CS minded teacher

2007-06-21 jeudi

火曜日の大学院ゼミに浜松のスーさんが来る。
大学聴講生第一期生のスーさんがこの教壇で発表をするのは4年ぶりのことである。
公立学校の教育現場からの、たいへんリアルな、そして困難な問題提起がなされた。
そのときにその困難な問いへの解決の糸口として話したことと同じようなことを翌日は三菱東京UFJ銀行のCSマインドセミナーでも話すことになった。
CSってご存じですか?

Customer Satisfaction

「消費者の満足」のことである。
これをCS本は「顧客第一主義」とか「顧客中心主義」というふうに訳している。
それは違うだろうという話から始める。
教育の現場でもコンサルの諸君は「大学教職員もCSマインドを持て」というようなことを言い募っている。
これからはお客様である志願者や保護者のニーズを第一に配慮して・・・
でもさ、そういうことを言っている当のコンサル諸君は、キミたちの「お客様」であるところの大学人を「第一に配慮」なんかしてないじゃないか。
「食い物」にしているだけでしょ。
自分がやる気もないことを他人に要求するというのはよくない。
「顧客のニーズ」がもし定量的・定性的に把握できるものであって、それにどんぴしゃでジャストフィットするサービスなり商品なりを提供できたら、それで100%ハッピーで生産的な取り引きが成立するというふうにもし考えているひとがいたら、それはビジネスマンとしては幼稚園児レベルである。
「顧客のニーズ」なんか、あらかじめ存在するものではないからだ。
さきほど新聞を読んでいたら、コムスンがらみの記事に「介護を必要とする人間のニーズに対してどうして介護現場で細やかな配慮ができないのか」ということが書いてあった。
だが、この場合の「介護ニーズ」も「介護現場」も「あらかじめ存在するもの」ではない。
介護保険という制度ができて、それから利益を得る介護ビジネスというものができ、介護テクノロジーが開発され、介護技術というものが体系化されてはじめて「介護ニーズ」や「介護現場」が登場したのである。
ニーズは「ニーズを満たす制度」が出現した後に、事後的にあたかもずっと以前からそこに存在していたかのように仮象する。
どれほど本人にとってリアルであっても、それを指し示す言語記号や、それを満たす社会的装置が存在しないような欠如は「欠如」としては認知されない。
ニーズはそれを満たす商品やサービスを提供するサプライヤーの側が創り出すものである。
大学院では「子どもたちの学びへの動機づけ」が主題であった。
「学ぶことへのニーズ」である。
もちろん、そんなものは自然現象として子どもたちの中には存在しない。
多少は存在するかも知れないけれど、「学ぶことへの欲求」というようなクリアカットな輪郭を持っていない。「食べることへの欲求」や「遊ぶことへの欲求」とごちゃまぜになってうごめいているだけである。
この欲求だけを選択的に分離し、記号化し、そのような「ニーズ」が子どもたちの中に存在することに気付かせるのはサプライヤーの仕事である。
だが、どうやって気付かせるのか。
それは『先生はえらい』以来何度も繰り返し書いているとおり、教師自身の内側で「学ぶことに対する欲求」がいきいきと活動していることである。
子どもたちはまだ記号を発明する力がない(やがて身につけるけれど)。
子どもはすでに熟練した日本語話者である母親からの語りかけを通じてはじめて母語を習得する。
それと同じように、「学ぶことに対する欲求」は「学ぶことへの欲求」を現に生きている教師からしか学ぶことができない。
もし、子どもたちに学びを動機づけたいと望むのなら、教師自身が学ぶことへの動機を活性的な状態に維持していなければならない。
教師自身がつねにいきいきと好奇心にあふれ、さまざまな謎に惹きつけられ、絶えず仮説の提示と反証事例によるその書き換えに熱中していること。
それが教育を成立させるための条件である。
もちろん、世の中にはそうではない教師もたくさんいる。
けれども、だからといって少しも心配するには及ばない。
彼らもまた自分が「いきいきとした好奇心を失ったこと」「謎に惹きつけられなくなったこと」「仮説の提示と書き換えへの意欲を失ったこと」については、誰よりもよく自覚しており、それを存在を腐食させるほどの痛みとして生きているからである。
現に、一切の教育的情熱を失いながら、毎日上機嫌で仕事をさぼっている教師というものをあなたは見たことがないはずである。
少なくとも私はない。
教育的情熱を失った教師の「私は『教育的情熱を失った教師』です」という自己申告のオーバーアクションには驚嘆すべきものがある。
暗い表情、生気を失った肌、乱れた頭髪、なげやりな服装、重い足取り、虚無的なことば・・・そのすべてが「学びへの動機づけを失うことがどれほど人間にとって悲痛なことであるか」を全身で表現している。
彼らは彼らなりの仕方で、子どもたちに「学ぶことへの欲求」を失うと人間はどうなってしまうのかを教えているのである。
漱石の『こゝろ』に出てくる「先生」はその好個の適例である。
「私なんかのところに来ても、何も学ぶものはないよ」という「先生」の言明はそれにもかかわらず「私」にとって教育的に機能する。
それは、「この人はかつて激しい学びへの欲求に灼かれたことがあり、ある日それを失って廃人同様になった。どのようなときに人間は学ぶ情熱を失うのか。私がこの先生きる上で決定的に重要なその問いの答えをこの人は知っている」と「私」が考えているからである。
もし「先生」が学ぶことへの動機を失った後も以前と変わらず愉快に暮らしていたら、「先生」は少しも教育的に機能しないであろう。
「先生」が学ぶことへの動機を失ったあとも引き続き「先生」でいられたのは、学びへの情熱を失ったことがどれほど耐え難い苦しみであるかを全身で表現していたからである。
「私のような人間から学ぶものは何もないよ」という言明は、「どうしてこの人はこれほどの確信をもってこれほど絶望的な自己卑下の宣告をなしうるのだろう?」という深甚な疑問のうちに子どもたちを引きずり込む。
そのときすでに子どもたちのうちでは「学びへの欲求」が活発に動き始めているのである。
先生は「先生であろう」とするときにすでに先生であり、「私はもう先生ではない」と宣言したあともまだ先生である。
「学ぶ」とはどういうことか、「教える」とはどういうことか、自分は果たして今も学んでいるのか、自分にはひとに教える資格があるのか・・・そういった一連の問いが念頭から離れることのない人間は、それだけですでに教師の条件を満たしている。
「学びへのニーズ」などというものは自存しない。
「学びへのニーズ」とは何か、それはどのようにして生まれ、死ぬのか、ということを専一的に考え抜く「私」が登場した「後に」子どもたちのうちにそれは生まれるのである。
だから、もしその語の厳密な意味でのCSというものがあるとすれば、それは「私第一主義」「私中心主義」の効果としてしか存在しない。
というようなことを銀行員たちの前でお話しする。
この男はいったい何をしゃべっているんだ? どうしてこんな男の話を聴くために私たちは終業後の貴重な時間をこんなところに坐っていなくてはいけないのか? いったい支店長はどのようなメッセージを伝えるための媒介としてこの男を招いたのか・・・あああ、わからないよ〜という声にならない悲鳴がラポルテホールに充満するのを後に、私は脱兎のごとく家に逃げ帰ったのである。
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