風邪がようやく治り、週末は東京合気道&パブリシティツァー。
土曜日は例年のように全日本合気道演武大会へ。
第45回であるが、私はたしか連続31回目の参加である。
1977年から休みなく出ている。
一度始めたことはやめられないとまらない「エビセン体質」なのでこういうことになるのである。
参加者の大半が生まれる前から武道館に出ているのである。
なかなかできぬことである。
今回は前日まで風邪であったけれど、土曜の朝起きたらほぼ治っていた(まだ多少鼻づまりがしたけれど)。
ドクター、飯田先生、ウッキー、タニオさん、健作さん、キヨエさん、社長と新大阪集合組は新幹線で遠足気分で東京へ。
うちのイベントはすべて「現地集合・現地解散・自己決定・自己責任」である。
自己決定・自己責任論について著作ではきびしい批判をしているウチダであるが、自分が主宰する団体では遅刻してくる人間を待つのがイヤなので(私が「日本一のイラチ男」だからである)、集合時刻のみ決めて、「誰が」そこに来るのかについては事前のリサーチをしないのである。
だから、時間になって「さあ、出発だ」と私が宣言したときに、「センセイ、ヤマダくんがまだですけど」というようなことは起こらない。
その場にいないヤマダくんは「いるはずなのにいない」のではなく、端的に「いない」からである。
その私の非情なプリンシプルが徹底しているせいで、門人たちには「センセイは私たちをすぐに見捨てる」ということが周知されており、「ならば私たちだけで助け合って生きてゆきましょうね」という美しい相互扶助の精神が涵養されているのである。
それでよろしい。
武道館にゆくと続々とメンバーが集結。あるものはヒコーキで、あるものは深夜バスで、宿もそれぞれの趣味と経済状態に合わせてばらばらであるが、とにかく集合時刻に武道館の演武者控えにいればよいのである。
今回の演武者は29名。過去最高である。
60畳が狭く感じるほどである。
みなさんお疲れさまでした。
1分半の演武が終わって、あとはのんびり演武を拝見するだけ。
シンクロナイズド合気道の極致、広島のS農業高校の演武に全員のけぞる。
ここはなんと前受け身をしながらパートナーチェンジをするという誰も思いつかなかった新機軸を発見したのである。
今年度の幹部にコレグラフの才能豊かな人がいたのであろう。
なんとなく合気道の本筋とは違うような気がしないでもないけれど、稽古の方便として、精度の高い動きを工夫するのは悪いことではない。
高校生がシンクロナイズド合気道だけになっては困るけれど。
演武会終了後、恒例の九段会館屋上ビアガーデンにおける多田塾懇親会。
早稲田大学合気道会の諸君は「はしか」で休校中なので、隔離テーブルでビールを飲んでいる。
はしかは空気感染なので、1メートル離れたところでビールを飲んでいるくらいのことでは意味がないのであるが、ネタであるから、みんなで早稲田の子たちに遠くからエールを送る。
多田先生をお見送りしてから、例年のごとく、気錬会の諸君とつれだって二次会に神田すずらん通りへ。
例年のごとく、工藤くんとディープな合気道談義に耽りつつ、気錬会の今年度幹部の箕浦くん、小出さんと親睦を深める。
副将の小出さんはユーミンが「天気雨」に歌ったあの相模線沿線住人である。
茅ヶ崎市歌としてひろく市民に愛唱されているのかしらと思ってお訊ねしたが、小出さんはその歌をご存じなかった。
八王子から湘南のサーフショップまでユーミンが男を追ってゆく歌なのだと説明をするが、それがどうして茅ヶ崎市歌にならねばならないのか、その理路は私にもよくわからぬ。
翌日快晴の東大五月祭へ。
私は在学中は五月祭には一度しか行ったことがない。
大学一年生のとき空手部員はダンパの警備に動員されたのである。
「警備」という腕章を巻いただけで、仕事もせずにダンパの会場で女子大生をナンパしていたのであるのが、そのときに私にナンパされたという元女子学生から近年メールをいただいた。
「もしかして、ウチダさんは1970年の五月祭のダンパのときにナンパしてませんでしたか?」というお訊ねである。
「私はそのときにナンパされかけた女子学生ですが、友だちから『あれはウチダタツルというワルモノだから、気をつけなくちゃダメよ』と言われ、『タツルって珍しい名前だな〜』と思ってそれから35年覚えていたのです」ということであった。
大学にはいってまだ1ヶ月ほどなのに、私は「ワルモノ」として他大学の女子学生にまでその名を知られていたらしい。
いったい1970年当時どのようなディープな都市伝説が流布していたのであろう。
演武会のある七徳堂はその五月祭の夜に酔っぱらって、アキラと二人で空手部の部室で夜明かしをした懐かしい場所である。
その演武会でウッキーと石田さんとPちゃんをぶんぶん投げて汗をかく。
五月祭の演武会では二日酔いで演武することが多いのであるが、今年は前夜お酒控えめで寝たので、快調である。
多田先生の説明演武を拝見したあと、アメリカ帰りの北澤くん(三年ぶりくらいだな〜)といっしょに多田先生のお供をしてお蕎麦を食べる。
先生をお見送りしてから私は矢来町の新潮社クラブへ。
養老先生との対談本『逆立ち日本論』のパブリシティのために産経新聞、読売新聞、ENGINEと3社の連続インタビュー3時間半。
ENGINEのインタビュアーは矢作俊彦『スズキさんの休息と遍歴』のあのスズキさんである。
わお、「ほんもののスズキさんだ」と興奮してしまって、ついインタビューしてしまう。
伝説通りにスマートで過激な紳士である。
こちらのテンションも異常に上がってしまい、わけのわからないことを口走る。
インタビューのあと写真を撮られる。
スズキさんは「ウチダさんは笑っちゃダメ。怖い顔して」と注文をつける。
注文通りにカメラを睨みつける。
「『冗談じゃねーぞ』っていう感じで」
と言われて、「ジョーダンじゃねーぞ」とさらにガンを飛ばす。
うん、いい感じ。
「ウチダさん、眼から知性だして!」
とさらに無理な注文を。
眼から知性ってどうやって出したらいいんですか。
--------
(2007-05-28 09:30)