明日は明日の風邪をひく

2007-05-25 vendredi

げほげほ。
風邪がまだ治らない。
ごろ寝をしながら、『映画秘宝』と『文藝春秋』を読み、そのままいぎたなく昼寝。
気分は悪いが、よい気分である。
矛盾しているようだが、そういうものなのである。
昼寝から起き出して、寝汗を拭う。
『子どもと体育』という雑誌から頼まれた「身体の感受性を育む体育」という原稿の締め切りがあったので、咳き込みながら書く。
律儀な男である。
『文藝春秋』に送った「昭和人論」は、「論旨がよくわからない」と戻されて来た。
書き直しである。
締め切り間際に書き飛ばしたせいで論旨不明瞭になったわけであるが、あと1週間延ばしてもらえるなら、最初からそう言ってくれればよいのに。
私のように決して(ほとんど、たいてい、しばしば)締め切りを破らない人間に対しては、「ほんとのデッドライン」を示して欲しいものである。
dead line というのは「死線」である。「それを越えると射殺される線」である。
現行の「締め切り」というのは、はるかに微温的な、いわば「予鈴」のようなものである。
私は「予鈴で着席する」学級委員みたいな子なのである(そんなものは当今の学校には存在しないであろうが)。
しかたなく、この原稿も直す。
吉本隆明のことを書くなら、江藤淳のことも書いてくれという編集者からのメモがついていた。
よい着眼点である。
だが、江藤淳の本がどこにあったか。あちこち探すのは面倒である。
書棚を一瞥すると、『成熟と喪失』が目に入った。
おお、これはジャストフィット。
ぱらりとめくるとちゃんとキモのところに赤線が引いてある。
「このフレーズをいずれ私は引用することになるだろう」と思って引いたのである。
「ありがとう」と過去の私に片手拝みをして、そのまま引用。

夕方になると少し気分がよくなる。
風邪というのはそういうものである。
夕方になると気分がよくなり、朝方に最低の気分になるのである。
この日変化は鬱病と同じリズムである。
『ホテリアー』の4巻を借りにゆく。誰かが借り出している。
何も私と同時期に『ホテリアー』のような古ネタを見始めることはないだろうに。
しかたがないので町山さんご推奨の『ジャッカス ナンバー2』を借りる。
雲古と叱呼とお尻とザーメンとオナラとゲロを見て、大の男たちがげらげら笑い続けるという究極のバカ映画である。
それにしてもこの男たちの命知らずぶりには驚愕する。
口に釣り針を通して(「イテテ」と言いながら、ほんとにズブリと頬に巨大釣り針を通しちゃうのである)、「人間餌」となってメキシコ湾に放り込まれた男を鮫の群れが追ってくる。
がぶがぶと噛みついてくる鮫を「ひぇ〜」と足を縮めてよけたり、踵でキックしたりして、遊んでいる。
正気とは思えない。
リーダーのジョニー・ノックスヴィルの「命知らず」ぶりはその中でも際だっている。
牛の群れに追いかけられながらMCをし、牛の角で空中に放り上げられながら、アナコンダに腕をがぶがぶ囓られながら、げらげら笑っている。
しかし、この人の「牛の角」をよけるときやアナコンダの頭をつかまえるときの身体のさばきのしなやかさは武術的に見ても常人のものとは思われない。
絶対に「避けない」のである。
まっすぐ正対して、目標を正中線上に保持して、微妙なボディ・コントロールで急所をかわすのである。
動きそのものは「ゆっくり」に見える。
でも牛の角はノックスヴィルには刺さらない。
武道的に言うと「起こりのない」動きである。
感心したのはデモ隊撃退用の4000個のゴム弾を生身で受け止めるやつ。
三人並んで被弾するのであるが、あとの二人は激痛で転げ回っているのに、Tシャツにサングラスで素手のノックスヴィルは平気な顔をしている。
どうも秒速何十メートルという速度で飛んでくる無数のゴム弾を、身体を微妙にくねらせてよけたらしい。
こういうことは意識的な身体操作ではできない。
潜在意識が行うのである。
植芝盛平先生は飛んでくる銃弾をよけられたそうである。
ジョニー・ノックスヴィル恐るべし。
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