ついにロレンス・トーブさんに会う

2007-02-20 mardi

また東京出張。
多田塾研修会にプラス仕事が三つ。
研修会で多田先生と呼吸合わせをしているうちに「ミラーニューロン」が活性化してくる。
この訓練法が脳科学的に意味することが何となくわかってくる。
他者の体感との同調と、私自身の他者化である。
「他者の体感との同調」というのはご理解いただけるであろうが、「私自身の他者化」というのは聞き慣れない言葉である。
それをご説明しよう。
鏡像段階というのはラカンの有名な理説である。
人間の子どもはある時期鏡につよい関心を持つ。
もちろん子どもには鏡像という概念がないから、そこに映っているものが何であるかわからない。
けれども鏡の前で手足を動かしているうちに、自分の手足と鏡像がシンクロしていることに気づく。
どうして「シンクロしている」ことがわかるのか。
これはミラーニューロンの働きで説明ができる。
つまり、「何か」が動くのを見ていると、見ている人間の脳の中では必ずその動作にかかわる神経細胞が活性化する。
ひとがボートを漕いでいるのを見ているだけで、「ボートを漕ぐ」ために必要な筋肉や骨格を働かせる神経細胞が点火する。
いわば他人の身体の中に入り込んで、それを内側から想像的に生きるようにするのがミラーニューロンの機能である。
鏡像の動きを見ている、見ている人間のミラーニューロンが点火する。
鏡像の内側に入り込んで、それを想像的に生きるようになる。
その想像的体感があまりに自身の現実の体感と一致するので、想像なんだか現実なんだかわからなくなる。
鏡像を経由して自分の身体に入り込んでいるわけであるから、入り込んだ先が「まるで自分の身体みたい」に感じられるのは当たり前と言えば当たり前である。
ラカンは「私の機能の形成過程としての鏡像段階」の中でこう書いている。

「身体の全体形-主体はそれを経由して幻影のうちにおのれの権能の熟成を先取りするわけであるが-はゲシュタルトとして、すなわち外部を通じてしか与えられない。」(Écrits I, p.91)

人間は自分の身体の全体像を見ることができない(肉眼で見えるのは手足と胴体の一部だけである)。
しかし、鏡像はそれを一挙に与えてくれる。
私は鏡像を経由してはじめて私の全体像を手に入れ、私が社会の中で他の主体たちと取り結ぶ関係を俯瞰する視座に立つことができる。
鏡像はつねに私の外部にあるのだから、私がそれに一体感を感じるということはありえないのだが、その私の外部にある像と自己同一化することで、私は「私の権能の熟成」を前倒しで手に入れることができる。
その「全能感」という報酬が外部にある像との一体化という「命がけの跳躍」を動機づけるのである。
私たちが武術の稽古で行っている「見取り」とか「うつし」というのは、この鏡像段階を強化したものと考えることができる。
師の動きは弟子の動きよりもはるかに雄渾で流麗であるが、弟子はそれをトレースしているうちに、師の姿のうちに自分の「おのれ自身の熟成を先取り」するようになる。
それは強烈な全能感を弟子にもたらす。
師という他者のうちにおのれの自己同一性を仮託するのである。
だから、師匠が「はっく」とくしゃみをしかけたら、弟子の方が「しょん」と引き取るというような同一化が起きる。
他者と同一化する能力と自己を他者に転写する能力の二つはよく考えれば同じ「チャンネル」を使う仕事である。
共感能力とかシンパシーということはわかりやすいけれど、その能力が自分を他者として見る、自分を含んだ風景を俯瞰的に見る、他者との関連のうちに位置づける能力(マッピングあるいはスキャニング)と同質のものであるということはあまり理解されていない。
多田先生の合気道の稽古が「呼吸合わせ」と「足捌き」に例外的に長い時間を割く理由がふとわかったような気がした。
呼吸合わせは師との体感の同調の稽古であり、足捌きは上空の「幽体離脱」的視点から自分の動きを見る稽古である。
だとすれば、この二つはまったく同じ脳内部位(ミラーニューロン)の活性化にかかわる稽古だったということになる。
けれども、理屈がわかるということと身体が動くということは別の話で、稽古の終わりに座技で坪井先輩と組んでしまった。
ふだんほとんど受け身を取る機会がないので、先輩にがっつんがっつん投げられるとあっという間に息が上がってしまう。ひさしぶりに大汗をかく。
工藤くんご夫妻たち気錬会の諸君とおしゃべりしながら新宿駅まで歩き、学士会館に戻って朝日新書の石川さんと打ち合わせ。汗をかいた後なのでビールが美味い。

爆睡して、翌日は朝から新潮クラブで『考える人』のためにラリー・トーブさんと対談。
トーブさんのことはこれまでこのブログに何度か書いたけれど、The Spiritual Imperative というまことに面白い本を書かれた未来学者である。
世界史は「霊的=宗教的段階」(バラモン)「戦士的段階」(クシャトリヤ)「商人的段階」(ヴァイシャ)「労働者的段階」(シュードラ)のヒンドゥー的カーストの四段階を経由して進むという「あっ」と驚く Big picture である。
とにかくトーブさんは話が面白い。
現代社会についての質問にも「それはそもそも・・・」と古代から語り起こして、いつのまにかちゃんと答えてくれる。
「視野の広い人」という言い方をするけれど、トーブさんほど視野の広い人は珍しい。
強記博覧というのとはちょっと違う。
トーブさんが挙げる事例の多くは「言われてみれば、私も知っていること」である。
ただ、それを関連づける手際がみごとなのである。
その問題を論じるときに私なら「視野の外」に置いてしまう事例まで「視野の中」に取り込んでしまう。
大瀧詠一さんにも通じる「関連性を発見すること」へのひとかたならぬ熱情がトーブさんの知性を駆動している。
5時間にわたってえんえんとおしゃべりする。
トーブさんは英語でしゃべり、私は日本語でしゃべる。
トーブさんの英語はとてもわかりやすいので、ヒアリングはノー・プロブレムであるが、私は「口から先に生まれた男」であり、その饒舌を英語で繰り出すだけの英語力はないので、通訳の齋藤聡子さんのお世話になる。
自分のしゃべっていることをこれほどみごとな英語にしてもらったことがないので、びっくり。
「ああそうか、そういえばいいんだ!」と司会のアダチマホさんと何度も顔を見合わせる。
途中から合気道の話やユダヤ人の話になる。
『私家版・ユダヤ文化論』をトーブさんはお読みになっているのだけれど、日本語を読むのは苦手なので、ずいぶん前に読み始めたけれど、まだ読み終わらないそうである。
トーブさんはユダヤ人である。
あの本をユダヤ人の読者が読んだらどう思うかとても興味があったので、「こういう内容のことが書いてあるんですよ」と解説をする。
「へええ、そんなこと考えたこともなかったなあ・・・でも、そうかもしれない。う〜ん、そうか・・・」とトーブさんは面白そうに聞いてくれた。

午後3時で対談を切り上げて、今度は音羽の講談社へ。
紀伊国屋で販促活動に使うサイン本200冊にネコマンガを描きに行く。
『下流志向』はここまでのところ5刷6万部。
私の書いた本としてはもちろん最大のセールスである。
まだまだ行きますよ・・・とオワザさんオカモトさんは強気である。
200冊描き終えて、ご褒美にフレンチをごちそうになり、7時過ぎの新幹線に乗ってよろよろと芦屋に戻る。
ふう、疲れた。
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