白川静先生が10月30日に亡くなった。
享年96歳。
白川先生の漢字学三部作『字統』、『字訓』、『字通』はそれぞれ先生が74歳、77歳、86歳のときに完成した。
私ごときが五十路をいささか過ぎたあたりで、「もうおおかたの仕事は終えたし、余生は雑文を草して、世間のお邪魔にならないように生きたい」などと口走るのは「100万年早い」ということを痛切に感じさせる偉大な業績である。
『字通』を私はつねに書き物机の上に置いてある。
漢字の原義(に限らず、なにごとにおいても「起源のようす」)について知りたくなるのは子どものころからの私の癖である。
この幼児的で法外な好奇心をつねに満たしてくれる思想家として私が名を挙げることができるのは、マルクス、フロイト、レヴィ=ストロース、そして白川静の四方である。
この四人の共通点は、「人間の諸制度はそもそもどういうところから始まったのか?」という起源にかかわる問いから決して目を放さなかったことにある。
人間社会の起源には非文化から文化に「テイクオフ」する瞬間の劇的な快感が存在する。
別にその場に居合わせたわけではないから、断言するのは憚られるのであるが、たぶんそうだと思う。
文化とはこの浮遊するような快感をもう一度味わいたいと願った人々が反復した行為が集団的に模倣され、やがて制度化したものである。
だから、人間的諸制度の基本には「気分を高揚させる」か、または「悪い気分を抑制する」身体的実感があったはずである。
そうでなければ、文明が始まるはずはない。
白川先生の漢字学は、古代中国においては、地に瀰漫していた「気分の悪いもの」を呪鎮することが人間たちの主務であったという仮説の上に構築されている。
古代の人間はそのほとんどの時間とエネルギーを「邪気」を祓うために費消していた。
それが有名な白川先生の「サイ説」である。
「サイ」というのはこのフォントでは再現できないけれど、英語のDの弧の部分を下向きにしたかたちである。
この文字を後漢の『説文解字』以来学者たちは「口」と解した。
白川先生はこれを退け、これが呪具の象形であるという新解釈を立てた。
「この基本形であるサイの従来の解釈が誤りであるとすれば、その系列に属する数十の基本字と、その関連字とは、すべて解釈を改めなくてはならない。誤解のもとはサイを口の単なる象形と解し、文字映像におけるその象徴的意味を把握しえなかった点にある。」(白川静、『漢字百話』、中公文庫、2002年、41頁)
白川先生によればサイとは「のりとを入れる器」である。
だから「告」は「木の枝にかけられたサイ」である。ゆえに、「告げるとは神に訴え告げることである」。
サイを細長い木につけてささげると「史」になる。
聖所に赴くときは、大きな木にサイを著けて吹き流しを飾り、奉じて出行する。
「呪」はもともと「サイ」と「兄」の合字である。
兄は祝祷の器サイを奉じて祈る人をいう。
古代中国における戦いはなによりもまず呪術による攻防として行われた。
「呪術の目的は攻撃と防禦にある。その最初の方法は呪的な言語によるものであったが、それが表記形式に定着したものが文字であった。開かれた祈りは告であり、隠された祈りは書である。攻撃と防御の方法は、その呪能を託されている祝告の器であるサイに対して、加えられるのである。」(同書、44-45頁)
それゆえサイにはさまざまな武具が防禦のために動員された。
サイに鉞を加えると「吉」(呪能をここにとじこめる)になる。
盾を加えると「古」(固く永続する)になる。
戈を加えると「咸」(完全に終わる)となる。
「みなその祝告の呪能を保全するための防禦的方法である。」(45頁)
一方、敵対する陣営の呪能的防衛戦を破るためにはサイを汚す文字が用いられる。
「舎」(すてる)と「害」(そこなう)はいずれも「長い刃をもって器を突き通す形であり、そのような方法で呪能は失われると考えられた。」
サイに水をかけることも呪能を奪う方法であった。
だから、「沓」は「サイに水をかけ、加えて踏みつけること」である。
古代中国の呪術戦争はこのように呪具と漢字によって展開したというのが白川先生の説である。
古代中国社会に濃密に漂い、リアルに人を撃ち殺すだけの力をもっていた呪能とそれを統御するダイナミックな力をもつ文字についての物語を読んでいると、私は胸がどきどきしてくるのを感じる。
白川先生の漢字論は「コミュニケーションの道具としての言葉」という功利的言語観と隔たるところ遠い。
私たちが言葉を用いるのではなく、言葉によって私たちが構築され変容されてゆく。
白川先生はそう教えた。
この言語観はソシュール以後の構造主義言語学やレヴィ=ストロースやジャック・ラカンの構造主義記号論と深く通じている。
そういう意味で白川静先生は「日本を代表する構造主義者」と呼んでよいのではないかと私は思っている。
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フジイくん、いつもどうもありがとう。
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(2006-11-06 12:34)