中国行きのスピードボート

2007-03-11 dimanche

諸君、喜んで欲しい。
ついに『街場の中国論』を脱稿した。
極楽スキーに行く前日に新潮社に『逆立ち日本論』(仮題)の初校を戻し、極楽スキーから帰った翌日にミシマ社に『街場の中国論』の初校を戻したのである。
「極楽」というルアーがどれほど私の生産性を底上げするか、この一事を以て知れるであろう。
編集者諸君は「ウチダは責めて叩けば何とかなる」と思っておられるようであるが(それは部分的にはたしかに事実なのである)、ほんとうは「ウチダは楽をさせて遊ばせておくに限る」のである。
そうして放っておくと、私はいずれ「おっとこうしちゃいられない」と、いつもの貧乏性の馬脚を現して、頼んでもいない仕事までやってしまうのである。
私を働かせようと思ったら、簡単である。
「あ、センセイの原稿ですか? なもん、いつでもいいですよ。どうせ、是非とも読みたい人がいるってわけじゃないんだし、はは」
と言っていただければ、よろしい。
諸君はただちに彫心鏤骨、一行一行に血のにじむようなテクストを短期的かつ確実にゲットされるであろう。
もちろん「あ、そう」と静かに電話を切って、そのままご縁がなくなる可能性もゼロではないが、別にそれで誰が困るというわけでもない。
とにかく、これで2005年から2年越しの中国論が片づき、養老先生との(これは3年越しになるのかしら)対談本が仕上がり、私は久しぶりに深い深い安堵のため息をついているのである。
やれやれよかった。
養老先生との本は「養老先生の本である」というだけでただちに購入という忠誠心篤い読者が50万人ほどおられるので、私は相槌を打つだけでベストセラーリストに名が列されるという余沢に浴するのである(それにつけても養老先生は本日の毎日新聞では『狼少年のパラドクス』を書評してくださり、『中央公論』では『下流志向』を縦横に分析してくださり、さらに「詳細について知りたければ、本を買って読みなさい」と販促にまでご配慮くださり、今後私は鎌倉および仙石原方面に足を向けて寝ることはできぬのである)。
だが、中国論はそうはゆかない。
これが売れないと立ち上げたばかりのミシマ社の財務内容にダイレクトにかかわる。
売れねば困る。
私は困らないが、ミシマくんが困る。
新婚だし。
「あなたって、ほんとうに甲斐性のない男ね」というようなことばが(もちろん慎み深く口には出さぬであろうが)、マダム・ミシマの念頭に一秒でも兆すことは年長の人間としてぜひとも回避していただかねばならぬ。
というわけなので、みなさん、この本だけは他を措いても買っていただきたい。
文春や角川や新潮のような大店は一冊や二冊本が売れなくても痛くもかゆくもないが、手売りの小商いをしている出版社にとっては死活問題なのである。
それに、この本は面白いのである。
書いた私が言うのだから信用して欲しい。
書いた私がゲラを読みながら、「おお、そうだったのか。中国というのはそういう国であったのか・・・」と何度も頷き、思わず自分のゲラに赤鉛筆で線を引きたくなったくらいである。
ということは、ここに書かれていることのかなりの部分は「私の考えではない」ということである。
それが私自身の考えであれば、私とて年を経た狐狸である。自分が何を言うかくらいのことは先刻承知の助である。
その老狐ウチダが「先が読めない」と思うのであるからして、これは「どこか」から到来した考想に相違ない。
だが、その「どこか」は、いかなる既存の中国論でもない(それなら「ああ、あの話か」と私にだってわかる)。
私が「出典がわからない」と言っているのだから、これは「出典のない外部」に取材したものと考えるのが論理的であろう。
「出典のない外部」とは一体なんであろう。
それは2年にわたって中国関係の資料を読んできた私が作り上げた「幻想の中国人」の語った言葉ではないかと思われる。
「彼」はおそらく私が日本について語るときと同じような語法を用いて中国について語っているのである。
中国は彼の母国である。
「彼」は母国を愛しており、強い帰属感を覚えているが、その制度や人々のすべてを「よし」としているわけではない。
まったくろくでもない国だぜ・・・と「彼」が折に触れ感じることは誰にも止められない。
けれども、「彼」はそれを誰かのせいにして、「・・・を倒せ」というような戦闘的文型を採用することは自制する。
「彼」自身がひさしくその国のフルメンバーであり、さまざまな機会に批判的発言を口にし、制度のインサイダーとしてできるかぎりの改善努力をしてきたあげくに現在の中国がある以上、「この中国」は部分的には「彼」自身の「作品」でもある。
それを一言で否定することはできない。
なんとかしなくちゃなあ・・・と思いつつ、それにしてもどうして「こんなこと」になってしまったのか・・・と「彼」は中国の来し方について思念を凝らす。
そんなふうに私が想像的に構築した「ヴァーチャル中国人」のモノローグというふうに理解するとこの本の感じが近似的に想像できるかもしれない。
刮目して待つべし。
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