シンガポールの悩み

2007-03-30 vendredi

朝からの会議は英語セッション。
英語を話すのが苦手である。
英語を話すと、善良で頭悪そうな人間になるか、狭隘で攻撃的な人間になるか、どちらかだからである。
ふだん日本語を話しているときの、「表面的にはディセントだが、言葉の奥に邪気がある」というダブルミーニングの術が使えない。
「隔靴掻痒」とはこのことである。
論じられている問題については、公的にも私的にもぜひ申し上げねばならぬような知見があるわけでもないので、2時間半黙って坐っている。

午後から講談社FRAUの取材。
若い女性が三人でやってくる。
お題は「ダイエット」なのであるが、ひろく身体一般について語る。
今度は1時間半ほどノンストップでしゃべりまくる。
聴き手が若い女性のときは学生相手に無駄話をしているときのようなカジュアルな気分になってしまうので、話はあちらへ飛び、こちらへ逸れ、話頭は転々として奇を究め、約しがたいこと常の如しなのである。

夕方からは今年度最後の合気道の学内稽古。
永山主将は16代主将として最後の受けを取るので、記念にビデオをセットしている。
松田先生も15代主将の白川さんも現役として岡田山ロッジで稽古する最後の日である。
みなさん、長い間ありがとう。お疲れさまでした。
稽古の最後に合気道部へのみなさんの貢献に感謝して拍手を送る。
こうやって毎年三月に卒業生を送り出してゆく。
あと4年後には私が送り出される番である。

毎日新聞の「経済観測」は私の愛読するコラムであるが、そこにシンガポールのことが書いてあった。
シンガポールはご存じのとおり、旧英国植民地の華人国家であるが、東南アジアの経済の中心地であり、国民一人当たり所得は30000ドルを超えて旧宗主国を上回った。
しかし、このシンガポールにも悩みがある。
それは「文化と伝統がないこと」であり、コラムによると、「その最大の原因は言語を失ったことにある」。
もともとシンガポールに来た華僑たちは故郷の福建や広東の言葉を話していた。けれど中国語の方言はお互いに通じない。しかたがないので、ビジネストークは英語と北京官話でなされた。
結果的に、家庭内でさえ祖父母と孫の間でのコミュニケーションが成立しないことになった。
そうやって父祖伝来の文化と伝統が断絶しつつある。

「高層ビルや高級ブランドショップが並んでいても、文化とはいえない。シンガポールは文化振興のために外国から高給で演奏家を招いてオーケストラを作ったりしているが、欧米や日本のオーケストラほどの水準に達しておらず、独自の雰囲気にも欠ける」

たしかにある種の文化は金で海外から買えるだろう。
でも、自分がいま暮らすこの風土との深く、暖かい「親しみ」は金で買うことができない。
そして、国民国家の場合、国民のオーバーアチーブを動機づけるのは、しばしばこの(あまり根拠のない)「親しみ」の感覚なのである。
コラムはこう結論している。

「シンガポールは失った言語を取り戻して文化と伝統を復興しなければならない。これは短期的には成長を阻害するとしても、人工国家が真の国家になるためには不可欠だろう。」

私は別に「ねばならない」とは思わない(それほどシンガポールに親身にならなければならない義理もないし)。
けれども、「人工国家」がある種の脆弱性をはらんでいること(それが技術革新の遅れや、ある種のモラルハザードをもたらす可能性)についてはコラムニストに同意する。
それは先日会って話を聴いたシンガポール支局帰りの新聞記者の話とも符合する。
シンガポールは安倍内閣の「愛国心強化」路線に熱い視線を送っている東アジアでも例外的な国である。
それは「愛国心の高揚」がシンガポール政府にとって喫緊の政治課題だからである。
シンガポール国民には「愛国」というときの「国」の対象が具体的ではない。
シンガポールには「ランドマーク」といえるようなものが特にない(「世界三大がっかり」マーライオンでは「国民統合の象徴」にはならないであろう)。
だが、国民的統合を情緒的に下支えしているのは実は「兎追いしかの山」や「夕焼け小焼けの赤とんぼ」が歌う幻想的な風土である。
「故郷の山河とその生活を守るためなら死んでもいい」という種類の熱価の高い愛国心が高揚するのは、その前提に「それが一度失われたら、もうどこにも代替物がない」という「とりかえしのつかなさ」についての確信があるからである。
シンガポールの場合、「一度失われたら取り返しがつかない」ような種類の風土や文化や伝統の「原点が存在する」という確信が国民的規模では共有されていない。
高層ビルや外国人ばかりのオーケストラやヴィトンのショップやスターバックスがなくなっても、それに涙するシンガポール人はいないであろう(たぶん)。
おそらくそのせいで、国民があまり「愛国的ではない」ことにシンガポール政府は危機感を抱いている。
そのために「シンガポールを愛しましょう」という大々的なキャンペーンが政府主導で行われているのだそうである。
けれども「愛する対象」がなかなかみつからない。
「国民一人当たり所得30000ドル」というような数値は、それだけでは国民統合の軸にはならない。
国語が英語と北京官話で、街並みはグローバライズされているし、どこにもシンガポールは「ここから誕生した」という「揺籃の地」はない。
シンガポールのもう一つの悩みは軍隊が国内にいないことである。
あまりに国土が狭くて、軍隊を置く場所も演習のためのスペースもないのである。
だから、陸軍と空軍はオーストラリアとアメリカに常駐している。
シンガポールが他国から侵略された場合にはオーストラリアからシンガポール空軍機が「迎撃」するために出動しなければならない。
だいぶ時間がかかりそうである。
陸軍が防衛ラインに到達するまでにはもっと時間がかかる。
これでは、「私たちは何を守り、何を伝えるためにシンガポール国民であるのか?」という根本的な疑問がシンガポール国民にときおり兆すことを止めるのはむずかしいであろう。
世の中にはいろいろな悩みがあるものだ。
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