クールなメディア

2007-03-17 samedi

カウンターを見るともうすぐ899万である。
今日明日中には900万に到達するであろう。
となると、次は1000万である。
だいたい一日1万アクセスであるから、100日後、6月くらいには大台に乗る計算になる。
1000万アクセスという累計もびっくりだが、一日1万という数にもよくよく考えるとびっくりである。
一日1万ということは一月30万。
月刊誌で30万部売れているものはごくわずかしかない。
文芸誌なんて月刊5000部くらいである。
すごいね。
ただ、この30万は同一読者が繰り返しアクセスしているので、実数はずっと少ない。
それでも、同一読者が継続的に個人ブログに書かれているコメントを読み続けることは、読者の情報判断や使用語彙に微妙な影響を与えずにはおかないであろう。
学術雑誌については「インパクト・ファクター」というものが掲載された論文の被引用回数に基づいて算定される。
個人ブログでも世論形成にかかわる「インパクト・ファクター」の算定はある程度までなら可能だろう(そんな面倒なことは誰もやらないけど)。
ときどき、このブログは世論形成にどれくらいコミットしているのであろうか考える。
多少は関与しているのであろうが、評価基準がないから、わからない。
わかることがひとつある。
それはパーソナル・メディアは「クールなメディア」になる可能性がマス・メディアよりも高いということである。
マス・メディアとパーソナル・メディアの根本的な違いは何か。
それはマス・メディアが「有料頒布」という形態によって、その発信する情報に「市場の淘汰圧」を受けているという点にある。
それしかない。
「この情報になら対価を支払ってもいい」という情報消費者が一定数確保できなければマス・メディアは存立できない。
そのきびしい条件がマス・メディアの発信する情報の質を保証している。
原理的にはそうだ。
けれども、実際にはそうではない。
むしろ、「この情報になら対価を支払ってもいい」という情報消費者のニーズに配慮することで、マス・メディアの発信する情報の質は一貫して低下し続けている。
読者をふやそうとすれば、宿命的にメディアは「よりリテラシーの低い読者」に向かうしかないからである。
「市場の淘汰圧」が必ずしも発信する情報の質を保証しないことは歴史が教えてくれる。
ピュリッツァー、ハーストは19世紀末のアメリカのメディア王だが、彼らは読者拡大のために大衆の好戦気分を煽り、メディアによって形成された世論に抗しきれずにアメリカは米西戦争に突入した。
1911年の日比谷焼き打ち事件は日本のポピュリズムの原点であるが、ポーツマス条約破棄と戦争継続を呼号したのは万朝報と大阪朝日であった。
純粋な愛国心から、あるいは無意識にそうしたのかも知れないが、戦争がもっとも販売部数を伸ばすイベントであることを新聞人が知らなかったはずはない。
「市場の淘汰圧」にさらされるということは、言い換えれば読者が「興奮する素材」を絶えず提供し続けなければ生き残れないということである。
マス・メディアの悲劇的宿命はここにある。
「読者の鎮静」を求める情報をマス・メディアは提供することができない。
メディアは「読者を怒らせる」情報(ともうひとつあるが、これは今回の論件には関係がない)だけを選択的に提供する。
だから、メディアには「正義の名における怒り」を煽る文章が氾濫することになるのである。
「このようなことを許しておいてよいのでしょうか」というのはニュースショーのアンカーマンの定型句である。
「まあ、これくらいの不始末は常識の許容範囲でしょう」というようなコメントをするキャスターは決して画面に登場しない。
そのことを誰も「おかしい」と思わないということそれ自体が日本のマス・メディアの病態なのである。
でも、ご心配なく。
ここで私が「こんなことを許しておいてよいのでしょうか」と言ってしまうとせっかくパーソナル・メディアを営んでいる甲斐がない。
だから、私は「まあ、これくらいのことは常識の許容範囲内でしょう」とにこやかに微笑むのである。
いいじゃないですか、マス・メディアがちょっとくらい「ホット」でも。
ブログで「クール」な情報が読めるなら。
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