社長目線

2007-02-05 lundi

『下流志向』が順調に売れているようである。
アマゾンのベストセラーランキングでは54位。bk1は2位。
どうしてこれほど違うのかよくわからないが、とにかく売れていることは間違いないからよいのである。
この本は自分で言うのもなんだけれど、ぜひ国民のみなさんにに読んでいただきたい。
一人の人間といっても、いろいろな「ありよう」がある。
政治的立場とか食べ物の好き嫌いとか死生観とか性的好尚とか。
例えば「私は革と生ゴムと少女切腹が好きです」みたいなカミングアウトをするとき、「国民のみなさん」というような呼びかけは選択されない。
もう少し脳内のグルーミーな部位めがけて言葉は発信される。
実際には同じ読者を相手にしていても、めざしている脳内部位が違うということはある。
私がふだん書いているものも、どの脳内部位を照準しているかは一冊ごとに微妙に違う。
今回の『下流志向』は『先生はえらい』と内容はほとんど同じと言って過言ではない(多少過言)ではあるけれど、標準している脳内部位が違う。
『先生はえらい』は「中高生」向きに書いているので、「え〜、なんで勉強しなくちゃいけないの。ガッコなんてつまんね〜よ」というような「だりー若者」的思考を司る脳内部位向けにピンポイントされている。
それにくらべてこの『下流志向』はもとがトップマネジメントカフェという経営者セミナーでの講演であるから、「社長相手」モードで理論展開がなされているのである。
つまり、「あ〜、学力崩壊とかニートっていうんですか? なんか、そういう困った現象があるようですな。もちろん、当社にはそんな不細工なものはおりませんが。ははは。ま、親御さんとしちゃ、そりゃご心配ですわな」という社長的思考を司る脳内部位(以下同文)。
そして、驚いたことに読者の中の「中高生的要素」に照準した本より、「社長的要素」に照準した本の方が売れ行きがよいのですね、これが。
不思議だと思いません?
だって、誰だって一度は中高生であったことがある(小学生はこれからね)が、社長になったことのある人間はそれほど多くはないからである。
どうして、自分がそれでないような読者に向けて書かれたものを人々は好むのであろう?
ニート問題を「ニート目線」で書いた本はけっこうたくさんある(私もいろいろ読みました)。
だが、たぶんニートの諸君はこれらの本を読まないであろう。
「なこと言われなくてもわかってるよ」というトゲトゲしい気分になるからである。
翻って、ニートを家族にかかえる方々は読むであろうか?
これもおそらくあまり進んでは読まないであろう。
内容があまりにリアルであるので、さらに息苦しくなること請け合いだからである。
その点、「社長目線」で教育崩壊とニートを論じた本というのは、モーツァルトを聴いてカフェラテなんか飲みながらでも「ほうほう、なるほど。日本はそういうことになってるわけね」と読める。
扱っている問題は深刻かつリアルなのだが、問題をとらえる文脈が、「その問題がもたらす社会的コストをどう分配するか」というたいへんビジネスマインデッドなものだからである。
「社長さん」たちというのは、他人(つまり、ビンボー人)が彼らに押しつける社会的コストの構造的な負担者という自己認識を持っている。
この「社会的コストを押しつけられる側からするところの、社会的コスト削減策の吟味」(というのを『下流志向』ではしているわけなんですよ)は、まるでファナティックでもないし、イデオロギッシュでもない。
「ホースラディッシュの美味しい食べ方」とか「換気扇の汚れのすばやい落とし方」について論じているのとクール度においてはあまり変わらない。
クールかつデタッチドな「見下ろし目線」が構造的にビルトインされているのである。
だから、読んでも読者の方々はあまり興奮しない。
この「想定された読者」に擬制された立ち位置と扱われている問題の「距離感」がどうやら読者の琴線に触れているように思われる。
現に、アマゾンのトップセラーランキングに出ているのは、「年俸五億円の社長が書いた儲かる会社の凄い裏ワザ」「億万長者を産んだ男」「できる人の勉強法」「人を動かす」「仕事のスピードをいきなり3倍にする技術」といったタイトルの本ばかりである(あとはマンガとアイドル本)。
だが、いったい日本に年俸五億円の社長が何人いるであろうか?
ということは、この本はそのような方々を読者に想定しているわけではないということである。
年俸500万円のサラリーマン諸氏がこれを読んでいる。
私はそれが滑稽だと言っているのではない。
つまり、これは「年俸五億円目線に同調した気分」を売っている商品だということであり、それが売れるということはそのような商品についての需要が現に存在するということなのである。
この手のビジネス本の真の売り物は「他者の目線」なのである。
これは決して悪い商品ではないと私は思う。
「五億円社長本」がサラリーマン向けであるように、「社長目線」の本は「国民のみなさま」向けの本である。
というのは、「国民のみなさま」というのは、(「有権者のみなさま」や「納税者のみなさま」と同じく)、世事を高みから見下ろすことのできる特権的で幻想的な視座だからである。
たまには自分の等身大を離れて、同じ問題を少し「体温の低い」視座に立って吟味した方がいいと思う。
それゆえ私は本書を「国民のみなさま」にご推奨するのである。

日曜は下川正謡会の新年会。
私は舞囃子『鶴亀』と素謡『花筐』のワキ。
あとは地謡。『神歌』、『敦盛』、『藤戸』、『安宅』、『放下僧』、『鉢木』、『源氏供養』、『道成寺』、『高砂』、『松風』、『砧』、『西行桜』。
ほとんど舞台に出ずっぱりである。
地謡のほとんどはまだ習っていないものである。
謡本を見ながら必死で地頭の下川先生について謡うのである。
この「ついて謡う」というのがたいへん気分のよいものなのである。
謡本を見ながらひとり謡おうとするとうまくゆかないのであるが、横にいる地頭の吸う息吐く息にあわせ、その内臓の収縮や脈拍や筋肉の緊張に細胞レベルで同調しようとしていると、時折ぴたりと息が合う瞬間が訪れる。
この地謡全員が「ぴたりと息が合う」経験の身体的な高揚感というのは、なかなか言葉では説明しがたいものである。
やはりこれは「コヒーレンス」の一形態と呼んでよろしいのであろう。
私が武術的な探求心から能楽を学び始めたのは、やはり間違っていなかったのである。
今回は「合気道軍団」はウッキーが『斑女』、飯田先生が『胡蝶』、ドクター佐藤が『敦盛』と舞囃子三番。大西さんが仕舞『船弁慶』。
みなさん堂々たる舞台でありました。
番組最後は若手三人の『安達原』(鬼婆がドクター、客僧が飯田先生とウッキー)でおおいに盛り上がった。
エロス的要素抑えめの、どちらかというと活劇的な躍動感あふれる『安達原』でありました。
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