江さんが来る

2006-10-17 mardi

クリエイティヴ・ライティングの三回目(私は柏原高校で一回お休みしているので、実質二回目)。
今回のゲストスピーカーは140Bの江弘毅さん。
文春のヤマちゃんも来ていて、賑やかである。
江さんにエディター、ライター希望の学生たちに対して、書くこと編集することの基本について現場の知見をたっぷり語っていただく。
コミュニケーションはコンテンツではなくコンタクトだ(あら、マクルーハンじゃないですか)というお話。
難波江さんと三人で途中から乱打戦となる。
あんなに早口でしゃべって、学生さんたちはご理解いただけたであろうか。
終わったあと、途中から駆けつけたM島くんをまじえて「花ゆう」でプチ打ち上げ。
江さんのひさしぶりの「江節」を日本酒でほろ酔い機嫌に拝聴する。
トム・ウェイツのブルーズを聴きながらバーボンを飲んでいるような感じである。
江さんの話術はここちよい音楽性がある。
音の高低もリズムも、ちょっと哀しい話に転調しても、最後に「ばはははは」と笑いはじけるところも、どこも音楽的である。
本日のお支払いは文藝春秋さまでした。
一同紀尾井町方面にむかって柏手を打つ。

池田清彦さんの本を集中的に読む。
実は最近まで「生物学の人で養老先生のお友だち」ということしか知らなかったのであるが、その池田さんが編集をする『現代のエスプリ』から原稿を頼まれたので、「構造主義生物学」というものについて基礎知識を仕入れなければならなくなった。
とはいえ、急ぎに仕事が(ニート論と中国論と身体論を同時に書いてたんですよ)目白押しに立て込んでおり、『現代のエスプリ』の原稿を書く前には結局池田先生の本には一冊しか目を通すことができなかった。
それがやたらに面白かったので、原稿を書き終えたあとになって、アマゾンでまとめ買いをして端から順番に読んでいる。
どれも面白くて、風邪でぼおっとした頭でもすらすら読める(すばらしい)。
今まで読まずに来たとは不明の限りである。
少し前にその池田先生と養老先生と加藤典洋さんと甲野善紀先生が「宴会」をするからウチダさんも来ませんかというお誘いを頂いたことがあった(誰からのお誘いであったのであろう。新潮社のアダチさんかな)。
濃いですね〜。
『現代のエスプリ』に頼まれたのは「構造主義から見た構造構成主義」というタイトルのものだったのだけれど、「構造構成主義」については勉強が間に合わなかったので、「構造主義から見た構造主義」というようなわけのわからない原稿を送ってしまった。
ダメだったらボツにしてくださいと書き添えておいたが、その後何も言ってこないところをみるとボツになったのかもしれない。
そんなことはどうでもよろしいのだが、池田先生の書くものはどれも面白い。
ツイストの効き方が養老先生にちょっと似ている。
ゆうべ読んだのは『生きる力、死ぬ能力』(弘文堂)で、これはおもに進化論の話。
とりわけ面白かったのは古細菌と真正細菌の話。
真正細菌はコレラ菌とか大腸菌で古細菌とは別のグループ。
その古細菌の中にどこかで真正細菌が入ってきた。

「もしかすると古細菌が食べようとしたのかもしれません。しかし、食べようとして中に取り込んだのだけれど、うまく消化しきれずに中に入ったやつはずっと生きていた。入ってきた方もホストを食い尽くしたりしないで、お互いにパラサイト、ホストの関係のようになって共生をはじめて、お互いに自分たちの機能を補填しあいながら、新しいシステムを作ったわけです。それが、言ってみると我々の細胞なのです。これはアクシデントの結果、進化したのです。突然変異と自然選択で進化したということとは全然違います。」(161頁)

真正細菌でいちばん有名なのはミトコンドリア。
これは生物の呼吸を司っているから、ミトコンドリアがいなければ、生物は存在しない。
それから葉緑体。これは植物にしかないけれど、葉緑体がなければ植物がない。植物はすべての生物の餌だから、これがなければ生物は存在しない。
つまり、生物の起源は「異物を食べたけど消化できなかった」というアクシデントだったらしい。
共生説を最初に発表したのはマーギュリスというアメリカの女性生物学者だが、彼女はなんとジャーナルに15回掲載を拒否されたそうである。
いまはいろいろな証拠が出てきて、マーギュリスの共生説が定説になりつつあるらしい。
佳話である(15回拒否された、というところが)。
私はちょうど「複素的身体論」というのを書いたところで、これは岩波から11月から順次刊行される「身体のレッスン」シリーズの中の第三巻「脈打つ身体」に収録されている。(刊行は来年1月ごろ)
この論文では、どのようにして「敵味方」「他者と主体」という二元論を超克して、「敵と味方、他者と主体」を同時に含む複素的な身体を立ち上げるかという武術的な問題を扱っている。
複素的身体を統御する主体を「私」と呼ぶことができるかどうか、これがなかなかむずかしい問題で、今回の論文では深く考究していなかいのであるが、池田先生の本を読んで「ホストとパラサイトの共生」というのがわりと近いかなという気がしてきた。
それからラマルクの進化論であるが、私がむかしから「獲得形質は遺伝する」ということを主張しているのはみなさまご存じのとおりである。
正確に言うと、「獲得形質を遺伝させる能力は獲得形質として遺伝する」ということになる。
メタ獲得形質というか。
変化した形質そのものが遺伝するのではなく、外界の環境に合致して生き残るために自分の機能やシステムを変化させようとするフレキシビリティが遺伝するのではないか。
「変化」ではなく、「変化する仕方」が遺伝する。
だから、進化は爆発的に進行する。
私はそんなふうに考えているのであるが、誰も相手にしてくれない。
今度池田先生にあったら、訊いてみよう。
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