なんだか、やたらに次々と取材やインタビューや対談の仕事が飛び込んでくる。
有名人との対談企画がいくつか続けてあったけれども、どれも都合がつかずにお流れとなった。
なんといってもこちらはサラリーマンであるから、業務以外の用事で授業を休講にしたり、会議をフケたりすることはできない。
そういうことをされている同業者もいるようであるが、私はできない。
お給料を頂いている身であるから、やはりお給料をくださっているところの仕事が最優先である。
この原則を崩して、「面白そうな仕事優先」とか「やりがいのある仕事優先」とか「ペイのいい仕事優先」ということにしてしまうと、もう収拾がつかなくなってしまう。
その中で奇跡的に双方の都合がついたのが関川夏央さんとの対談。
これは日曜日帰り仕事(合気道の稽古が終わった土曜午後3時から月曜午後1時半からの部長会までのあいだの46時間半が私に残された唯一の「隙間」なのである)。
関川さんとはこれまでに二度会っている。
最初はラジオカフェのお仕事。お茶の水ホテルで神田茜さん、ヒラカワくん、キクチさんとのおしゃべりを録音した。
二度目はつい先日、そのラジオカフェの創立記念パーティで、『私家版・ユダヤ文化論』について、涙が出るほどうれしい感想を頂いた。
またお会いして、こんどは文学や映画の話をしたいなあと思っていたら、『S』という雑誌から対談企画が飛び込んできたので、渡りに船。
それと前後して別口のK社から「文学をめぐる対談本を出しませんか」という企画がきたので、「関川さんとおしゃべりしたのを本にするというのなら、いいですよ」と逆提案したら、話が進み出した。
まとまるとよいのだが。
今日は卒業式。
私は職務として卒業式と入学式には「マタイによる福音書第22章34節以下」を拝読することになっている。
水を打ったように静粛な講堂の壇上で聖句を朗々と読み上げるのはたいへんに気分のよろしいものである。
賛美歌を歌うのもよいものである。
私はノン・クリスチャンであるから本学に赴任するまで賛美歌を歌ったことなど一度もなかった。
それがここに着任するや、入学式で司式者のチャプレンに「ではご起立願います」と促されて、あわてて立ち上がると周りから「昔主イェスの撒きたまいし、いとも小さき命の種」と大合唱が始まった。
おおお、これがミッションスクールというものかとたいへん感動したことを覚えている。
私はノン・クリスチャンではあるけれど、宗教心の旺盛な人間であり、およそ人間が神を敬うすべての儀礼に対して好意的である。
キリスト教の儀礼にはなじみがなかっただけで、知ればこれはなかなかにスタイリッシュなものである。
卒業式だの入学式だのというものは、私自身は高校の入学式以来出た覚えがないが、娘の入学式・卒業式はつごう6回参列し、そのたびに来賓の半チクな精神訓話を聞かされたり、気まずい雰囲気で国家斉唱をさせられたりしてあまりよい記憶がなかった。
その点ミッションスクールはおおらかである。
主は国民国家なんか眼中にない。
式の最後のチャプレンによるいさぎよい祝祷を受けて、後奏のパイプオルガンの音が講堂を圧するとき、私はいつも軽い戦慄を覚えるのである。
この儀礼に参列するのも残りあと4回である。
4回目の卒業式は私自身もこの大学を卒業するときである。
90年の四月にはじめてこの壇上の最後列の椅子にすわっていたときは、私は自分がいずれ『マタイによる福音書』を拝読し、賛美歌を声の限りに歌い上げ、残りの卒業式の数を指折るような人間になろうとは想像だにしていなかった。
Comme le temps passe vite!
今年は合気道部とゼミに多数の卒業生を数える。
名前を呼ばれて壇上にあがり、川合学長から学位記を受けとるひとりひとりの顔を見る。
みんな頬を誇らしく紅潮させていて、それがとても美しく思えた。
みなさん、ご卒業おめでとう。
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(2007-03-16 19:56)