街場の中国論もうすぐ発売

2007-04-27 vendredi

『街場の中国論』の販促活動がフライング気味に進行している。
水曜には140Bのボス、「中島淳」と書いて「なかじまあつし」と読むナカジマ社長がミシマくんとミシマ社のホープ営業のワタナベくんを引き連れて大阪の書店めぐりをした。
この本を大ヒットにする戦略を書店サイドと協力して起案されているそうである。
140B的にはそれがどういうビジネスチャンスになるのかわからないけれど、おそらくナカジマ社長の頭の中では算盤が高速回転されているのであろう。
『街場の中国論』が書店サイドからもそれだけ期待されているというのはうれしいことである。
みなさまのためにここで「あとがき」をご紹介しておこう。

最後までお読みいただいてありがとうございます。
いかがでしたでしょうか。『街場の中国論』。
書いた本人が言うのも何ですけれど、読み返して見て、ひさしぶりに面白いものを読んだなあという満足感を覚えています。
「まえがき」にも書きましたけれど、この本はお二人の中国人のゲスト聴講生以外は「中国の専門家が一人もいない大学院生たち」が集まって、わいわいと議論したときに私が思いつき的に口走ったことを素材にして、そのあとに調べたことを多少書き加えてみたものです。
「中国問題の専門家が一人もいない」というのがよかったのだろうと思います。中国問題の専門家の方には申し訳ないですけれど、専門家の方々はどうしても「ピア・レビュー」(同業者による査定)をつねに念頭に置いてお仕事をされています。「これほど重要な資料にあえて言及されていないのはどういう配慮によるのであろうか」とか「その理説はすでに 30 年前に完膚なきまでに論破されたことをまさか失念されたとは思われないが」とか、まあ、そういう「つっこみ」が必ずあるわけですね。そういう「つっこみ」に対してきちんとガードを張ることはもちろんたいせつなことであろうとは思うのですが、素人からすると、そういう「揚げ足をとられぬように脇を固める」というような防災仕事に時間とエネルギーを割くのはなんだかもったいない気がします。それだけの専門的知見がおありになるなら、それを縦横に駆使して、素人が絶対に思いつかないような中国論の「ビッグピクチャー」を描いてはいただけないものか・・・という不満が私には(ちょっと)ありました。
かつては白川静先生や吉川幸次郎先生のような、頬がほてるような知的高揚をもたらす中国研究をなされた学者はいらしたわけですけれど、それに準じるレベルの中国研究を私は久しく読んだ記憶がありません。むろん、私が無知なだけかも知れません。でも、「・・・の中国論、読んだ?」というような話題が大学の同僚たちとの間で盛り上がっていたというようなこともこのところなかったようですし。
とにかく、こちらは素人ですから、専門家に何を言われても「あ、そうですか。すみません」でおしまいです。別にそれによって「バカ」の烙印を押されても、何の実害もありません(だって、中国研究で飯喰ってるわけじゃないから)。そのような「素人の気楽さ」がこの本には横溢しております。
そんなふざけたことが許されてよいのか、とお怒りになる方もおられるかも知れませんけれど、私は中国研究の専門家が余技に専門外の「レヴィナス研究」を書かれても、「武道論」を書かれても、絶対に怒ったりしません。それで「トレードオフ」ということにしていただけませんでしょうか。だめですか?
私は自分が読みたいものがないときは「自分で書く」ということにしております。武道論でも教育論でも映画論でもユダヤ人論でも、「こういうことを書いた本が読みたいなあ」と思ったときは面倒がらずに自分で書くことにしています。
2005年の春には「日中の世界像の〈ずれ〉を中心的な論件にした中国論が読みたい」と切実に思っていたのですが、残念ながら注文通りの本が見あたらず、しかたがないので、大学院の「比較文化」の演習で一年間そのことばかり話していたのでした。
この中国論は「私に読ませるために書いた本」ですから、私が読んで面白いのは理の当然です。
そんな自己満足的な本は読みたくないねと思う方もおられるかも知れませんが(でも、「あとがき」まで来てしまったということは、心ならずも読み終えてしまったということですね。申し訳ありません)、私は読者としてはたいへん注文の多い人間で、たぶん平均的読者のみなさんよりはこの本についての要求水準はずっと高いと思います。
なにしろ、「私がすでに知ってることを書いたら許さない」というのが条件なんですから。
だから、この本の「面白いところ」(私が「面白い」と思ったところと、みなさんが「面白い」と思ったところは、だいたい同じだと思います。そうだといいんですが)には「私が知らないこと」が書いてあります。
「私が知らないこと」というと誤解を招きそうですけれど、この本を書く前から私が知っていたことは、私自身が改めて読まされても「面白い」という反応をすることはは原理的にありえません。また、この本を書く過程で私自身にしっかり血肉化してしまったことも、今となっては「そんなの当然だろ」と思ってしまうわけですから、やっぱり面白いはずがない。ということは、私にとって「面白い」箇所は、書く前にはそんなことを考えたことがなく、書き終わったあとは忘れてしまったこと、ということになります。論理的にはそうですよね。書いている最中に「ふっと」思いついて、ごりごり書いて、そして書き終わって「やれやれ、風呂にはいってからビールでも飲むか」と思ったと同時に忘れてしまったこと。つまり、今読むと「誰か他の人が書いているように思えること」だけが「面白い」という反応をもたらす箇所だということになります。
そういう箇所がこの本にはけっこうたくさんあります。
理由の一つはこの本の大部分は、ブザンソンのホテルの一室に二週間こもってこりこり書いていたものだからです。外国の街の、(夕方になってブルノくんが「センセイ、合気道のお稽古に行きましょう」と誘いに来るまで)訪れる人とてないホテルで書いていたという特殊な事情が与っているはずです(ブルノくんは 10 年ほど前からの私の合気道弟子であるブザンソンの青年です)。そういう種類の集中がもたらす「憑依状態」の中で書いたことは、どこか「外部」から到来した声のような気がします。そして、どんなテクストについても、歳月が経ったあとに、なお腐らずに残るものがあるとしたら、そういう「外部からの声」を書きとどめておいた箇所だけではないかとも思うのです。あと10年くらいして、この本を読み返してみたときに、どの箇所が「腐らずに」残っているか、それを確かめることができます(全部腐って使い物にならなかった・・・という可能性も払拭できませんけれど)。とりあえず、本書をお買い上げになったみなさんは、10年後にもう一度開いてみてくださるようにお願いをいたします。
最後まで読んで下さってありがとうございました。三島くんとの二人三脚の「街場シリーズ」はこのあとも(どちらかが音を上げるまで)続く予定です。次は「街場の教育論」、その次は「街場の家族論」です。そちらもどうぞよろしくお願いします。

5月中頃には書店に並ぶはずである。みなさん買ってね(と書いたあとにミシマくんからメールが来て、書店に並ぶのは6月初旬の由。あと1月待ってください)
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