「巫女系」の歌手は総じて倍音をうまく出すことのできるシンガーである(中島みゆきとか、ユーミンとか、美空ひばりとか)
倍音の不思議は、それが「天から降ってくるように聞こえる」という点にある。
どうしてかというと、同一音源から二つ以上の音が同時で聞こえてくるからである。
ところが、私たちの脳は「同一音源は一つしか音を出さない」ということをルールに聴覚情報を編制している。
私たちはこのルールに基づいて、周囲に渦巻く無数の音を適切に聞き分けて、それが「どこ」から来たものか判断する。車を避けたり、暗がりで目覚まし時計を止めたりできるのは脳がこのルールを採用しているおかげである。
だから、同一音源から二つ以上の音がする倍音現象は脳からすれば「ルール違反」なのである。
当然脳は「この二つの音は、それぞれ別の音源から出たものである」と判断する。
基音は歌っている人の喉や演奏している楽器から出ているのだが、倍音の源は「そこ」であっては困る。
私たちは別に困らないけれど、脳は困る。
だから、脳は倍音を「ここではない他の場所」から到来した音であると判断する。でも、「ここではない他の場所」なんて現実には存在しない。
倍音はそれゆえ原理的に「天使の声」として聴き取られることになるのである。
だが、倍音の不思議はそれにとどまらない。
倍音は現実音を素材に私たちの脳が作り上げた「どこでもない場所から聞こえる音」である。
だから、それが「何の音」であるかの判断も結局は脳が下すことになるのである。
私たちの脳はその習性として、それを必ず既知の音に還元する。
天から降ってくる透き通るような高音なのであるから、キリスト教徒であれば、それは「天使の声」に聞こえるであろう。
仏教徒の耳には「読経」の声に聞こえるかも知れないし、「梵鐘の音」に聞こえるかも知れない。
つまり、倍音は「出所不明の音」であるがゆえに、それぞれの民族文化において因習的に「天から聞こえるはず」と思いなされている音に同定されてしまうのである。
倍音を聴き取った人がいわくいいがたい感動にとらえられるのはそのせいである。
聴き手は自分の脳が作り出した音に自分で感動している。
古い言葉を使って言えば、倍音による感動というのは「マッチ・ポンプ」なのである。
だが、自分で火をつけるほど確実に火事を起こす手だてはないし、自分で点火した火事を消し止めることほど簡単なことはないという理屈からすれば、「マッチ・ポンプ」こそは「火事と消火」活動における理想なのである。
たいせつなのは、通常の「マッチ・ポンプ」活動においては、放火をしてから消火活動をする人間は自分がそれをやったことを知っているが、倍音聴取の場合には、倍音を聴きながら「自分が聴きたい音を想像的に作り出して、それを選択的に聴いている」ことを聴き手自身は知らないということである。
喩えて言えば、夜中に夢遊病状態になって翌日の朝ご飯を作ってしまう人のようなものである。
彼は毎朝目覚めるたびに「自分が今もっとも食べたいと思っていた当のメニューの朝ご飯」が食卓に準備されていることに驚愕する。
彼はそれを「こびとさん」が夜中に作ってくれたものだと信じている。そして、「ああ、なんて美味しんだ。こびとさんありがとう!」と天に感謝することになるのである。
この場合の難点は彼が「料理ができないやつ」だった場合は、いかなる感動ももたらされないということである。
おそらくそれと同じ難点は倍音聴取の場合にも起きているのであろう。
世の中には倍音を聴き取ることのできない人もいる、ということである。
物理音としては存在している空気振動なのであるから、それが感知できないということではない。
そうではなくて、それを「天上の音楽」に同定できるような、因習的「天上」像を持っていないということである。
当然にも、「天使」というような概念をそもそももたない人間は「天使の声」を聴き取ることができない。
だから、倍音経験の質はひとりひとりの人間がどのような「霊的成熟」を果たしているかによっておそらく一義的に決定される。
私は音楽に限らず、あらゆる芸術的感動は倍音経験がもたらすのではないかと考えている。
文学の喜びもまた倍音の喜びなのである。
私たちはそこに「自分が今読みたいと思っている当の言葉」を読み当てて、感動に震えるのである。
「これは私だけのために書かれ、時代を超え、空間を超えて、作者から私あてに今届いたメッセージなのだ」という幸福な錯覚なしに文学的感動はありえない。
そして、ある種の作家たちは(ホーミー歌手がそうであるように)、文学的倍音を出す技術を知っているのである。
国内外の批評家の中に村上春樹の文学がどうしてあれほどの文壇的孤立にもかかわらず、世界的ポピュラリティを獲得しえたのか説明できた人はまだ一人もいない(と思う)。
少なくとも私に納得させてくれた人はまだ、いない。
私はそれをご説明したいと思う。
彼は倍音を出すのである。
それがいかなる技術であるかは今秋発行の私の村上春樹論『雪かきくん、世界を救う』(勝手に改題)に就いて読まれよ。
これはカッキ的文学論である。
読めば、びっくり。
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