私家版・新春放談

2007-01-05 vendredi

1月3日は恒例のお年賀で多田先生のお宅に伺う。
先生のお宅に向かう前に、吉祥寺でるんちゃんと待ち合わせをして、「お年玉」を差し上げ、かねて久闊を叙す。
るんちゃんは高円寺のリサイクルショップでバイトをしているのであるが、そのお店が朝日新聞の元日の一面記事に取り上げられたそうで、思いがけなく「時の人」の関係者なので、ちょっとだけ自慢そうであった。
このリサイクルショップの原理はいまどきまことに珍しい「左翼の貧者救済ネットワーク」である。
21世紀の日本人は「弱者ベース」「飢餓ベース」での生活設計が必要である、というのが私の年来の(昨年来くらいだけど)持論であるのだが、さすがわが娘、父の著作を読まなくても、その説くところは先取りされていたのである。
「貧乏ですけれど、それが何か問題でも?」という構えを私は「貧乏ベース」という概念に託しているわけであるが、るんちゃんたちはそのあたりの消息をよくご理解されているようである。
なにしろ、るんちゃんと「よーよーちゃん」(誰ですの?)のユニットの名前は「貧乏屋敷」というのだから。
るんちゃんたちはその貧しいリソースを持ち寄り、分かち合い、フレンドリーな相互扶助共同体を築いている。
私が「たまには芦屋に遊びにおいでよ」と言ったら、困惑した顔をしている。
「四五人いっしょでもいいかな?」
え? 四五人ですか・・・そ、それは・・・
うちの部屋に四五人を容れる余裕はないけれど、そういうふうにぴったりと身体を寄せ合って生きることで、都会での孤独の生活が伴うリスクをヘッジしているというのはたしかな生活の知恵であると思う。
老いたりとはいえ、私もマルクシアンである。「万国の労働者、団結せよ」という『共産党宣言』のスローガンに対する共感は変わらない。
若き労働者諸君には何よりもまず貧しい者同士で支え合うという基本から出発して欲しいと思う。
貧しい仲間の中の誰かがチャンスをつかんだら、そこから「芋づる式」にその「余沢」に与るというのが貧者のリスクヘッジの基本である。
とりあえず私たちはそうしてきた。
自分が手に入れたものはできるだけみんなで分かち合う。
自分が獲得したコネクションは次にパスする。
自分が切り開いたビジネスチャンスには友人たちを巻き込む。
この原理を30年来律儀に実践してきたという点において、平川くんや私はその語の語源的意味における「コミュニスト」(コミューン主義者)と名乗る資格があるだろう。
フェアな社会を希求することは大切だし、行政に対して弱者支援を求めることもたしかに必要だ。
けれども、その前にまず貧しいもの同士、弱いもの同士で支援し合い、扶助し合うことの方が緊急だろうと思う。
誤解する人がきっといるだろうからもう一度言うが、それは社会がアンフェアでよいということでも、行政が弱者を切り捨ててもよいということでもない。
社会制度がフレンドリーなものに変化するまでには必ずタイムラグがある。その期間は、ひとりひとりがその隣人に対してフレンドリーであることしか具体的にリスクをヘッジする方途はない。
理想的な社会を希求するのはよいことである。
けれども、他人に向かって「お前は理想社会を希求していない」と言い立てる時間があったら、まず自分の身近な現実でささやかなりとも隣人への援助にリソースを割くほうが世界を住み易いものにするためには実効的であると私は思う。
そのことを多田先生は「脚下照顧」という言葉に託して教えられたのだと私は思っている。

るんちゃんと別れてから、少し遅れて到着。
多田先生に年頭のご挨拶。
工藤くん、のぶちゃん、K 野くん、王子、山キョー、アッシーらいつもの気錬会の諸君、かなぴょんとウッキーも来ているので年賀のご挨拶を交わす。
恒例の多田先生お手製の鶏のお雑煮(天狗舞じゃぼじゃぼ)を頂き、先生の秘蔵のワイン、ブランデー、日本酒、シャンペンなどをがぶがぶ飲みつつ談論風発。

明けて4日は恒例の湯元温泉極楽ツァー。
宿につくとすぐ携帯に大瀧詠一師匠からお電話がある。
メールを書いたのだけれど、あまりに長文になったので、電話することにしたというご説明である。
電話口からの師匠のお言葉を拝聴する。
ナイアガラーでない人には想像しにくいであろうが、ジョン・レノンから電話がかかってきたとか、古今亭志ん生から電話がかかってきたときの「畏まりぶり」をご想像願いたいと思う(どちらも物故者なので、その点の驚愕は割り引くとしても)。
ナイアガラーの皆さんには「『新春放談』を山下達郎になって聴いている状態」と申し上げれば、私がどれほど緊張して受話器に向かっていたかご想像頂けるであろう。
元日に私がブログ日記に柴五郎のことを書いたのだが、大瀧さんも実は柴五郎には因縁の浅からぬ人だったのである(詳細は割愛)。
そこから「東北」の話になる。
先年「鈴木晶先生のところのワインセラーを飲み干す会」の席で、高橋源一郎さんと加藤典洋さんと私が「山形がらみ」であることが発覚した。
大瀧さんと山下達郎さんが「伊達藩・南部藩つながり」であることはナイアガラーには周知されていることであるが、どうやら明治維新以来、日の当たらない東北人の「敗者のエートス」はいまだ消滅することなく、脈々と継承されているようである。
大瀧さんによると、大晦日の紅白に東北出身の歌手はゼロだった由。
甲子園の優勝旗が「白河の関」を越えたことがないというのも知られざる歴史的事実なのである。
ブログで公言していることもあって、「私、実はナイアガラーでして・・・」と仕事の話が済んだあとにひそひそとカミングアウトされることはままあるのだが、最近はそれに加えて「実は、私、庄内藩で・・・」というカミングアウトに遭遇する。
維新以来140年、いまさら「庄内藩です」という名乗りにどのようなアイデンティフィケーションの意味があるのかわからないが、それにもかかわらず「お、庄内藩ですか・・・お互い戊辰ではつらい目に遭いましたなあ」とつい手を握り合ってしまうというのはいったいどのような記憶装置のなせるわざなのであろう。
おそらく、人間は勝利の記憶よりむしろ敗北の経験を深く記憶にとどめ、後代の人々は勝利の経験よりももむしろ敗北の経験の方から豊かな知見を汲みだすからであろう。
大瀧師匠から「福生のスタジオが完成したので、石川くんと一緒に遊びに来てください」とお誘いを頂く。
これはナイアガラーにとっては、エルヴィスから電話がかかってきて「サン・スタジオに遊びに来てよ」と言われたくらいの大事件なのである(エルヴィスに呼ばれた場合は「あの世」に行かねばならぬが)。
新年早々、『新春放談』の放送前に師匠の生声を聴くことができようとは。
まことによい正月でありました。
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